まだ蕾もつかない桜の樹を見上げている。
枝を透かして月を見ると、まるでそれは幾重にも張り巡らされた蜘蛛の糸のようで。
もしかしたら、この桜がいっぱいに花開くまで、こうやって樹の下にいることはできないかも知れなくても‥‥‥今、この夜だけなら何でもできそうな予感がしたのは、きっといつまでもは着ていられない憧れの制服と、あの大きな満月のおかげ、のような気がした。
ケープのリボンを結び直して、私は真夜中の校舎に忍び込んでいく。
学校の階段は一段ずつが低い。ひとつずつ飛ばしていけば、家の階段と高さはほとんど変わらない。何だか自分が男の子になったみたいで、ちょっとうきうきしながら、ひとつずつ段を飛ばして私は二階へと駆け上がる。
そこに並んでいるのは二年生の教室。
お姉ちゃんの教室に忍び込む。窓際に立って眺める中庭の景色は、まだ何度も座っていない私の教室とは大分違っている。でもどうしてなんだろう、一年生の教室の高さじゃなくて、ここから見降ろすあのベンチに感じる、何故だかとても懐かしい‥‥‥もしかしたら、これから見る夢のような、私にもよくわからない奇妙な既視感は。
「そういうのも、ちょっと格好いいかな」
何となく呟く声に、
『ドラマみたい、か?』
笑いながら答える声が、すぐ側に聞こえる気がして。
‥‥‥ふと振り返っても、別に誰かが立っているわけではなかった。
わかっていてもがっかりするのはどうしてだろう。溜め息がひとつ、私の口から零れて消える。
「ええっと」
気を取り直して、私はお姉ちゃんの席を探した。
家ではそんなこと言わないけど、本当はお姉ちゃんは予習も復習も欠かさない人だから、教科書やノートが学校に残っていることはない。窓際に近い列で、後ろから数えた方が早い場所で‥‥‥そのあたりではひとつだけの、中に教科書もノートも何ひとつ残っていない、この机がお姉ちゃんの机に違いなかった。
やわらかな月明かりに照らされた机の上に、いい加減に雑巾で水拭きされた痕が残っているのがわかる。雑巾が辿った道を指でなぞりながら、ひょっとしたらお姉ちゃんも、昨日の掃除当番がいい加減だったことに、心の中で『ちゃんと乾拭きしないからよ』なんて文句を言っているかも知れない、と思う。
水拭きの雑巾と乾拭きの雑巾を両手に持って、凄い勢いで机を拭きまくるお姉ちゃんを想像して‥‥‥お姉ちゃんには内緒で、私はちょっと笑った。
椅子を引いて、お姉ちゃんの席につく。
目を閉じる。耳の奥、ずっとずっと遠い場所に響くのは、多分私は聞いたことのないざわめき。一年生の教室とは違う、でも、何がどういう風に違うのかはわからない‥‥‥お姉ちゃんや、お友達や、たくさんの人たちが笑いあう声によく似た、どこか言葉のような、ただの雑音のような。
耳に当てた貝殻が奏でる音みたいに、鼓膜の内側に染み込んで消えていくその音に、私はしばらく、じっと耳を澄ましていた。
そうしていたのはどれくらいの間だったのだろう。
急にどこかでがちゃんと大きな音がした。それは私には、硝子が割れた音に聞こえた。
窓から下を覗き込む。中庭にきらきらと光るものが落ちている。あれは、窓硝子の破片?
‥‥‥さらにもう一度、硝子の割れる音が響いた。
私のいる高さよりも上のどこかから、中庭に向かってたくさんの破片が降っていくのがわかった‥‥‥考えるよりも早く、私の足は三階を目指して走り始めていた。「廊下を走るな」と書かれたポスターの前を全力で走る。一段抜かしで階段を駆け上がる。踊り場で折り返し、そのままの勢いで三階まで登り切ると、不意に。
「え‥‥‥っ?」
耳元を凄い速さで何かが掠めた。ずがん。すぐ脇の壁に何かが当たる音がする。
思わず立ち止まってしまった私の目の前で、その何かも、すぐ脇の壁に当たって止まる。その何かに体を預けるようにして、私と同じ服を着た誰かが、じっと私の顔を見つめていた。
「‥‥‥逃がした」
囁くような小さな声。最初のうちは、何を言ったのかもよくわからなかった。
「あの、何がですか?」
「‥‥‥」
その人は黙ったまま、訊ねる私をじっと見つめている。
「魔物じゃない」
私を見つめたままのその人は、やがて、ぽつっとそれだけを言った。
魔物じゃない。
一体、誰のことを言っているのだろう?
「‥‥‥あの?」
「違う。あなたのせいじゃない。別に、逃げられてしまうのはよくあること」
それでも一応、私に気を使っているのだろうか。言いながらその人はそれを壁から引き抜く。
それは刀だった、ということに気づいたのはたった今だった。その刃の、張り詰めた冷たい感触に、伸ばした指先で触れる。
「どうして刀なんか持ってるんですか?」
「魔物を狩るため」
「魔物?」
「私は魔物を狩る者だから」
まるでそう答えるのが当然のように、間を置かずにその人は答えた。
どうしてだろう‥‥‥私はそれを、変な理由だとは思ったけど、嘘だとは思わなかった、と思う。
「私は魔物じゃないんですか?」
「違う」
「でも、魔物がいるんですか?」
「さっきまではいた」
「私、魔物なんて見えませんけど」
「逃げられたから。それに、きっと今夜はもう来ない」
どういうことかはわからないけど、とにかくその人はそう言って、抜いた刀を鞘に納めた。
背中を向ける動きに合わせて、ケープに縫いつけられた長いリボンが揺れた。違う色のリボン。私とも、お姉ちゃんとも違う色の。‥‥‥この人、三年生だ。
「あ、待って」
「?」
咄嗟に呼び止めたものの、
「えっと、その」
何を言おうとしたのか、自分にもよくわからなかった。
「‥‥‥ああ。舞」
「え?」
「名前。私は川澄舞。舞でいいから」
言うだけ言って、今度こそ背中を向けた舞先輩は、すたすたと遠ざかっていく。私はそこに立ったまま、背中でひとつに纏められた長い髪が、揺れながら向こうの闇に溶け込んでいくのを、ただ呆然と。
「あ」
見つめているうちに、私は重大なことを忘れていたと気づいた。
私の名前‥‥‥まだ舞さんに言ってなかったのに。
非常灯と月明かりだけの真夜中の学校の中で、まだ残っているのかどうかもわからない人をひとり探すことは、思っていたよりも大変なことだった。
きっと今夜はもう来ないと舞さんは言った。その、魔物、とかいうものを狩るために舞さんがここにいたなら、もう来ないのに残っていても仕方がないことくらいは私にもわかる。やっぱり、帰ってしまったのだろうか。
それよりも、舞さんを探して私はどうするのか。
見つけて、舞さんに自分の名前を伝えて、それで。
本当はそんなの何もわからない。ただどうしても、もう一度会わないといけないような気がして、ひとつずつ、三年生の教室を覗き込んで歩く。
もう半分くらいは調べたと思うけど、さっき消えてしまった舞さんはまだどこにも見当たらない。
「ふう‥‥‥」
自分に聞こえるように溜め息をつきながら、手近な椅子に腰かける。
もう一度、さっきとは違う机の上を指で撫でてみる。
流石に高校生ともなれば、学年の違いで机や椅子の大きさが変わったりはしない。小学生だった頃は学年が上がる度に机も椅子も大きくなっていくのが嬉しかったし、でも絶対にお姉ちゃんに追いつけないのは悔しかった。今は‥‥‥中学の頃から、学校で使う机や椅子の大きさはお姉ちゃんと同じになった。だけどそれは私がお姉ちゃんに追いついたからじゃない。
そして、明日の検査入院の結果によっては、私とお姉ちゃんの距離はまた離れていくだろう。このところあまり調子もよくなかったし、そうなる確率はとても高いと私は思っていた。
私とお姉ちゃんは永遠に渡れない広い河の両側。向こう岸になんて‥‥‥最初から、渡れるわけなかったのに。
机に顔を伏せた。
「私、なんで生きてるんだろう?」
あの時、あの刀で、殺してくれてもよかったのに。
魔物と一緒に斬ってくれても。ただの‥‥‥そう、何かの間違いでも。
『どうして?』
誰かが、訊いた。
「どうしてって?」
『殺してくれてもよかったのにって、どうして思うの?』
どうしてそんなことを知っているんだろう?
「だって、だってこのまま、ちゃんと学校も全部行ったことなくて、病院に出たり入ったり繰り返して、お姉ちゃんにもみんなにもずーっと迷惑かけっ放しで、でも返せるものなんか何も、本当に全然何もなくて」
返す言葉が止まらない。
「私なんか、ただ笑ってることしかできなくて、何もできないのにみんなに生かされてるだけで、せっかく憧れの高校に入ったって、また私どうせもうすぐ入院するし、こんな私のまま生きてたってしょうがないし」
『そう』
顔を上げた私の目の前に、小さい女の子が立っている。まるで、さっきの舞さんのずーっと小さい頃みたいな女の子が。
閉め切られている筈の教室の中で、女の子のワンピースの裾と、カチューシャについた兎の耳だけが、さわさわと渡る風に揺られていた。
『わかった』
女の子はずっと閉じていた目を開く。差し込む月明かりにその瞳はきらきらと光っているのに‥‥‥本当の黒は夜の闇よりも深いと、私はその時、初めて知った。
『だったらわたしが殺してあげる』
その小さな指先が、私の首元を撫でる。
『わたしは願いをかなえる者だから』
目を閉じた私は、
「いた」
もう聞くこともなかった筈の声を聞いた。
次に目を開けた時、その小さな女の子に向かって舞さんが振り下ろした刀が、ちょうど私の目の前を横切ったところだった。
まだ席についたままの私と、凄い速さで落ちかかる刃を逃れるように私の首元から手を引き、飛び退った女の子の間に、舞さんの背中が割って入る。
「離れて」
振り返りもせずに舞さんは言う。
「離れてって‥‥‥舞さん、その子は」
「魔物」
「え? その子が?」
魔物というから、もっと、何ていうか、魔物っぽい魔物だと思っていたのに‥‥‥よっぽど私が意外そうにしているのか、女の子は寂しそうに笑った。
『舞の魔物はわたし。あなたを殺すのはわたし。わたしは、願いをかなえる者だから』
言い切る前に身を翻し、黒板のある壁を直接すり抜けて、女の子はこの教室から消えてしまう。追いかけた舞さんの攻撃は黒板を半分斬り落としたところで止まっていた。悔しそうに舌打ちをする背中を見れば、結局その手は届かなかったのだろうと想像がつく。
「今夜はもう来ないと思ったのに」
言いながら、舞さんが私を見た。
さっきの女の子みたいな、寂しそうな黒い瞳。
「私はあなたを殺さない。あなたは魔物じゃないから。だけど、あなたが本当に死にたいと思っているなら、もしかしたら私だけではあなたを守れないかも知れない」
「そんなこと‥‥‥そんなこと、どうして舞さんまで知っているんですか?」
「‥‥‥がいてくれたらいいのに」
最初の方が聞き取れなくて、いてくれたらよかった人が誰なのかはわからなかったけど‥‥‥ただ、何だかとても遠い人のこと、だということは、何となくわかったような気がした。
「こっち」
私の手を引いて、舞さんはすたすたと教室を出ていく。
先生たちは絶対に、生徒に屋上を開放しない。冬の間、屋上に積もった雪を降ろす作業でさえ、生徒がすることはない。‥‥‥舞さんの手にした刀で無造作に斬り捨てられた錠前を見ていると、屋上は開かずの間だ、という噂話を思い出す。
こんなことまでしないと行けない。それが、屋上という場所。
「こんなことしていいんですか?」
「どうして?」
しれっと言ってのける。流石だと私は思った。何が流石なのかはともかく。
月明かりだけの屋上は意外なほど明るかった。床を取り囲むように張り巡らされた金網。床よりもさらに高い位置にある大きなタンクとテレビのアンテナ。別に、何か生徒に見せられない秘密があるわけでもない、ただの、本当にただの屋上。
「なんで、こんなところに来たんですか?」
「校舎の中は不自由だから」
相変わらず、舞さんの答えは簡単だった。
言いながら舞さんは歩き続ける。つられて私も歩く。
「ここ」
舞さんが屋上の真ん中に立ち止まるまで、それは続いた。
「ここ? ‥‥‥真ん中、ですか?」
「ここは、何も隠れるところがない。どこから魔物が来ても、ここならすぐにわかる」
「なるほど」
杖のように床についた刀に両手を載せ、そのまま、目を閉じた舞さんは石像のようにただ立っている。すぐ横で見ているのに、呼吸をしているのかどうかさえ怪しい気がしてしまうくらい、身動きひとつせずに。
「舞さん?」
「‥‥‥」
「あの、私たち、いつまでこうしているんですか?」
「‥‥‥」
「どうして舞さんは、ええと、舞さんだけが、魔物と戦わないといけないんですか?」
「‥‥‥」
「魔物って何なんですか?」
「‥‥‥」
「えっと、舞さん?」
全然返答がないから、私は声をかけるのを諦めた。
代わりに見上げた星空は、地上から眺めるよりもずっと星が近い。何だか手が届きそうだった。‥‥‥思わず右手を空に伸ばしている自分がおかしくて、私は少し笑った。
「あの魔物を倒すまで」
随分前の質問に、ぼそぼそと舞さんは答えた。
「もしかしたら、今はあの魔物を倒さなくてもよくなるまで。そのどちらか」
「今は‥‥‥って?」
「倒さなくてもあなたが死なないなら、倒すのは後でもいい。本当の約束は、魔物を倒すことじゃなくて、魔物から何かを守ることだから」
「約束?」
「私はずるい。本当は、あなたを守ることが大切なんじゃなくて、私が嘘つきになりたくないだけ」
「嘘つき、って?」
ばん。急に、開けてあった出入口の扉が閉まる。
「来る」
いつの間にか開いていた舞さんの目は、閉ざされた扉をまっすぐに睨んでいた。
左手で鞘を払う。からからと音をたてて、放り出された鞘が床を転がる。右手の先に光があった。月明かりに照らされて濡れたように光る刀の切っ先。突きつけられるように持ち上がったその刃は、扉の前にじわじわと滲み出る陽炎のような何かを指している。両手を広げてその陽炎の真ん中に立っているように見えるのは、さっき私に手をかけたあの女の子だった。夜よりも黒いあの瞳が、私と舞さんをじっと見つめている。今のあの女の子には、魔物、という言葉がさっきよりもずっと似合う。そんなことをふと思う。月の明かりをでたらめに反射しながら何色でもない色に透き通る、どんなものにも似ていないその姿は、恐ろしくて‥‥‥そして、とても綺麗。
「ここにいて。動いては駄目」
短く言い残して、舞さんは走る。
さっきよりも少し、月が傾いている気がした。
それでも戦いは続いている。いつになったら決着がつくのか、見ている私には全然わからない。
どこからでも飛んでくる魔物の攻撃を舞さんは剣一本で捌いている。どうしてあんなことができるのか、それも全然わからない。
ドラマみたいというよりは、もう何だか、アクション映画みたいだった
蚊帳の外にいる私が、ひとつだけ、考えなくてはいけないことがあるとすれば‥‥‥これからどうするのか。私はこのまま魔物に殺されるのか。それとも。
「‥‥‥っ」
舞さんが息を呑む音が聞こえた。その手から弾き飛ばされた刀が、私のすぐ前に突き刺さる。
『殺してあげる』
魔物が私に囁いた。
お姉ちゃん、お父さんとお母さん、病院の先生、クラスのみんな‥‥‥いろんな顔が思い浮かぶけど、結局誰も、何も言ってはくれなかった。
やってみるまでは、自分が本当にそうしたかったのかどうかはわからなかった。それでも私はただ夢中で、床に刺さった刀を抜いて、魔物に向かってそれを構えた。構えたからといって、自分が舞さんのように魔物と戦えるとはとても思えなかったけど、とにかく私は、舞さんの前を素通りしてゆっくりと私に向かってくる魔物に、刃を向けている。
「魔物さん、やっぱりやめました。私、ここで死ぬのはなしにします」
そうなんだ‥‥‥。
私がどうしたいのか、今、私にもやっとわかった。
「ちゃんと学校も全部行ったことなくて、病院に出たり入ったり繰り返して、お姉ちゃんにもみんなにもずーっと迷惑かけっ放しで、でも私から返せるものなんて何もなくて、ただ笑ってることくらいしかできないって、生きてたってしょうがないって、私、今までずっと、本当にそう思ってましたけど」
どうして私は泣いているんだろう。
「なんか刀持ったらわかっちゃいました‥‥‥私、馬鹿だけど、全然何にもできないけど、それでも、生きていたいって思ってるみたいです。刀を持ったからって舞さんにはなれないから、こんなの持ってたってすぐ殺されちゃうのかも知れないけど」
手が震える。膝が笑う。ちゃんと喋れてるかどうかなんて自信ない。
「魔物さん、私はあなたが恐いです。死んじゃうことが恐いです。だから私、抵抗します」
自分が格好いいと思ったことも確かになかったけど、こんなに格好悪い自分も初めてだった。
『死にたくないの?』
「死にたくないです」
『そう‥‥‥だったら、私もやめる』
「え?」
『わたしは願いをかなえる者だから』
それきり魔物は、ゆらゆらと輝くことをやめた。金網をすり抜けて直接校庭の方へ消えようとする。
「貸して」
舞さんは私の手から刀を抜き取る。驚いた私が何もできずに立ち尽くしている目の前で‥‥‥ぎしぎしと軋む音をたてながら金網を乗り越えた舞さんは、その向こうへ消えた魔物を追って、屋上から校庭へと舞い降りた。
何かが地についた音がするまで、私はその場を動けなかったから‥‥‥着地したのか墜落したのか、その時私にはよくわからなかった。
呪いが解けたように自由になった身体で、足元に転がる鞘を拾い上げた私は、屋上から校庭までを一気に駆け降りた。今度は男の子みたいなんて考えている余裕はなかった。
校舎の壁に寄りかかっている舞さんを見つけた。座り込んだまま、首だけがこっちを向く。
「舞さんっ! 大丈夫ですか?」
「逃がした」
「そんなことより、怪我は?」
「足をちょっと」
言いながら、もう舞さんは立ち上がろうとしている‥‥‥屋上から飛び降りたのに、どうして「足をちょっと」くらいで済むんだろう?
「本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫。別に折れてはいないし、千切れてもいない」
それはそうだけど。
「それより、魔物は何を言っていたの?」
舞さんはそんなことを私に訊く。
「あの、聞こえてなかったんですか?」
「わからない。魔物が聞いた言葉が聞こえることはあるけど、魔物が喋っている言葉は聞いたことがないから‥‥‥どうしてあなたは魔物と喋れるの?」
え?
「どうしてって、魔物さん日本語喋ってますけど。『わたしは願いをかなえる者だから』って。死にたくないって言ったら許してくれたのは、死にたくないのが私の願いだった、から、なんでしょうか?」
「そう‥‥‥」
「もしも言葉が通じたら、狩る必要なんてないのかも知れませんよ? ちゃんと話せばわかるみたいですし」
「それでも、私は魔物を狩る者だから」
頑固といえば頑固な人だった。
私が手渡した鞘に刀を納めて、それを杖のように使いながら、舞さんは帰って行く。
もう空は白みかけていて、私はほとんど徹夜で走り回ったこんな体調で検査入院することになりそうだった。後でお姉ちゃんや病院の先生に何を言われるかと思うと気が重かったけど、それでも、舞さんが視界から消えるまで、私は校庭に立ったまま、その背中を見送っていた。
見送りながら‥‥‥ふと、私は考える。
願いをかなえる者だからと魔物は言った。
魔物を狩る者だからと舞さんは言った。
魔物を狩るのが舞さんの願いで、その願いをかなえるために魔物がいるのだとしたら。
例えば、死にたいと願った私を殺そうとしたように、でも死にたくないと願った私を殺さなかったように‥‥‥魔物は、魔物を狩りたい舞さんのためにここにいる、ということになる。
いてくれたらいいのに、と舞さんが言った人は、舞さんが今、こんな風に魔物と戦っていることを知っているだろうか。その人が今ここにいても、舞さんは魔物を狩る者だろうか。
‥‥‥考えすぎかな。
ひとつ頭を振って、私も家に戻った。
検査入院の筈だったのに、結局、聞いていたよりも長引きそうだった。
そんなことだろうとは薄々思ってはいたけど、通い始めたばかりの学校にまた通えなくなるとわかって、寂しくない筈もなかった。
なのに。
「何をそんなに嬉しそうにしてるの?」
制服のまま病室に入ってきたお姉ちゃんは、私を見るなりそんなことを言う。
「嬉しそう? どうして?」
「知らないわよ。自分のことじゃない」
「え? だって今、学校に行けなくて寂しいなあって思ってた、と思うんだけど」
「そうなの?」
「うん」
「ふーん」
お姉ちゃんは私の顔をじっと覗き込んだ。
「まあいいわ。そういうことにしときましょ」
「あ、何それ? そういうこと言う人嫌い」
「はいはい‥‥‥でも栞、急に明るくなったわよ? 本当に、何かあったんじゃないの? 入院する前の晩とか」
「あったけど秘密」
「私にも言えないようなことなの?」
学校の先輩と一緒に魔物と戦ってました。
魔物に殺されかけたり、初めて本気で「死にたくない」って思ったり、先輩が屋上から飛び降りたり、いろんなことがありました。
‥‥‥全部話してみたい気もしたけど、通わないといけない病棟が増えるだけのような気がして、やっぱり、それは言えなかった。
早く退院したかった。それは入院するといつも思うことだったけど、あの晩に忘れていたことをひとつ思い出して、それが気になって仕方がなかったから、今回は特に、とにかく早く退院したかった。
「いいけどね。明るくなるのはいいことだから」
お姉ちゃんは花瓶を持って病室を出て行った。
窓の外を眺めてみる。
庭に植えられた桜の樹は、枝にたくさんの蕾をつけていた。もうじきここでも花が咲き始める。
そういえば、学校の桜の樹はどうなっただろう? あの夜は枝が蜘蛛の巣みたいなだけだったけど、今はこんな風に、あっちの桜も咲く準備をしているだろうか。
できればあの桜が咲いているうちにもう一度学校へ行こう。そして今度こそ、伝え損ねた私の名前を舞さんに伝えよう。
それから‥‥‥やらなければいけないことは、他にもまだまだたくさんある筈だった。
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