まだ蕾もつかない桜の樹を見下ろしている。
窓の外で風に揺れた樹の枝くらいしか、今は動くものが見当たらない。
土足のままの靴紐を固く締め直す。どこへでもすぐに走り出せるように。左手で鞘を握る。いつでも刀を抜けるように。‥‥‥誰もいない夜の教室の中で、静かに発条を撓めるように、私は、来る筈の何かをただじっと待っている。
何かが、今夜は来る。そんな予感がしていた。
結局、私の中では、あれから時計は動いていない。
兎さんの耳のカチューシャをつけて、ふたりであの麦畑を走り回っていた頃から。
予感だけはずっと、ずっと心の中にあったけど、だからそれは本当は予感とかではなくて、期待とか、そういうものなのかも知れなかった。
一緒に魔物と戦おうと私は言った。ひとりぼっちじゃ守れないと言った。あの言葉は多分、約束にはなれなかったんだと思う。だって、祐一くんはとうとう、私の言葉に答えてはくれなかったから。
いつまで、私はこうして待っていればいいんだろう。いつまで魔物とひとりで戦って、魔物から何を守ることができたら、祐一くんはここに、私のところに帰ってきてくれるんだろう。
‥‥‥帰ってきてくれるんだろうか。
あの麦畑はもう、なくなってしまったのに。
暗い場所にひとりでいると、私はそんなことばかりをずっと考えている。
早く助けに来て。
早く、私を助けて。
私のその願いがかなったことはなかった。
窓から見える月はもうすぐ空の真ん中に辿り着く。何も言わずに、夜は静かに更けていこうとしている。
もしかしたら今夜はこのまま何も来ないかも知れない。
私がそう思い始めた時、それは、来た。
最初にそれを教えてくれるのは、目や耳じゃなくて、身体そのものだった。いつもそうだ。
不意に、ざわざわと、肌が粟立つような感覚。
間違いない。小さく息を吐いて、私は一気に刀を抜く。
抜いた刀で右脇を払う動きは、魔物に読まれていた。振り抜いた動きに合わせるように、いつの間にかそこにいる魔物の腕が、戻る刀を追いかけてくる。その場に屈み込んで私はその腕を躱した。腕はそのまま私の身体があった場所を吹き抜け、窓硝子を叩き割ってようやく止まり、そして‥‥‥太い枝から細い枝が生えるように、腕から何本もの細い槍が突き出す。真下に向かって伸びるそれを今度は床に転がって躱し、刀を構え直す。
そこに、向こう側が透けて見えるような、もやもやとした霞のようなものがある。さっき私を襲った腕はその霞に飲み込まれ、今のそれのうちのどこからどこまでがさっきの腕だったのか、今はもうわからない。
大体それは、ひとのかたちをしていない。
その霞のようなものの真ん中で、真っ黒いふたつの瞳がこっちを見ていた。
今度は何本もの腕が同時に伸びた。私はそれを掻い潜りながら、魔物のすぐ側まで一気に踏み込む。背中の向こうでまた窓硝子が割れる音がした。
あまり派手に騒ぐとまた佐祐理が困る。
そのことを思うと少し気が重い。
振り払う刀はぎりぎりで届かない。魔物は身を翻して、廊下の方へ逃げた。追いかける。「廊下を走るな」と書かれたポスターの前を全力で走る。前を行く魔物はもうすぐ階段の踊り場に着く。そこで廊下は行き止まり。追いつける。私は思った。剣を構えてそのまま突進する。
と。
そこでいきなり魔物は消えた。
その代わりに、下から階段を上がってきた見たこともない女の子が、魔物のいた位置に飛び込んでいた。
「え‥‥‥っ?」
魔物を突き刺そうとしていた剣先を咄嗟にずらす。無理な方向転換に腕が悲鳴を上げる。立ち止まることもできないまま、剣先はその女の子の顔のすぐ脇を走り、流れた身体の勢いのまま、壁を突き刺してやっと止まった。
私と同じ服を着ているその子は、自分に何が起こったのかよくわからない様子で、私の顔と刀を交互に見つめている。
「‥‥‥逃がした」
思わず、呟きが漏れた。
「あの、何がですか?」
もしかしたら魔物に騙されているのかも知れない。そう思ってよく見てみたけど、どう見ても、それは普通の女の子だった。
「魔物じゃない」
「‥‥‥あの?」
同じ制服を着ているけど、リボンの色が私や佐祐理と同じじゃない。下級生。
「違う。あなたのせいじゃない。別に、逃げられてしまうのはよくあること」
一応そう言いながら、私は壁に刺さってしまった刀を引き抜いた。
鞘に戻そうとした刃に、その女の子が触っている。
「どうして刀なんか持ってるんですか?」
訊かれたから、
「魔物を狩るため」
私は答えた。
「魔物?」
「私は魔物を狩る者だから」
「私は魔物じゃないんですか?」
「違う」
違うと思う。
「でも、魔物がいるんですか?」
「さっきまではいた」
「私、魔物なんて見えませんけど」
「逃げられたから。それに、きっと今夜はもう来ない」
もう来ない。そういう気がしていた。
‥‥‥また、仕留められなかった。ひとつ溜め息をついて、私は刀を鞘に戻す。
あなたは、どうしてこんなところにいたの。訊こうとして私は止めた。あまり関わらない方がいいと思った。
今夜はもう帰ろうと決めた。その女の子に背を向けて、私は廊下を戻り始める。
「あ、待って」
でも呼び止められた。
「えっと、その」
何か言いづらそうにしている。‥‥‥ああ、名前でも聞きたいのだろうか。
「舞」
「え?」
「名前。私は川澄舞。舞でいいから」
まだ何か言いたそうにしている女の子を置いて、私は今度こそ、廊下を戻った。
今日は倒せると思ったのに。
こんなことばかり、何度繰り返したら。
心の中でだけ舌打ちしながら、中庭から校舎を見た。砕けた硝子の欠け片が足元で小さく音をたてる。
さっき見下ろしていた中庭の桜を今度は下から見上げてみる。枝で作った罠をうっかり踏んでしまった月が、閉じ込められた檻の真ん中で窮屈そうに光っていた。
月はもうじき空の真ん中を越えていく。
‥‥‥またこんな夜遅くに帰ったら佐祐理が困った顔をする。佐祐理には心配をかけたくない。自然と、歩くペースが早くなっていくのがわかる。
そんな風にして、学校のことを、倒せなかった魔物のことを忘れかけていた頃に、
『私、なんで生きてるんだろう?』
誰かがそう言ったのが聞こえた。直接、頭の中に響くように。
私は足を止めた。
嫌な予感がした。あたりを見回す。自分が今いる街路樹のあたりには、自分ひとりしかいないのに。
『だって、だってこのまま、ちゃんと学校も全部行ったことなくて』
それでも声は、聞こえ続けた。
『病院に出たり入ったり繰り返して、お姉ちゃんにもみんなにもずーっと迷惑かけっ放しで、でも返せるものなんか何も、本当に全然何もなくて』
この声は、さっき聞いた声だ、と思った。
『私なんか、ただ笑ってることしかできなくて、何もできないのにみんなに生かされてるだけで』
‥‥‥気がつけば、私は全力で走っている。
学校へ。
『せっかく憧れの高校に入ったって、また私どうせもうすぐ入院するし、こんな私のまま生きてたってしょうがないし』
土足のまま玄関口を通過し、一気に階段を駆け上がる。「廊下を走るな」と書かれたポスターの前をやっぱり全力で走り抜け、最初に私が魔物を待っていた教室へ。
そこに。
席についたまま目を閉じている、あの女の子と。
「いた」
呟いたのは私。見つけた‥‥‥あの魔物だ。
その女の子に向かって伸びていく魔物の手を斬り下ろす。また、わずかに届かなかった刃を逃れて、その手は魔物に戻っていった。
「離れて」
背中越しに声をかける。
「離れてって‥‥‥舞さん、その子は」
「魔物」
「え? その子が?」
その子、って何のことだろう。
ここには私と、この女の子と、魔物しかいないのに。
‥‥‥また、目の前から魔物が逃げていこうとしていた。追いかけて斬りつけるけど、魔物を斬ったような手応えはない。黒板が半分になっただけで。
舌打ちが漏れた。
「今夜はもう来ないと思ったのに」
振り返ると、女の子が私を見ている。
魔物に殺されかけたのに、どうしてこんなに普通にしていられるんだろう?
「私はあなたを殺さない。あなたは魔物じゃないから。だけど、あなたが本当に死にたいと思っているなら、もしかしたら私だけではあなたを守れないかも知れない」
「そんなこと‥‥‥そんなこと、どうして舞さんまで知っているんですか?」
聞いていたから。
でも、あんなに離れていたのに、どうして私に聞こえていたのかはわからなかった。
こういう時は本当に思う。
「祐一くんがいてくれたらいいのに」
祐一くんならきっと、私よりも、今ここで起こっていることをちゃんとわかってくれる筈なのに。
‥‥‥女の子は首を傾げている。私が何を言ったのかわからないのかも知れない。そんなことはどうでもよかった。とにかく、祐一くんは今はいない。
だからこの女の子は、
「こっち」
今は私が、魔物から守らなきゃいけない。
屋上の入口は、いつも佐祐理とお昼ご飯を食べている階段の踊り場の上にある。
この学校の生徒の中で、屋上に出入りしているのは私だけだと、佐祐理から聞いたことがあった。佐祐理も一緒に行こうと言ったけど、佐祐理はいつものように笑うだけで、行きたいとは言わなかったから、連れて行ったことはまだない。
どうしてみんな、こんな鍵くらい壊して通らないんだろう、と思う。
刀を抜いて、吊るされた鍵の細くなっている部分を斬り飛ばす。それはあっさりと壊れて床に落ち、私はその女の子を連れて屋上に出る。
「こんなことしていいんですか?」
訊かれたけど、
「どうして?」
何を訊かれたのか、私にはよくわからない。
「なんで、こんなところに来たんですか?」
答えは簡単だった。
「校舎の中は不自由だから」
魔物は壁も窓も関係ないけど、私や虎徹さんはそれを無視できない。だから遮るものが何もない場所で戦う。それには、
「ここ」
「ここ? ‥‥‥真ん中、ですか?」
「ここは、何も隠れるところがない。どこから魔物が来ても、ここならすぐにわかる」
「なるほど」
目を閉じる。ゆっくりと、深く深く、息を吸う。吐く。
「舞さん?」
‥‥‥心を静かにする。
「あの、私たち、いつまでこうしているんですか?」
魔物のどんな小さな合図も見逃さないように、身体の感覚を研ぎ澄ましていく。
「どうして舞さんは、ええと、舞さんだけが、魔物と戦わないといけないんですか?」
屋上の空間すべてに私を染み込ませていくような感覚。
「魔物って何なんですか?」
静かに風が渡った。遠くの隅で、床を割って生えた雑草がその風に揺られるのがわかった。
「えっと、舞さん?」
今の私なら、屋上のどこに魔物が出ても‥‥‥え?
そういえばずっと、隣の女の子に何か訊かれていたような気がしてきた。ええと、
「あの魔物を倒すまで。もしかしたら、今はあの魔物を倒さなくてもよくなるまで。そのどちらか」
一応、答えてみる。
「今は‥‥‥って?」
「倒さなくてもあなたが死なないなら、倒すのは後でもいい。本当の約束は、魔物を倒すことじゃなくて、魔物から何かを守ることだから」
あの言葉は多分、約束にはなれなかったんだと思う。
「約束?」
わかっている、本当はわかっている‥‥‥それでも、約束はあったと、私が信じたいだけ。
「私はずるい。本当は、あなたを守ることが大切なんじゃなくて、私が嘘つきになりたくないだけ」
私が信じたい約束のために、私が綺麗でいたいだけ。
「嘘つき、って?」
その質問に答えようかどうしようかと考えていたら‥‥‥かかった。
もう目を閉じている必要はなかった。月明かりに目を慣らしながら、私は出入口のある方を睨む。
ばん。
気づかせたかったのだろうか、派手に音までたてて、自分でわざわざ閉めた出入口の扉を通り抜けて。
「来る」
あの魔物が。
左手で鞘を払う。からからと音をたてて、放り出された鞘が床を転がる。突きつける刃の先に魔物の輪郭が浮かび上がる。陽炎のように周囲の空気を歪めながら、最初に現れた黒いふたつの瞳が、睨み返すように私たちを見つめている。
霞のようなその魔物は、すべて現れていてもそうでなくてもやっぱり霞のようで、いつまで待っているとその準備が終わるのかよくわからない。
だから‥‥‥待たない。
「ここにいて。動いては駄目」
言った時にはもう走っている。
斜めに打ち下ろした刃は腕のひとつに当たって止まった。斬ったような手応えはない。
突然、その腕から枝が伸びる。飛び退った私の着地する場所を追いかけるように、次々と床に枝が刺さっていく。枝のひとつを斬り払い、私はその腕を蹴り上げた。
慌てて引っ込めようとするその腕の代わりに、別の腕が幾つも伸びてきた。床に叩きつけるように刀を振り下ろす。斬り落とされた腕が一本、何色ともいえない奇妙な光を振り撒きながら、空気に溶けるように消えた。
距離を取る。
斬られた腕の付け根から、消えていった腕と同じように振り撒かれていた光が止まる。もぞもぞと浮き上がったり凹んだりを繰り返すと、何事もなかったようにまた腕が伸びてくる。
きりがない。
やっぱり、あの瞳のあたりを斬らないと。
それで合っているのかどうかはわからないけど、何だか、そんな気がした。
踏み込む。いろんな方向から一斉にやってくる腕を捌きながら、あの瞳に向かって私は走る。
腕を伸ばす。
この刀が、あの瞳に届く‥‥‥筈、だった。
刺したと思ったのに手応えは何もなかった。確かにそこに、瞳の片方があるように見えるのに。
その瞳の下に隠されていた小さな唇が、笑うかたちに吊り上がったように見えた。
それが魔物の顔なのだとしたら、私は初めて、魔物の顔を見た‥‥‥何故だか、兎さんのカチューシャで黄金色の畑の中を走り回ったあの時の私の顔に、とてもよく似ている気がした。
見てしまったものがあんまり意外で、刀を握る私の右手から力が抜けた、その一瞬を魔物は逃さなかった。
腕を払われた私は刀を手放してしまう。それは空中でくるくると回りながら、あの女の子の前に突き刺さる。
取りに行こうとした私を追い抜いて、魔物は女の子に迫った。初めて見た魔物の唇が、女の子に何かを言っているように見えた‥‥‥その時。
「魔物さん、やっぱりやめました。私、ここで死ぬのはなしにします」
刺さった刀を引き抜いた女の子は、魔物に向かってそれを構えながら、そんなことを言った。
駄目だ‥‥‥構え方に無駄がありすぎる。魔物に本当に襲う気があったら、あれでは身を守ることはできない。私は思わず唇を噛んだ。これであの女の子を守れなかったら、それは私が弱かったせいだ。ここにいなかった祐一くんが悪いわけはない。
だけど、それじゃ、約束が。
『魔物さん、やっぱりやめました。私、ここで死ぬのはなしにします』
まただ。
外から普通に耳に届く声と一緒に、頭の中に直接響くようなあの声が重なって聞こえてくる。
「ちゃんと学校も全部行ったことなくて、病院に出たり入ったり繰り返して、お姉ちゃんにもみんなにもずーっと迷惑かけっ放しで、でも私から返せるものなんて何もなくて」
『ただ笑ってることくらいしかできないって、生きてたってしょうがないって、私、今までずっと、本当にそう思ってましたけど』
どうして泣いているんだろう。
「なんか刀持ったらわかっちゃいました‥‥‥私、馬鹿だけど、全然何にもできないけど、それでも、生きていたいって思ってるみたいです」
『刀を持ったからって舞さんにはなれないから、こんなの持ってたってすぐ殺されちゃうのかも知れないけど』
手が震えている。膝も。多分、恐いんだろう。
それでも。
「魔物さん、私はあなたが恐いです。死んじゃうことが恐いです。だから私、抵抗します」
それでも女の子は、震える唇で言い切った。
『死にたくないです』
‥‥‥これで。
これで、私からあの女の子にしてあげられることは終わったんだ、と私は思った。誰かに、例えば私に守ってもらわなくても、もうあの女の子は自分で何とかなっていくんだろう、と。
「え?」
何かに驚いたように女の子の動きが止まる。同時に、何故だか急にくすんでしまった魔物を、私は追いかける。
魔物は金網を抜けて、校庭の方へ消えようとしている。後は私があの魔物を倒すだけだ。
「貸して」
女の子が構えたままの刀を抜き取る。左手でそれを掴んで、右手と足だけで金網をよじ登る。そして、その金網の天辺から。
校庭に向かって、私は、跳んだ。
二階の窓と同じくらいの高さまで落ちたところで、私の刀は魔物を捉えた。だけど、その時には魔物はもう半分消えかけていて、突き刺した手応えはあったけど、多分倒せていないだろう、とも私は思った。
空中で一旦止まった墜落の続きがまた始まる。魔物に当たったところで体勢を崩していた私は結局着地に失敗して、校庭で派手に転んだ。
二階分くらいの高さしかないから怪我は大したことはないけど、やっぱり足首は痛めたらしくて、校舎の壁際まで歩いていくのが精一杯だった。
鞘がないままの刀は杖には使えない。鞘も持って跳ぶんだったと私は後悔した。
「舞さんっ! 大丈夫ですか?」
遠くで声がした。
校舎の正面玄関からあの女の子が走り寄ってくる。
「逃がした」
「そんなことより、怪我は?」
「足をちょっと」
「本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫。別に折れてはいないし、千切れてもいない」
女の子は疲れたような顔をした。何かおかしかったのだろうか。
‥‥‥そんなことよりも、気になっていることがあった。
「それより、魔物は何を言っていたの?」
「あの、聞こえてなかったんですか?」
それが意外なことのように、女の子は答えた。
「わからない。魔物が聞いた言葉が聞こえることはあるけど、魔物が喋っている言葉は聞いたことがないから‥‥‥どうしてあなたは魔物と喋れるの?」
「どうしてって、魔物さん日本語喋ってますけど。『わたしは願いをかなえる者だから』って」
私には何も聞こえないのに。
「死にたくないって言ったら許してくれたのは、死にたくないのが私の願いだった、から、なんでしょうか?」
「そう‥‥‥」
そう、としか言いようがなかった。
「もしも言葉が通じたら、狩る必要なんてないのかも知れませんよ? ちゃんと話せばわかるみたいですし」
願いをかなえる者だと言った。
「それでも、私は魔物を狩る者だから」
嘘だ、と私は思う。
私の願いは魔物と戦うことじゃないのに。
もう夜が明けかけていた‥‥‥わざわざ屋上から持ってきてくれた鞘に刀を納めて、それを杖のように地面に突きながら、私は今度こそ、家に帰った。
「舞? もう、遅かったね」
困った顔の佐祐理が、玄関先で待っていてくれた。
「足、怪我してるの?」
「ごめんなさい」
「歩ける? それじゃお部屋に入っててね。佐祐理はお薬持ってくるから」
言われた通り、自分の部屋のベッドに腰かける。
佐祐理は薬箱と、お湯の入った洗面器とタオルを持ってきてくれた。
「怪我してるから、今日はお風呂は駄目だから。タオルで体拭くだけだけど、今日だけだから我慢して。ね?」
「うん」
「さ、脱いで」
言われた通りに、私は裸になる。
佐祐理は熱いお湯の入った洗面器に浸けたタオルを絞ってくれた。体を拭く。汗だくになった身体が綺麗になる。すぐに汚れてしまうタオルを、佐祐理は何度も絞り直してくれた。
「ありがとう」
「いいの。次は足首だけど」
言いながら、私の足首をそっと動かしたり、腫れているところに触れたりする。
痛いとかくすぐったいとか、なるべく顔や言葉に出さないようにしているのに、何故だかいつも、佐祐理はすべてお見通しだった。
「ええと、やっぱり捻っただけみたいだから、湿布してればよくなるよ。今日はちょっと窮屈だけど」
てきぱきと、湿布を当てた足首に包帯を巻いてくれる。
「はい、できました。‥‥‥舞がひとりで危ないことするから、何だか佐祐理、こういうの慣れちゃった」
笑いながら佐祐理が言った。
「ごめんなさい」
「ううん、佐祐理はいいの。でも舞のことは心配だよ‥‥‥魔物はまだいるの?」
「いる」
嘘をついてもしかたがなかった。
「今日は別の女の子が襲われてた。でもその子は魔物と話ができて‥‥‥魔物は、わたしは願いをかなえる者だからって言ってる、って」
「そうなんだ。じゃあその魔物が、舞のお願いもかなえてくれればいいのにね」
「でも、私のお願いはかなったことがない。だから、魔物は嘘をついてると思う」
「‥‥‥うーん、そうなのかなあ?」
薬箱を片づけながら、佐祐理は首を傾げる。
「そうだ。舞、その女の子ってうちの学校の人?」
「うん。同じ制服着てた」
「それだったら、今度一緒にお昼ご飯食べようよ。また佐祐理、お弁当いっぱい作るから」
「うん。‥‥‥あ、でも」
返事をしてから、私は気づいた。
「へ?」
「名前聞かなかった」
そういえば、とうとう私はあの女の子の名前を聞かなかった。下級生だ、ということはわかっているけど。
「あらら。しょうがないなあ」
「だけど、せっかく憧れの高校に入ったって、また私どうせもうすぐ入院するし、って言ってた‥‥‥学校、来ないかも知れない」
「だったら、入院してる人のことを先生に聞いて、今度お見舞いに行こうね」
私は頷いた。
「それから、退院したら一緒にお弁当食べたり、春だからお花見したり。楽しいことはまだまだいっぱいあるよ」
自分のことみたいに嬉しそうに、佐祐理が笑った。
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