ちょこれーとでーもん、
ちょこれーとでーもん、
このちょこれーとは公爵様へのご進物だよ。
お腹が減るなら失くさずお食べ、
公爵様のバチがあたるよ。
「うーん‥‥‥くっきーもんすたー、とかだったら、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど」
あゆはしきりに首を捻っている。
「本当に、ちょこれーとでーもん、なんているの?」
「あのな。俺が今まであゆに嘘ついたことなんてあったか?」
「うん。いっぱい」
そういう風に笑顔で即答されるのも、何だか寂しいものがあった。
「痛っ! うぐぅ、何するんだよぉ!」
八つ当たり気味にびしっとチョップを入れつつ、俺はあゆに板チョコを手渡す。
もちろん、そこらのコンビニで普通に売ってるただの板チョコだ。何が特別とかそういうことは一切ない。
「まず、今教えた秘密の呪文を唱えながら、これを朝の十一時十一分十一秒ちょうどに冷蔵庫に隠す。後で自分でそれを取り出すまで、隠したチョコは誰にも見つかっちゃいけない」
「え? え、あの‥‥‥うぐぅ‥‥‥祐一くん、もう一回呪文教えて」
「後でな。それで、二日経ってから、夜中の十時二十二分二十二秒に、また呪文を唱えながら冷蔵庫のドアを開けると、このチョコが二枚に増えている」
「でも、どうして?」
「お前そんなことも知らないのか? 昔から冷蔵庫にはそういう魔物が住んでることになってるだろ。ちょこれーとでーもんはチョコが大好きで、でもそのまま食べちゃうと怒られるから、公爵様の分を取っておくために魔法でチョコを増やすんだ」
「んー‥‥‥? あ、それと、どうして十時なの?」
「二十二時だからだ」
「ああ、なるほど」
ぽん。あゆが手を叩いた。納得が行ったようだった。
「でもなんか、やっぱり怪しい気がするんだけど?」
「信じる信じないはあゆの勝手だけどな。俺がわざわざあゆに板チョコ買ってきてやるような優しい奴だとあゆが思ってるなら、信じなくても別にいいんじゃないか?」
意味ありげに言ってやる。当然、そんな胡散臭いモンスターなんか本当にいる筈もない。
「えっ? ‥‥‥じゃあ、じゃあこれって」
だが。効果はてきめんだった。
あゆの目つきがちょっと変わった。何というか、尊敬の念に近い眼差しだ。
この時俺は確信した。釣れた、と。
「それでどうする? 呪文、もう一回聞いとくか?」
もちろん、あゆは頷いたのだった。
そうして、あゆの苦闘の日々が始まった。
どこにあるのかわからないが、とにかくあゆも昼間は学校に通っているらしいから、平日の十一時に家にいることはできない。しかし、休みの日のその時間帯は大体秋子さんが昼食を作っている頃だから、内緒で冷蔵庫に何かを隠すのは難しい。しかも、例えば秋子さんがたまたまその時間帯に買い物に出ていて、しかも名雪も寝ているようなシチュエーションがもしあったとしても、その後俺が冷蔵庫を漁るだけで計画は頓挫する。
つまり、あゆしか知らない別のどこかに冷蔵庫を見つけない限り、最初から成功する筈がないのだった。
‥‥‥台所の近くの廊下をぐるぐる行き来しながら、
「うぐぅ、祐一くん、今度の日曜日に秋子さんとデートしてきてよー」
なんて妙なことを口走るくらいだから、多分まあ、全然わかってないんだろうが。
「祐一、またあゆちゃんからかってるでしょ?」
その後のある日。
学校へ向かう道の途中で、名雪が不意にそんなことを言った。
「は?」
「名雪さん、お休みの日はゆっくり寝ててね、って何度も何度も言うんだよ。言われなくてもお昼くらいまでは起きないって、あゆちゃんだってわかってる筈なのに」
なるほど、そう来たか。
「今度は何をやっているの?」
「おまじないだ。ちょこれーとでーもん、ちょこれーとでーもん、ってな」
「ちょこれーとでーもん?」
首を傾げる名雪の仕種があの時のあゆみたいで、心の中でだけ、俺は少し笑った。
「そうやって唱えながら、板チョコを冷蔵庫に隠しておいて‥‥‥」
かいつまんで概要を説明する。
「もう、嘘ばっかりついて」
名雪は、しょうがないなあの顔で俺を見つめた。
「ま、あゆだって学校行ってるんだから、内緒で隠すなんてできるわけないしな。そのうち忘れるだろ」
「でも、できちゃったらどうするの?」
「俺が探す。見つければアウトだ」
「それも酷いよ祐一」
「じゃあ名雪、もう一枚置いといてやったらどうだ?」
「んー‥‥‥」
突然その場に立ち止まった名雪は、答えるまでの数秒の間に、俺の顔と頭上の青い空を見比べるような仕種を繰り返す。
「そうだね。私は、それも考えておくよ」
名雪につられて見上げた秋晴れの空は、じっと見ていると何だか悲しくなりそうなくらい、青く澄んだ綺麗な空だった。‥‥‥仕方ない、俺も板チョコ一枚買っといてやるか、なんて思ったのは、だから多分、こんな風に空が青かったせいだ。
「祐一さん、起きてますか? お願いがあるんですが」
その次の日曜日は、
「お買い物に行きたいんですが、今日はちょっと荷物が重くなりそうなんです。時間があったら、一緒に来ていただけませんか?」
秋子さんのそんな言葉から始まった。
枕元の時計を見る。名雪に借りた目覚まし時計の針は、思った通り、もうじき十一時になるくらいを指している。今から買い物に出掛けて十一時十一分までに帰ってくるのはまず無理だ。
多分あゆが秋子さんに何か吹き込んだんだろうが、まさか「あゆの邪魔してやりたいので行けません」とも言えない。
「わかりました。今行きますから下で待っててください」
扉の向こうに声をかけて、俺は手早く身仕度を始める。
階段を降りて行く秋子さんの足音に、もうひとつ、廊下を歩いてくる別の足音が重なった。
「祐一、起きてる?」
名雪の声がした。
「起きてたのか?」
「うん。でも私はまた寝ちゃうから、あゆちゃんのことは大丈夫だよ。それより、祐一もチョコ買ってきてあげてね」
言うだけ言うと、名雪は返事も聞かずにぱたぱたと廊下を戻っていく。
俺が嫌だと答える可能性なんて名雪はきっと全然考えてない。一枚が二枚になるおまじないの筈なのに、全部で三枚に増えられてもそれはそれで話が違うような気もするんだが、そんなことも別に気にしてないと思う。やれやれ。
「しょうがないな」
何がしょうがないのかなんて俺にもよくわからなかったけど、とにかく俺は、そんなことを呟きながら部屋の扉を開ける。
買い物篭を提げた秋子さんは、開け放たれた玄関の外側に立っていた。その土間、俺がいるあたりを、台所の入口から顔だけ出したあゆがじっと見つめている。何だか解釈の難しい表情をしていたが、多分それは「ごめんなさい」とか「早く行って」あたりがごちゃごちゃに混ざっているからだろう。
大丈夫だ、と目で合図してから、靴を履き終えた俺は後ろ手で玄関の扉を閉めた。
‥‥‥秋子さんと連れ立って歩く俺の背中の後ろで、やけに大声のあゆが例の呪文を繰り返す声が聞こえた、ような気がした。
そして二日が経つ。
その晩は何となく、夕食後も四人揃って居間でテレビを見ていた。九時を過ぎた頃に名雪が居間から引き上げ、必要以上にそわそわしているあゆを置いて、俺もその後を追う。
去り際に台所に寄って、大きい冷蔵庫の真ん中の段、引き出しになっている野菜室の隅に板チョコが全部で三枚入っていることは確認した。一枚は最初に渡した奴で、後の二枚は名雪と俺がそれぞれ買っておいた奴だ。‥‥‥隠したチョコが俺にバレてるんだからおまじないとしては失敗だが、話がこういうことになっている以上、そんなことは今更敢えて言うほどのことでもない。
部屋に戻るとすぐにノックの音。
「祐一、入るよー」
もちろん名雪だった。
「寝なくていいのか?」
「ん。眠いけど、でも、今夜は気になるから」
少し重そうな目蓋を手の甲で擦りながら、名雪が部屋に入ってくる。
「名雪、チョコ隠したろ?」
ガラステーブルの上に顔を突き合わせながら、内緒話のような小さな声で名雪に訊ねた。
「うん。野菜室のいちばん奥だったよ」
部屋の中には俺たちしかいないんだが、名雪の方も何だか必要以上に小さな声だった。
「俺のも足したら三枚になっちまったよ」
「でも増えてるんだから細かいことはいいよ。それに、いっぱい増えた方がきっと嬉しいし」
それは本当に細かいことなのか、と俺は思うが、そのズレた答えが自分で嬉しかったのか、幸福そうににこにこしている名雪を見ていたら追求する気も失せた。
途中で足音がもうひとつ上がってきたが、多分秋子さんだろうということで俺たちの意見は一致していた。多分あゆは、その時間までずっと下でそわそわしてるんだろうと。
実は俺たちも結構落ち着かなくて、他愛のない話をしながら時計をずっと眺めていた。
‥‥‥十時二十分をまわるまで。
何となく、共犯のような微妙な立場に収まってしまった名雪と目が合った。それぞれに苦笑いのような表情を浮かべつつ、そろそろと階段を降りて、俺たちも台所へと向かう。
思った通り明かりがついている台所の方からは、やけにくぐもった遠い声がぶつぶつと呟く何かが僅かに聞こえていた。それは俺たちが近づくにつれて大きな音になり、そして。
「えええええええええええっ!?」
家中に響き渡るような、あゆの叫ぶ声が聞こえた。
一枚の筈のチョコが三枚あるのはやっぱり意外らしい。俺と名雪は顔を見合わせて少し笑った。
「どうした、あゆ? 何かあったのか?」
白々しく言いながら扉を開けると、大きく引き出された野菜室の中に肩から上を突っ込んだあゆの姿があった。中途半端に浮いた両足がじたばたと宙を蹴っている。あんまり暴れるから景気よく捲れてしまったスカートに隠されている筈のぱんつまで丸見えだが、何というか、嬉しいというよりは、しょうがないなあ、だ。
「ゆっ、祐一くん! チョコが増え」
そこまで言ったところで、ずがんっと痛そうな鈍い音が響いた。
「うぐぅ‥‥‥痛ぁぁぁぁぁ‥‥‥」
上半身を引き抜いたあゆは、そのまま頭を抱えてうずくまってしまう。どうやら振り返ろうとして、野菜室の天井かその上のドアの角あたりに、後ろ頭でもぶつけたらしかった。
あゆの手に握られていた板チョコがばらばらと床に散らばった。
「何かあったの? ‥‥‥あゆちゃん?」
何も知らない秋子さんが二階から降りて来る。
「いや、ちょっと頭ぶつけただけらしいですけど」
「そうですか? ほら、こっちへいらっしゃい、あゆちゃん‥‥‥チョコレート?」
あゆを抱きかかえようとして、しゃがみ込んだ秋子さんが散乱した板チョコに目を留めたらしい。
「えっと、そこからチョコを出したんですか?」
「そうみたいです」
秋子さんは首を傾げる。
まあ普通はそんな野菜室なんかに板チョコ一枚だけ入れておくようなことはしない。だからこそ、あゆが隠す場所としてはそれなりに適切だったのだろうが。
「今度から、お菓子は野菜室じゃなくて冷蔵室の扉にしまってね」
秋子さんに諭されて、涙目のあゆがうんうんと頷いていた。ぶつけた辺りを摩ってもらっているが、あゆの両手もまだこめかみに当てられたままだ。よっぽど痛いんだろう。
不意に、誰かが俺の服の袖を引っ張った。
「ん?」
振り返ると、何やら恐い顔をした名雪が床にしゃがみ込んでいる。
「祐一、おかしいよ」
さっきの続きのようなひそひそ声で囁く。
「何が?」
「チョコだよ」
「は?」
要領を得ない。
怪訝そうな顔をする俺の袖を強く引っ張って、
「って、おい名雪! 何だよ急に!」
俺の咎める言葉も聞かず、片手にすべての板チョコを掴んだ名雪はぱたぱたと階段を昇っていく。
「あ、チョコ‥‥‥」
あゆが涙声で呟く音はあっという間に遠くなった。
俺の部屋に戻ると、名雪はわざと音をたてるようにして後ろ手でドアを閉めた。
「祐一はチョコ、何枚、隠した?」
言いたくなさそうに言いながら、さっき床で拾い集めた板チョコをガラステーブルに並べて見せる。
‥‥‥二枚隠したって言って。
誰がどう数えても四枚あるようにしか見えない板チョコを前にして、心なしか蒼ざめたような名雪の表情が、全力で俺にそう訴えていた。
大した根拠もなかった筈の魔法の呪文が耳の奥の方で繰り返し繰り返し響く。
そこに呆然と立ち尽くしたまま、俺にはもう、ただその呪文が響くに任せる他はなかった。
ちょこれーとでーもん、
ちょこれーとでーもん、
このちょこれーとは公爵様へのご進物だよ。
お腹が減るなら失くさずお食べ、
公爵様のバチがあたるよ。
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