RUN![later-half]  


  

 雪が降ると洗濯物も干せなくて、屋上への扉には鍵がかけられてしまう。だが、もう随分昔にそういうコツを掴んだあゆにしてみれば、今更、扉に鍵がついている、くらいのことは何の障害にもならない。
 病院の屋上に設えられた大きなタンクの上に座って、いつものようにあゆは街を眺めていた。
 ずっと遠くまで見渡せるような、高いところが好きだった‥‥‥だからって、わざわざ樹になんか登らなければあんな風にはならなかったのに。止めてくれた祐一くんの言葉をおとなしく聞いていれば、あんなことにはならなかったのに。何度も何度もあゆはそう思った。この七年間のうち、半分弱くらいはそんなことだけをずっと思い続けていた、と言ってもいいくらいだ。
 それでもあゆは高いところが好きなままだった。
 落ちてしまうことへの恐怖感は今はもうない。七年も身体がないまま過ごしてきて、どこから落ちても怪我のしようがないことに気づいて随分経ったせいもあるが、結局は死んでしまったわけじゃない、ということの方が今でも大きいのかも知れない。
 未だに眠ったままで起き上がることもできない身体のどこが大丈夫なのかと訊かれると困ってしまうが‥‥‥大丈夫だよ、と伝えることができないまま別れてしまった悔しさの方が、今でもあゆ自身にとってはそれよりずっと大きくて気掛かりなことで、それが、七年間の残り半分強を占めていたのだった。
「『愛してる』の響きだけで、強くなれる気がしたよ」
 七年経ってもうろ覚えのままのメロディが不意に唇から零れ落ちて、囁くような自分の声に自分で少し驚いたように、唇にそっと触れてみた。
 暖かくも冷たくもない、お人形さんみたいな唇。
 そう思うことが、あゆは少し悲しかった。
 ‥‥‥だから今、あの駅のホームに降り立った祐一の姿は、項垂れたあゆの目には映っていない。



 がっしゃんっ、とやけに物々しい音がして、自動販売機が缶コーヒーを吐き出した。
 手に取った缶をしばらくじっと見つめていた名雪は、何となくそれに頬ずりをしようとして、その缶が本当はとても熱い、ということを頬に当てたことによって知り、驚いて取り落としそうになって慌てた。
 こんな雪の降る寒空の下、待ち合わせに一時間も遅れたお詫びが缶コーヒー一本くらいで済むは筈ないと、本当は名雪にもわかっている。
 でも、そうは言っても、名雪だって今まで辛かったのだ。一時間どころではない。七年もずっと、何の音沙汰もないまま放って置かれていたのだから。
 だから、復讐。
 ‥‥‥なんて言ったら、祐一はまた泣いちゃうかな。
 ちょっと意地悪なことを考える。
 それとも、あのことはもう、憶えてないのかな。
 憶えてないならその方がいいのかも知れない、と名雪は思う。喉に刺さった小骨みたいに、そんなことを七年もずっと気にしているよりも。
 それに、忘れていてくれないと。
 でもダメだよ。悪い子になっちゃうよ。
 自分で自分をたしなめながら、何度か首を振る。
 そうして左右に大きく揺れた視界の左端に、名雪はその背中を見つけた。
「‥‥‥雪、積もってるよ」
 見つけた背中は、見覚えなんてない筈なのに、何故だか、とても懐かしい感じがした。
 七年ぶりでも見間違えなかった。
 そう思うことが、名雪は少し嬉しかった。
 ちなみに、名雪が傘の下をゆったり歩いてそこに辿り着くまでの間、降る雪に曝されるまま、駅前のベンチで祐一が待ち惚けの刑に処されていた時間は、一時間ではなく、二時間だった。
 そちらの方は何故か大きく間違えていたが、取り敢えず再会を果たすことができた名雪の中では、そんなことは既に大した問題ではないのだった。



 教室の向こうの方で北川と馬鹿話に興じる祐一の背中を、名雪はじっと見つめている。
 それからの日々を、祐一は至って普通に過ごしている、ように名雪には見えていた。
 七年前のあの時のことが、祐一の心の底にはどういう風に積もっているのか。名雪がいちばん知りたがっているそのことを、祐一が自分から口にしたことはない。それに、祐一が普通に暮らしているように見えるだけに、自分が蒸し返して何かおかしなことになってしまうのは嫌で‥‥‥昔のひびに触れることで、それなりに幸福な今という時間まで一緒に割れてしまいそうに思えて、名雪からも何も訊けなかった。
 祐一たちの馬鹿話は続く。
 名雪は何となく窓の外に目をやる。
 綺麗に晴れた空は高く高く澄んで、
「音がしそうな、空」
 何となく呟いた名雪の声に、
「どんな音?」
 横から口を挟んだ香里は、
「んー。よくわかんないけど、なんか、そういう感じ」
「なーんか、わかったような、わかんないような」
 呆れたように天井を仰いだ。
 ‥‥‥あゆちゃんは気づいてるかな。
 祐一、帰ってきたんだよ。
 空に鳴る音を伝って、本当の想いは声にしなくても届いていくような気がして。
 だから名雪は、それを口に出しては言わなかった。



 声が‥‥‥聞こえた、ような気がした。
 渡る風が遠いどこかでウインドベルを鳴らすような、涼やかで微かな音の他に、ただひとことだけ。
 今は生徒がひとりしかいない学校の校庭で、唯一の生徒は冬晴れの空に耳を澄ます。
 本当に聞こえたのか、聞こえた気がするだけなのか、それは誰にもわからないことだ。まして、誰かが自分にそう言ってくれる日が来ることを七年もずっと待っていたような言葉だし、聞いた気がしただけのことなら、これまでに何度もあったことだった。
 だから今度も、必要以上に気に留めはしなかった。
「ん。そうだと、いいね」
 ‥‥‥切なそうに、空に向かって笑いかけただけで。



「祐一、おしょうゆ取って」
「ああ。ほら」
「ありがとう」
 今日も、夕食時の穏やかな時間は、いつもと同じように穏やかに流れていた。
 だから、自分とそれ以外のすべての誰かとの間に薄紙が一枚挟まったような居心地の悪さも、祐一はいつもと同じように感じていた。
 それは、そのことを知っている筈の誰もが、直接触れようとはしないことがあるせいだということを、実のところ、祐一はちゃんと知っている。
 傷口に触れないように秋子や名雪が気を使ってくれていることがわかってしまうせいだ、と。
 ここへ引っ越して来る前から、ある程度は想像がついてはいたことだった。
「祐一、なんか元気ない?」
「いや、そんなことはないぞ」
 横から覗き込むように顔を近づける名雪にいい加減な返事を返して、木造りのお椀から味噌汁を啜る。
 何かを食べていると適当に語尾を濁しても怪しくないから気が楽だ、なんてことも、最近は思ったりする。
「そう? ならいいけど」
 向き直った名雪はもう、秋子とおかずのコロッケのことなど話し始めていた。楽しそうな横顔を他人事のように眺めながら、耳に入った「コロッケ」という単語でその存在を思い出したように、自分の皿に残ったコロッケを箸で切り分ける。
 秋子はともかく、昔から名雪は、平気じゃない時に平気な顔をするのが上手じゃなかった。昔、あゆとのことを名雪には隠していた時、平気そうに見えるように頑張っている、ように見えてしまう名雪を見ているのが辛かったことも、祐一はよく憶えている。
 では、今、そんな風に名雪が祐一に気を使うのは何故か、と考える時、思い当たる理由はひとつしかなかった。
 だから祐一も訊けなかった。
 七年前のあの日のことなんて。
 あれから、あゆはどうなったのか、なんて。
 最悪の想像を、敢えて最悪の現実として受け止める勇気は、今の祐一にはない。‥‥‥そんな結末に辿り着いてしまうよりは、今のまま、微妙に居心地の悪い気遣いに気づかない振りをしている方が気が楽だった。



 学校の片隅で雪と泥に塗れていたラジカセは、今は名雪の部屋に、目立たないように転がっていた。
 七年前のあの時‥‥‥祐一が帰ってしまってから、祐一と同じように膝を抱えながら、名雪は繰り返し、繰り返し、テープを聴いた。
 祐一とあゆが学校と呼んだ場所の、ありふれた日常のざわめきも。
 どこか調子外れの「かえるのうた」も。
 給食のたい焼きを頬張る音も。
 泣き出しそうな声で告げられる試験開始の合図も。
 祐一だけの期末試験の模様も。
 試験中に起きてしまったことの一部始終も。
 駆け込んだ自分の声も。
 ‥‥‥何日かに分けて回っていて、でも回しっ放しのままいつも忘れられていて、だから律義に録音することを続けていたそのテープの中には、祐一とあゆだけの学校のほとんどすべてが収められていた。
 名雪はほんの最後のところにしかいないこと。それも、呼ばれてそこにいるのではなく、内緒でついて行ったからそこにいるのだということ。名雪の知らない祐一がとても楽しそうにしていること。ここで生まれて育った名雪も知らなかったような秘密の場所にあゆと祐一の学校があって、でも、名雪と祐一の学校はどこにもないこと。
 いろんなことが悲しかった。



「だけど」
 隣の部屋の祐一にはわからないように、小さな音であのテープを聴き返しながら、名雪はひとり呟いた。
 それからあゆがどうなったのか、祐一は多分まだ知らずにいる。そして、祐一がこの街へ帰って来たことを、あゆも多分まだ知らずにいる。
 今、両方の様子を知っているのは名雪だけだ。
 自分が何かをしない限り、祐一とあゆはずっと遠いままになって、そしていつか、祐一とあゆはお互いのことを忘れてしまう、と思っていた。
 だから‥‥‥このまま、今のままにしておけば、そうやって祐一とあゆがずっと再会できないまま時が過ぎていけば、今は忘れていなくても、祐一はあゆを忘れるかも知れない。いつまで待てば忘れるのかなんて名雪には見当もつかないことだったが、それでも名雪は、そうしてずっと、祐一があゆのことを忘れてしまうまで待っているのもいいかも知れない、とも本当は思っていた。
 それは、その後だったら祐一はちゃんと振り向いてくれるかも知れない、という期待の裏返しだということは名雪にもわかっている。
「このままでいいのかな」
 ずっと、今でも、祐一のことを好きでいる。
「このままみんなが」
 七年前、不意に現れて祐一を掠っていったあゆには、嫉妬のような感情を覚えさえした。
「どこへも行けずに」
 そんな想いをまた繰り返すのは嫌だった。
「立ち止まったままでいるのは」
 だけど。



 想いと言葉の不一致に困惑の溜め息を吐いた名雪の横で、テープの再生を終えたデッキが、かちゃん、と乾いた音をたてた。
 それはいつも、名雪の耳に時間切れの合図として響く。
 七年前の世界は名雪に決断を迫っている。
 時計の針を進めるのか。
 時計を棄ててしまうのか。
 ‥‥‥問題を先送りすることにしかならない。
 わかっていてもそうする他に策がなくて、名雪はもう一度、再生のスイッチを押した。
 耳の奥に、名雪の知らない七年前が再び像を結ぶ。



 廊下に出ると、祐一の部屋のドアが開いていた。
「寒いのに開けっ放しで、風邪ひいちゃうよ」
 ドアを閉めてから台所へ向かう。木の床の冷たさがスリッパを越えて足に触れる。ただでさえ眠れないのに、長い間廊下にいると余計に目が冴えてしまいそうで、名雪は階段を降りる足を速めた。
 水道の蛇口から流れる水をコップで掬って口に含む。喉の中を滑り降りた冷たい水が、纏まらない考えに火照った頭まで冷ましてくれたようで。
「何だか、ますます眠れそうにないよ」
 ぶつぶつ言いながら階段を昇り、二階の廊下を歩いて、自分の部屋のドアノブに手をかけて。
「え?」
 名雪は振り返った。
 さっき自分が閉めた、祐一の部屋の扉を見つめる。
 声が‥‥‥聞こえた、ような気がした。
 起きている名雪を今祐一が見たらどんな驚き方をするか想像がつかないような真夜中だ。こんな夜中に明かりもつけないで、祐一が起きているわけがない。大体、さっき扉を閉めた時は、そんな声なんて聞こえなかった。
 小さく首を傾げて。
 握ったままだったドアノブを捻ろうとして‥‥‥もう一度、振り返った名雪は、祐一の部屋の扉を見つめた。
 なるべく音がたたないように、扉に近づいていく。
「祐一、起きてる?」
 声をかけたが返答はない。
 代わりに。



 君を忘れない 曲がりくねった道を行く
 きっと 想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる



 代わりに、確かに聞こえた言葉があった。
 多分、起きていてそう言ったのではないだろう。寝言だろうか。‥‥‥慌ただしく自分の部屋に駆け込んだ名雪にとっては、それはもう、どちらでもいいことだった。
 机の脇のずんぐりしたピンク色のCDラジカセは、七年前のテープをまだ再生し続けている。少しそれを聴いてから、名雪は早送りのスイッチを押す。きゅるきゅると甲高いノイズに耳を凝らし、適当なところで再生に切り替える。何度か早送りと再生を繰り返し、時々巻き戻したりもしながら、名雪は目指す音を探り当てた。
 いつになく真剣な名雪の眼差しは、ラジカセの表面で忙しく明滅を繰り返すレベルメーターの向こうに、七年前の学校と、あゆと、祐一の姿を捉えた。



 『愛してる』の響きだけで強くなれる気がしたよ
 いつかまたこの場所で君とめぐり会いたい



 テープの中のあゆがまた樹から落ちてしまう前に、名雪は自ら停止ボタンを押した。今まで何度も名雪に決断を促してきたあの乾いた音を短く部屋に響かせて、ラジカセは沈黙する。
 答えは決まっていた。



 翌朝、いつものようにふたりは並んで歩いていた。
「昨夜ね、夜中に、祐一が歌ってるのを聴いたよ。本当に歌ってたのか、寝言だったのかはわからなかったけど」
「え? 嘘だろ?」
 お昼頃から雪が降り始めるでしょう、と天気予報が言っていた。どんよりと曇った空と冷たい風は、昼など待たず、今からでも雪を撒き始めそうに思えた。
「『チェリー』だったよ。祐一の‥‥‥期末試験、の」
「期末って‥‥‥待て、待て名雪! なんで名雪がそんなこと知ってるんだ! あれは、俺とあゆだけの」
 何かを諦めるように小さく溜め息を吐いた名雪は、そのまま、祐一に背を向けたまま、言葉を続ける。
「やっぱり、祐一は憶えてたんだよね、七年前のこと」
 いきなり名雪にそんなことを言われて、呆気にとられた祐一は思わずその場に立ち尽くす。
「急にこんなこと言われても信じられないかも知れないけど、祐一、よく聞いて。あゆちゃんは生きてるよ。ちょっと‥‥‥えっと、変なことになっちゃってるけど」
「い、生きてるのか? 生きてるのか!」
「ん。あのね、怪我はもう大丈夫だよ。後は目を覚ますだけなんだけど、でもそれ以上はよくも悪くもならないで、この七年ずっと、あゆちゃんの身体はただ眠ってて」
「何‥‥‥だよ、それ?」
 名雪が何か言う度に、祐一は浮き沈みを繰り返す。
「七年前、祐一が帰っちゃう時にね、どうしても祐一に伝えたかったことを伝えるために、あゆちゃんは身体を病院に置いて、心だけ外へ飛び出したんだよ。でもあの時は、私もあゆちゃんも間に合わなかった」
 そんなわけのわからないことをしてまで、あゆが祐一に伝えたかったこと。
「その後、あゆちゃんには何度か会ってるけど、やっぱり身体に戻れないんだって。きっとあゆちゃんは、どうしても伝えたかったことを伝えるためにそうなったから、その願いがかなうまで身体に戻れないようになっちゃったんだ、って私は思う」
「その、伝えたかったことって」
「祐一」
 振り向いた名雪は、
「私、祐一のこと好きだよ。だから、あゆちゃんと祐一が仲よくしてるの、本当はすごく悲しい。でも私、あゆちゃんのことも嫌いになれないんだよ」
「え‥‥‥」
「本当は、私がこのまま何も言わないで、祐一がそのうち自然にあゆちゃんのこと忘れていって、それで私に振り向いてくれたら、それでもいいって思ったこともある。だけどそれじゃ、あゆちゃんの気持ちは、祐一の気持ちはどこへ行ったらいいのって、私だけ幸せだったらそれでいいのって、ずっと、ずーっと考えてて」
 俯いたまま、上げられなかった顔を、
「やっぱり、止まったままじゃダメだよ。時間を全部今に戻して、それで祐一を振り向かせるんじゃなきゃ‥‥‥そうじゃない祐一がもし私のこと好きって言ってくれても、きっと私、笑って祐一の側にはいられない」
 今にも溢れそうな涙を湛えた目を、ようやく、上げた。
「それが、私の答え、だよ」



「あゆちゃん! あゆちゃん起きて!」
 その日の日暮れ前。
 面会謝絶の病室の前で騒ぐ少女を羽交い締めにしながら、そういえば何年か前にもこんなことがあったな、と医師は思った。
「祐一が帰って来たよ! 帰って来たんだよ!」
 病室の扉に向かって叫び続ける少女の前に、
「本当っ?」
 突然現れた女の子は、何だか、いきなり天井を擦り抜けてまっすぐに降りてきたように、医師の目には見えた。
 羽交い締めにされた少女が医師の手を振り解く。駆け出した少女は擦れ違いざまに女の子の手を掴んだ。
 そのまま、掴んだ女の子の手を引いて、廊下を駆け抜け、玄関口の閉まりかけの自動ドアを擦り抜け、息が上がっても、胸が潰れそうで苦しくても、勢いだけは少しも緩めることなく、全力で走り続ける。
「名雪さん、足、速くなった?」
 走りながら、驚いたようにあゆが呟いた。
「私、これでも、陸上部の、部長さん、なんだよ」
 切れ切れの言葉で答える。
 体格が変わったせいもあるだろうし、陸上部で培った技術のせいもあるだろう。理由はともかく、あゆが驚いた通り、七年前とは走る速さがまるで違った。今のあゆには体重がないから平気でついて行けているが、そうでなかったらとっくに置いて行かれていたに違いない。
 本格的に降り始めた雪を蹴立てたひとり分の足跡は、すぐに一本の線になって、病院と、あの学校を結んだ。



 そこに、校舎だった樹はもうない。教室の真ん中には、雪を被った切り株が残っているだけで。
 今度はどこへも行ってしまわずに、校舎跡の切り株に腰かけて、祐一はあゆを待っていた。
「祐一くんっ!」
 走ってきた勢いのまま、あゆは祐一の胸に飛び込んだ。
「あゆ‥‥‥ごめん‥‥‥勝手にいなくなってごめん」
「ううん。いいよ。帰って来てくれたから、いいよ」
 心だけ外へ飛び出した、と名雪から聞いていたあゆは、重さはないのに何故か手応えはちゃんとあって、だから祐一はちゃんとあゆを抱き止めてやることができた。
「俺、今度はこっちに引っ越して来たんだ。前みたいに冬休みだから遊びに来てるとかじゃなくて、今はもう、こっちに住んでるし、こっちの高校に通ってる」
「本当?」
「そんなことでウソついてどうする」
「うぐぅ‥‥‥」
 祐一は不意に笑って、あゆの頭を撫でた。
「よかった。本当にあゆだ‥‥‥やっぱりその『うぐぅ』が出ると、あゆと会ったなあって気がするよな」
「あー、何だよそれー? それじゃまるで、ボクがうぐぅしかないみたいじゃないかー」
「そりゃまあ、たい焼きうぐぅからうぐぅを取っても、たい焼きくらいは残るだろうけど」
「ひどーい! 祐一くんの意地悪ーっ!」
 凄い回転速度でぽかぽか殴るあゆを抱きしめる。
「本当にあゆだ。全然変わってないんだな」
「それは‥‥‥えっと」
 あゆの顔が真っ赤になる。
「身体に戻れてないから、だと思うよ。身体はちゃんと、背とか伸びてるみたいだけど、ボクはずっと、その外にいるから」
「ああ、名雪から聞いた。でも、だから、これで戻れるかも知れないだろ? ‥‥‥今度は間に合ったんだから」
「そうだね」
 祐一はその場にしゃがみ込んだ。
 目線の高さがあゆと一緒になる。
「さ、いいぞ、あゆ」
「ん」
 頷いたあゆは、ひとつ深呼吸をして。
「ボクは大丈夫だよって、あの時、祐一くんに伝えたかったんだ。だって、祐一くんは止めてくれたのに樹に登ったのはボクだし、そこから落っこちちゃったのもボクがちょっと失敗しただけだし、そんなケガすぐ治っちゃうし。だから大丈夫だよ、祐一くんは全然悪くなかったんだから、祐一くんが泣くことなんてないよ、って」
 零れ落ちる涙を手の甲で払いながら、震える声は一気にそこまでを言い切った。
「そうか。でも、ひとつ間違ってるな」
「え?」
「俺が悪くないのなんか最初から知ってたよ。そんなことじゃないんだ。頭から血なんか流して、もうこのまま死んじまうんじゃないかって、それが悲しくて俺は泣いてた。だから」
 もう一度、きつく、あゆを抱きしめた。
「俺が悪くないとかそんなことが嬉しいんじゃない。あんな酷い怪我したあゆが生きてて、もう死んじまう心配なんか全然しなくてよくて、これであの時約束した期末試験の続きもできて‥‥‥ずっと一緒にいられることが、俺は嬉しいんだ」



 不意に。
 あゆが、きつく抱きしめた祐一の腕を擦り抜ける。
「あゆっ!」
 いつの間にか背中にあった一対の翼が粉雪を巻き上げながら大きく羽ばたき、羽ばたく度に、あゆは雪を降らせる雲をめがけて舞い上がっていく。
「心配しないで、祐一くん。ボクが呼んでるだけだから」
 咄嗟に意味がわからない。
 あゆは既に、祐一が必死に手を伸ばしても掠めもしないような高い場所にいた。
「神様にお願いしたんだよ。どうしても伝えたいことがあるから、今だけボクを天使にしてください、って‥‥‥ちょっとのつもりで七年もずっと天使だったけど、でもちゃんと伝えられたから」
 あんなに高い場所からでも、あゆの話す声はちゃんと祐一に届いていた。
「これでやっと、ボクは人間のボクに戻れるよ」



 ただいまとお帰りと、それと期末試験の続きは、人間のボクが起きてからにしようね。
 そう言って、あゆは雪雲に消えた。



「さあ、今度は祐一の番だよ」
 今まで何も言わず、切り株に座っていた名雪が、急に寄って来て祐一の手を取った。
「何が?」
「聞いてなかったの? 眠ってるあゆちゃんがもうすぐ目を覚ますんだよ? だから今度は祐一が、病院まで、あゆちゃんのところまで走らなきゃ」
「ああ‥‥‥だけど名雪、俺はいいけど、お前さっき随分走ってなかったか? またあんな勢いで走ったりして、本当に大丈夫なのか?」
「もちろん、大丈夫だよ」
 何でもないことのように名雪は答える。
「私、これでも、陸上部の部長さんなんだよ」
 どうやら、陸上部の部長は本当に伊達ではないらしい。
 ふたり分の足跡は、二本の線で描いた一本の螺旋のような模様になって、さっき病院と学校を結んだ線を逆になぞるようにして、学校と病院を結んだ。



 病院内はちょっとした騒ぎになっていた。七年寝たきりだった女の子が何故かいきなり目を覚ましたのだから、それくらいは当たり前だったかも知れない。
 白衣の大人が慌ただしく行き交うその個室の前に、息を切らせて祐一と名雪が辿り着いた。
「あゆ。迎えに来たぞ」
 祐一が声をかける。
 ‥‥‥扉の向こうでとてとてと足音がした。
 ややあって、扉がごんっと鈍い音をたてた。
 事態が読めない祐一とあゆの目の前で、内側から開かれた扉の向こうから顔を覗かせたあゆは、
「いたた‥‥‥うぐぅ、いつもの癖で通り抜けようとしちゃったよ」
 常人の想像を越える大ボケのせいでしたたかに打ちつけた額をさすりながら、照れたように笑った。

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