RUN![faster-half]  


  

 夕食の支度を始めた頃になってようやく、玄関のドアの向こうにばたばたと足音が聞こえてきた。じゃがいもの皮を剥く手を止めて、名雪が玄関へ駆けて行く。
 ただいまも言わずに祐一は玄関の扉を開ける。口をもごもごさせているのは別に何かを食べているからではない、と最近の名雪は知っている。
「お帰りなさい。‥‥‥ねえ祐一、何歌ってるの?」
 いつも名雪は帰ってきた祐一にそんなことを聞いて、いつも祐一に睨まれている。
 教えてくれたっていいのに。
 ちょっと恨めしそうに名雪も祐一を睨むけど、その頃にはもう、名雪には祐一の背中しか見えていない。二階へ消えていく祐一の背中を見上げて、それから、小さな溜め息を吐いた名雪は、夕食の準備を再開するために台所に入っていく。
 こんな冬が、もう何度目だろう? ‥‥‥また、祐一の冬休みの間だけ、祐一は水瀬の家に長逗留していた。留守がちな祐一の両親は、今もまた、仕事の都合でどこか別の国にいる筈だ。
 そうして祐一がやって来れば、祐一と名雪はいつも一緒だった。それは当たり前のことだと名雪は思っていたし、実際、それは当たり前のことだった。
 前まで‥‥‥大体、四日くらい前、までは。
「お母さん」
「なあに?」
「私って、鈍感‥‥‥かな?」
 突然名雪に聞かれて困った秋子は、少し考え込むような仕種をしてから、
「名雪がそう思うなら、そうかも知れないけれど」
 そんな風に答えて、俯いてしまった頭をそっと撫でる。



 外へ出かければ、どこへ行ったかわからない。
 家にいる間も、自分の部屋に閉じ篭ったきり。
 もしかして、名雪、怒ってるかな? ‥‥‥いくら幼いとはいえ、一応、祐一だってそう思わないことはない。でも、確かにそれを後ろめたく思いはしながらも、だから全部やめてしまおうとか、全部名雪にも話してしまおうとか、そういう方向へ祐一が考えを改めることはしなかった。それもまた、祐一なりの密かな気遣いではあったのかも知れない。
 翌朝もまた、夜の間にまた少し積もっていた真新しい雪の上にぽつぽつと足跡を残しながら、祐一は駅前へ走る。揺れる体の動きに合わせるように、背負ったリュックの中でラジカセやカセットテープががしゃがしゃと鳴る。ポケットでは小銭もちゃらちゃらと鳴る。派手な音の割には大した金額ではないが、そんな凄いものを買う予定もないから別に困らない。予め決まっている日々唯一の買い物も、ひとつ百円のたい焼きを幾つか、それだけだった。
 そうして駅前の広場に出ると、祐一が渡した天使の人形を両手で弄びながら、いつものベンチで、いつものように祐一を待っている、名雪でない、女の子。
「あゆ、待ったか?」
「あ。‥‥‥ううん。待ってないよ」
 でも、ベンチの足元には、小さな足跡がその雪の上をいかに迷走したか、その証拠がはっきりと残っている。祐一が思うよりもずっと早くから、祐一が来るのを待っていたのだろう。それに気づかない祐一ではなかったが、気づいたことをそのまま口に出す祐一でもなくて。
「取り敢えず、たいやきでも食うか?」
「うん!」
 そのまま口に出す代わりに祐一は尋ねた。
 体ごと使って頷きながら、嬉しそうにあゆは答えた。
 それも、最近ではいつものやりとりだった。
 早速たい焼きを齧りながら、祐一たちは駅前の商店街のあちこちを歩き回って、学校が始まるまでの寄り道を楽しむ。
 ‥‥‥冬休みだというのに、しかもその冬休みが過ぎれば祐一がまた通う筈の小学校はここにはないのに、祐一は今、あゆとふたりで毎日学校に通っていた。
 その学校には、校則のような決まりごとは何もない。教師がいるわけでもないし、ふたりの他に生徒もいない。要は、ふたりだけの秘密の場所に「学校」という名前がついているだけなのだが、それが「学校」だから‥‥‥寄り道して買い食いして商店街で遊んでいるだけなら普通の子供たちの遊びなのに、それから学校へ行く、という決まりひとつがひとつあるだけで、途端に「何となく悪いこと」をしているような気もしてきて、共犯者の顔を互いにちらちらと覗きながら、胸のどきどきが相手に伝わっていないか心配してみたりもした。
 そして、学校はいつだって、ふたりの到着がどんなに遅くても、何も言わずにそこで待っていてくれるのだ。



 寄り道の限りを尽くし、遅刻に遅刻を重ねた不良児童たちは、いい加減日も傾きかけた頃になってようやく校舎に辿り着いた。
 早速、今日の授業が始まる。
「あー、あー、あー、あえいうえおあお」
「あー、あー、あー、あえいうえおあお」
 教師がいるわけではないから、全部祐一の見よう見まねでうろ覚え。
「あーは真似しなくていい、あーは」
「あーはマネしなくていい、あーは」
「吉本新喜劇かよっ!」
「うぐぅ‥‥‥よしもとしんきげき、って何?」
 しかもその上、元来そこはただの森であって、何か楽器の類が置いてある筈もないから、例えば祐一が通っている小学校の教科書など持ち出してみても、楽譜が何かの役に立つこともない。
「となりのかきはよくきゃくくうかきだ」
「となりのきゃくはよくきゃくくう‥‥‥え? あれ? 柿、客、え?」
「ああもういいや。発声練習終わり」
「終わりーっ!」
 唯一、大声で騒いでも誰も文句を言いに来ないことを除けば、そういう授業を受ける環境としては「およそ考え得る限り最悪」と言ってもいいくらいの場所だったが、そんな不備などものともしない勢いで。
 今、彼らの秘密の学校では、何故か音楽の授業ばかりが集中的に行われていた。
「ええと、どこまでやったんだっけ?」
 言いながら、祐一はリュックの中から黒いラジカセを取り出す。それは、水瀬の家に逗留することになると祐一が使う部屋に最初から置いてあった古いラジカセだった。多分、秋子が置いておいてくれたのだろう。CDが聴けない代わりにカセットデッキはふたつあって、電池で使えるのをいいことに、祐一はそれを最近しばしばここへ持ち出していた。
「えっとね、ボクの番!」
 割と大きなラジカセをひったくるように祐一から奪ったあゆは、赤ん坊でも抱くように、それを大事そうに抱きかかえる。
 そしておもむろに、大きく、大きく息を吸って。
「かーえーるーのーうーたーがー」
「ちょっと待てあゆ。それはこの間やった」
「あれ、そうだっけ? それじゃ、ええと、ええと」
「そんなに慌てなくていいぞ、あゆ」
 慌てた様子のあゆを見かねて、祐一が声をかける。
「え?」
「ほら」
 あゆの左脇あたりには、ずれたり凹んだりせず、綺麗にテープのボタン類が整列していた。
「ボタン押すの忘れてただろ? 録音始まってないぞ」
「‥‥‥うぐぅ」
 涙目のあゆを小馬鹿にするように、遠くの空でカラスが鳴いた。見上げると、綺麗な夕焼け色の空を置いて、もう太陽はずっと遠くへ沈みかけている。
 下校の合図だった。



「お帰りなさい。祐一、今日はどこ行ってたの?」
「学校」
「‥‥‥学校?」
 例によって玄関先で待ち構えていた名雪は、祐一の返す言葉に目を丸くした。
 それ以上は何も答えることをせず、祐一は名雪を置いて二階へ上がる。いつものように小さくなっていく背中を見上げながら、名雪はひとつの決意を固めていた。
「もうすぐ晩ご飯だよー」
 階段の下から声をかけて、返事を待たずにぱたぱたと台所へ戻る。それでも、距離と扉に阻まれてくぐもってしまった小さな声が、おう、と答えたのを、その小さな背中越しに、名雪はちゃんと聞いていた。



「本当、あゆが知ってる歌って、教科書に載ってるような歌ばっかりなんだな」
「でも祐一くんは?」
「いろいろあるだろ? スピッツとか知らないか?」
「スピッツ? ‥‥‥って、犬の名前だっけ?」
「言うと思った」
 次の日もやっぱりいい天気で、あゆと祐一は学校への道をゆっくりと歩いている。
 折りからの暖冬のせいか、積もった雪は例年よりもほんの少しその勢力を弱めていた。そのおかげか、育ちの違う祐一はこの時期なら二度や三度は転んで手のひらに引っかき傷を作るのが常だったのに、そういえば今年はまだそういう怪我をしていない。
「手、どうかした? 怪我したの?」
 手のひらを見つめていた祐一の顔をあゆが覗き込んだ。
「いや、何でもない」
「そう? あ、そういえば祐一くん、手袋しないの? あったかいよ?」
 今度は祐一の両手を覗き込む。
「ん‥‥‥でも、いつもポケットに手突っ込んでるし」
「そんなコトしてるから転ぶんだよー。ちゃんと手は出してないと危ないよ?」
「今年は転んでないぞ」
 言いながら、名雪みたいなこと言うんだな、と祐一は思った。
 それは、冬にここへ来る度、必ず何回かは名雪に言われることで、今年も既に言われていたことだ。
 そういえば、あゆと名雪の違うところは、あゆなら「危ないよ」のところが、名雪だと「お行儀が悪いよ」になるところかも知れない、とも思う。
「それで、スピッツってどんな歌?」
 思い出したようにあゆが話を戻した。
「スピッツはバンドの名前だ。歌の名前じゃない」
「そうなの?」
「そうだ。後で歌ってやる」
「本当? じゃあ、早く行こうよ!」
 あゆが急かすように祐一の手を引いた。その動きがあんまり急で、慌てた祐一は足を滑らせ‥‥‥今までどうにか綺麗なままだった手のひらに、とうとう、今シーズン初の転倒が記録された。



 例によって日が傾きかけた頃に、祐一とあゆはがさがさと校舎の森に分け入る。
 針葉樹の廊下を越えると、その学校にひとつだけの教室に出る。ぽっかりと穴が空いたようなその広場の真ん中には大きな樹が立っていて、それは教室の壁であり、椅子であり、教壇だった。
 そこに着くなり、あゆはその樹をよじ登り始めた。
「こら、危ないぞ」
 そうやって登っていくのを何度かは見ていたことがある祐一だが、だからといって、安心して見ていられるわけでもない。
「平気平気」
 あゆの方は言葉通り、平気そうな顔でどんどん樹を登っていく。そして、ふたつに枝分かれした太い幹の股に腰を降ろし、
「それでは、祐一くんの期末試験を始めまーす」
 おもむろに、そんなことを宣言した。
「試験なんてないんじゃなかったのかよ?」
「ん。だから、ボクの試験はないよ」
 当たり前のように言い放つあゆ。
「おいコラ」
「いいからいいから。‥‥‥ほら、もうすぐ、祐一くんはお家のあるところへ帰っちゃうでしょ? だから、期末試験をしようよ」
 抜き打ちもいいところだ。確か中学の期末試験は、試験の日付も、問題が出る範囲も、試験が始まる何日も前に教えてもらえる筈なのに。まさか祐一とあゆのふたりしか生徒がいない学校で、しかも中学生にもなっていない祐一を、こんな罠が待ち受けているだなんて、祐一にしてみれば思いも寄らないことだった。
「それで、試験が終わったら、祐一くんは冬休みだよ」
 微笑んだあゆの目元に、僅かに、光るものを祐一は見つけた。
「祐一くんの冬休みはちょっと長くなっちゃうかも知れないけど、ほらボクは、ずっと、ずっとここにいるから」
 しゃくりあげるような音を時折混じらせながら、
「それでいいことにしようよ‥‥‥本当は、寂しいけど‥‥‥嫌だけど‥‥‥ね?」
 グラスハープの音色のような危うさで、呟き続けるあゆの言葉が揺れていた。



 ラジカセを取り出して静かに雪の上に置く。そして、テープデッキの片方だけについた、赤い丸のついたボタンを押し込む。
「相沢祐一。期末試験、音楽。‥‥‥スピッツの『チェリー』を歌います」
「わーい!」
「こら、あんまり暴れるな! 危ないだろっ」
 自分がそこに登っているわけではないが、高いところが苦手な祐一は見ているだけでも気が気ではなかった。
「暴れてないよー」
 あゆは笑いながら手を振る。それで片手が幹から離れるのがまた不安感を煽る。
「いいからじっとしてろって‥‥‥ええと、こほん」
 静寂が満ちる。そこに立っている祐一にも、樹の上にいるあゆにも、少し積もった雪の上を渡る風の声まで、遠くで太陽が空を焦がす音まで、ラジカセがテープを回すノイズまで、はっきり聞こえそうな気がしてくる。
 伴奏も何もなしのまま、自分の声だけで、祐一は歌い始める。時々、子供の声でも届かないようなキーの高い声を、腹の底から絞り出すように身を捩りながら。
 いつかまたこの場所で君とめぐり会いたい‥‥‥別に、そう思って選んだわけではなかったが、何だかそれは、さよならの歌だった。



 祐一は、試験が終わったら、今録音しているテープをあゆにプレゼントするつもりでいた。
 こんな風に中断されたりしなければ、それは楽しい思い出になれる筈だった。
 そんなさよならのために、そんな歌を選んだわけじゃなかった。
 ‥‥‥録音中のラジカセは、歌う祐一の声の向こうに、突然、声にもならないような小さな悲鳴を拾った。
 樹の上から重たいものが落ちた音を拾った。
 試験を中断した祐一が名前を叫ぶ声を拾った。
 積もった雪の上で重たいものが鈍く跳ねる音を拾った。



「ゆ‥‥‥いち‥‥‥ん‥‥‥」
「喋らなくていい。今病院まで連れてってやる。大丈夫だ、大丈夫だから!」
 抱き上げる祐一の服が見る間に赤く染まっていく。
「こ‥‥‥」
 力の入らない手でごそごそとポケットを探ったあゆの手は、天使の人形を取り出して祐一に差し出す。掴んだ手が濡れていたから、もう血で汚れてしまっていた頭の半分くらいや翼の片方の他も、あゆが埋もれた雪と同じ速さで、じわじわと赤黒く染まりつつあった。
「汚‥‥‥ゃう‥‥‥ら‥‥‥」
「そんなコト言ってる場合じゃないだろ!」
 必死であゆを抱き上げようとする祐一の後ろで、
「ダメだよ祐一、動かしたらダメ!」
 まだ回り続けている録音中のカセットテープは、祐一を止めようとする三人目の声を拾った。
「名雪、か?」
「怪我した人は無理に動かしたらダメなんだよ。私が救急車呼んでくるから、祐一は側にいてあげて」
 そう言って踵を返し、がさがさと茂みを揺らして、名雪は走り去っていく。
「ごめん‥‥‥しけ‥‥‥」
「何も言うな! 大丈夫だってば! 試験なんか、後でまたいつでもできるだろ!」
「でも、ゆ‥‥‥おうち‥‥‥」
「戻ってくる! 絶対戻ってくるから!」
 人形を握ったままの手は、あゆと祐一の間をふらふらと彷徨いながら、必死で小指だけを伸ばそうとする。
「あ‥‥‥やく‥‥‥く‥‥‥ゆ‥‥‥」
 祐一はその真っ赤な小指に自分の指を絡めた。
「あゆ、指切りだ。約束だ。俺は絶対にここに戻ってくる。だけどあゆ、お前がここで待っててくれなきゃ、俺ひとりだけじゃ試験の続きなんてできないんだ! あゆっ!」
 指切りなのにずっと指が切れないまま、祐一の小指を引っ掛けたままのあゆの手が、小さな胸の上に落ちた。
「あゆ! あゆっ!」
 ‥‥‥そこにあることをすっかり忘れられたラジカセはそれでもそこで動いていて、救急車のサイレンの音がだんだんと学校に近づいてくる音も、慌ただしく行き交い始める足音や声も、すべて、拾い続けていた。



 数日の間、膝を抱えたまま、祐一は自分に宛われた部屋でずっと俯いていた。
 年齢でいえば僅かに小学校も半ばの若さでありながら、人生のほとんどを不当に取り零してしまった人を取り巻くような闇を、早くも、ぼんやりとその肩のあたりに揺蕩わせていた。
 祐一の本当の両親はあと何日かのうちにはここへやってきて、そしてここから、祐一のあるべき日常へと、祐一は連れ出されていくだろう。
 それよりも早く、あゆが眠っている筈の個室のドアにかけられた面会謝絶のプレートが外されることは、どうやら、ない。
「名雪。もうお部屋で寝なさい」
「ここにいる」
「昨夜もそう言って、廊下で寝てしまったでしょう?」
「‥‥‥でも、ここにいる」
 ドア一枚しか離れていないような近いところで、同じ会話は確かに幾晩か繰り返されていたのに‥‥‥祐一がそこで俯いているのとほとんど同じだけの間、その部屋のドアに名雪がじっと凭れかかっていたことを、祐一は知らない。
「それと、今夜は祐一くんにお話があるの。ちょっと場所を空けてくれるかしら?」
 ドアの外側でごそごそと音がする。次にそれは音も立てずに開いて、真っ暗な部屋に秋子が首を突っ込んだ。
 ベッドの上で膝を抱えたままの祐一が起きていることは、時々鼻をすする音や、月明かりでうっすらと見える肩の動きで、秋子にはわかっていた。
「祐一くん。明日の夕方、お迎えが来るそうよ。明日は‥‥‥明日は、帰る支度をしましょうね」
 言いづらそうにそれだけを言って、秋子は扉を閉める。
 ややあって、何かが扉に当たったような音がした。それはずるずると扉の表面を滑り降りて、とん、と廊下の床でもう一度音をたてる。
「祐一、帰っちゃうの?」
「ええ、そうよ」
「でも祐一、あゆちゃんとあれからまだ会えてないよ? ちゃんと、さよならも言えてないんだよ? ねえお母さん、こんな大切なことを置いたままにして、それでも祐一は、帰らなきゃダメなの?」
「名雪‥‥‥」
「そんなのってないよ。ひどいよ。ひどすぎるよ」
 名雪と秋子が話す声すら聞こえていなかった祐一に、名雪が零した涙の粒が床に落ちた音など、届いていた筈もなかった。



 仄暗い部屋の中には時計もカレンダーもなくて、あれからどれくらい時間が経っているのかもわからない。
 今は、何種類かの規則的な電子音と、心臓の音と、呼吸をする音だけが、あゆの世界のすべてだった。
 もしかしたら祐一くんはもう、ここではないどこかにある本当のお家へ帰ってしまったかも知れない。まだ生きているみたい、ということさえ、知らないままで帰ってしまったかも知れない。
 そう思うと、相変わらずずきずきと重たい痛みを訴え続ける頭よりも、本当は胸の方が痛いような気さえする。
 でも、力を入れているつもりなのにほんの少しも持ち上がらない手は胸に当てることすらできなくて、だから、弱々しく脈打つ心臓とは別のどこかで破裂しそうな激しい鼓動を繰り返す何かに手を当てることもできない。
 祐一くん。
 せっかくお友達になれたのに。
 やっと‥‥‥ひとりぼっち、じゃなくなったのに。
 また会えるって約束があれば、さよならしても寂しくない、って思おうとした。祐一くんが本当のお家に帰って、またボクがひとりに戻っても、祐一くんがくれたたくさんの思い出があれば、きっとここで祐一くんが帰って来るまで待っていることはできそう、って思えた。
 祐一くんは何度も何度も帰って来るって言ってくれた。
 でもボクは。
 ボクはまだ、祐一くんに何も返せてないのに。
「あゆちゃん! あゆちゃん起きて! もうすぐ祐一が帰っちゃうんだよ!」
 ‥‥‥突然、ばんばんと力いっぱい壁を叩く音と、
「あんな、ずっと下を向いたまま、ずっとずっと泣いてるままで、祐一が帰っちゃうよ! 起きて、起きてよ、あゆちゃんっ!」
 いつかどこかで聞いたことがあるような女の子の声が聞こえて、でもそれは、何人かの大人の声に紛れて、すぐに遠くなってしまった。



 ずっと下を向いたまま。
「お願い‥‥‥お願いだよ神様! 今だけ、ボクを天使にしてよ! ボクは大丈夫だって、だから泣かないでって、祐一くんにどうしても伝えたいんだよ!」
 ずっとずっと泣いてるままで。
「だって、ボクは大丈夫なんだから! ボクがちょっと、失敗しちゃっただけなんだから! 祐一くんは何も悪くないんだよ! こんなの、全然、祐一くんが、泣いちゃうような‥‥‥ことなんかじゃ、ないんだよっ!」



 その言葉は。
 叫ぶ声になって部屋中に響く代わりに。
 腕も上げられらないような不自由な身体から。
 あゆの、心を、押し出した。



 ドアも開けずに、あゆは廊下へ飛び出す。
「あゆちゃん?」
 廊下の向こうで声がした。
「あゆちゃん、あゆちゃんでしょ?」
 白衣を着た大人に捕まっている女の子が、あゆの名前を呼んでいる。
「何を言ってるんだ。誰もいないじゃないか。君ね、病院では静かにしなさい、と今言われたばかりじゃ」
 そこにあゆがいる、ということに、白衣を着た大人はまったく気づいていない様子だった。
「あゆちゃん、こっち!」
 大人の両手を振り切って、駆け出した名雪は擦れ違いざまにあゆの手を掴んだ。
「急がないと、祐一が行っちゃうよ!」
 そのまま、掴んだあゆの手を引いて、廊下を駆け抜け、玄関口の閉まりかけの自動ドアを擦り抜け、息が上がっても、胸が潰れそうで苦しくても、勢いだけは少しも緩めることなく、全力で走り続ける。



 雪に残ったひとり分の小さな足跡は、やがて一本の線になって病院と駅を結んだ。
 自分が本当はこんなに速く走れるだなんて、名雪自身も今まで全然知らなかった。
 でも。
「待って! 待ってよ!」
 息を切らせて名雪が列車のホームまで駆け上がった頃、既に動き出していた列車は、見つめる秋子の視界の中でゆっくりと遠ざかりつつあった。
「名雪? 今までどこへ行っていたの?」
「あゆちゃん、を、呼びに」
 浅い呼吸を繰り返しながら、切れ切れの言葉で答える。
「そう‥‥‥」
「祐一は?」
 名雪にだって、小さくなっていく列車の背中は見えている。それでも、そう尋ねずにはいられない。
 気持ちがわかるから、俯いた秋子には何も言えない。
 名雪はその場にがっくりと膝をついた。
 病院で騒いで先生に怒られた。壁を叩いた手は今でも痛むし、胸の中から空気がみんななくなってしまったような苦しさはまだ治まりそうにない。それでも。
 結末は残酷だった。
 名雪は、間に合わなかった。
「‥‥‥そんなっ!」
 身体がついて来ていればきっと痛がったに違いないくらいの強さで握られていた手を振り解いて、
「祐一くん! 待って祐一くん!」
 夢中で叫びながら、あゆはホームの端まで走った。
「祐一くん! ボクは! ボクは大丈夫だからっ!」
 だが、ホームの端にオマケのように据え付けられたフェンスに跳ね返されて、あゆはその場に転んだ。
「う‥‥‥ぐうっ」
 重くて分厚い病院のドアは開けなくても通り抜けられたのに、骨組みしかないようなスカスカのフェンスには寄りかかることしかできなくて、
「だっ、大丈夫だからあああっ!」
 両手で掴んだその骨組みをぎしぎしと力任せに揺すりながら、声の限りに、あゆは叫んだ。それでも。
 結末は残酷だった。
 自分の身体を放り出してまであゆが伝えようとした言葉は、とうとう、祐一には伝わらなかった。



「ボクは大丈夫なのに」
 ぽつりと呟く。
「大丈夫だって、伝えたかったのに」
 ぎゅっと閉じられた目蓋の端から、堪え切れない涙の雫が溢れてくる。
「いつか‥‥‥また‥‥‥この場所で‥‥‥」
 あの日、最後に祐一が歌ってくれたメロディの切れ端を、うろ覚えのまま、涙に滲む声でぶつぶつと口遊みながら、寄りかかったフェンスの骨組みをなぞるように、あゆがその場に落ちかかる。
「あゆちゃん」
 まだ空気の足りない胸に手を当てながら、慌てて駆け寄った名雪の胸に、今度は本当に、あゆが泣き崩れた。

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