窓はすっかり結露している。
教室の中にはエアコンのくぐもった音がして、空気が少し淀んでいた。黒板にチョークが書き付けられる音と、ルーズリーフに走るシャープペンの音が混ざったその部屋の空気は、睡魔が眠りの粉を盛んに撒いているようなものだった。まぶたとまぶたがくっつきそうになるたびにささやかな抵抗をするものの、どうやら白旗降参しなければならないようだった。
「あー、ねむい、なぁ」
ぽて、と頬をノートの上に落として、何気に隣の席を見た。隣のそのまた隣はこれまた見覚えのある顔が真剣そうに黒板を見ていた。真面目だなぁ、と心底感心する。と。
「……」
じろり、と睨まれた。
それからはぁ、っとため息をついている。
何かノートに書いている。
こちらにちらりと見せた。
"勉強しなさい。"
――なんて書かれていた。
私はしょうがないので、顔を起こして前を見る。シャープペンを握って意識をもう一度振るい起こした。それからちらり、と横を見ると、彼女はまだ私を見ていて、めっ、とで言うようにもう一度私をじろりと睨む。私は慌てて前を向いた。
季節は、冬。
等しく回る季節。窓の外はグレイの空。
今回のお話は、まずそこから始まる。
Scene.01
「アルバイト?」
鞄に資料集を詰め込んでいた彼女は、私のセリフに肩眉だけ上げて答えた。
「そう、アルバイト。資本階級ではないしがない労働者階級が時間の代わりに賃金を得る行為のこと、です」
私が人差し指を振りながら解説すると、
「栞、」
彼女はため息をついて椅子から立ち上がり、結局鞄に入りきらなかった世界史の教科書をぽすん、と私の頭の上に乗せた。
「ふぎゃ」
「ふぎゃ、じゃありません。アルバイトという概念を私がさも知らないかのように言って。ヒトをバカにするのも程ほどにしなさい。大体そうやって私をからかう癖はいつから身に付きましたか。ヒトを揶揄するということはですね、他人と自分の差異を強調しているようでありながら結局のところ自分を貶めているだけに過ぎないことをどうしてわかりませんか、そもそもですね、」
私は目を瞑って、左右の人差し指をそれぞれの耳に突っ込んだ。
「……?」
薄目を開けてみると、彼女――天野美汐という私の友達――が腰に手を当てて、ふん、っと鼻を鳴らしていた。
「……お説教終わった?」
「お説教じゃありませんっ!」
青筋を立てて怒る彼女。
「全く」
「ごめんなさい」
私はしゅん、として頭を下げた。
「それで?」
「はい?」
胸に片手を当てたいつものスタイルに戻った美汐は、いつものように半眼(つまり不機嫌そうに睨んでいるような感じ)のまま、私に尋ねた。
「どんなお仕事なんですか?」
「うん、それは、えーと」
私は彼女が素直に話の乗ってきてくれたことが嬉しくて、制服のスカートのポケットをごそごそとかき回した。
「あれ、えーとここにあったんだけどなぁ」
まぁいいや。
「部室で話そ」
「それは、構いませんが」
美汐は結局入らなかった世界史の教科書をどうしようかと一瞬躊躇ったようだったが、結局右手に持った。多分部室に資料と一緒において始業前に取りにいけばいいと判断したのだろう。私なんかは机の中に入れておけばいい、とすら思うのだが。
「いきましょうか」
私たちはがらりと扉を開けて、廊下に出た。廊下はすごく冷えていて、中庭に面しているガラス窓は軒並み曇っている。窓の外は雪が待っているようだった。時々びゅう、と風が吹くと、カタカタとアルミサッシを叩く音がする。私はストールを羽織ると、その端を片手で持って歩き始めた。
「毎回思いますが」
「はい?」
「栞そのストールの持ち方は器用ですね」
右手のほうは鞄があるので片方で布の両端を持たなければならないのだ。
「慣れてみると簡単ですよ」
「そういうものですか」
「そういうものですよ」
美汐は学校指定のコートを左手に抱えて持っている。彼女のコートは随分色がくすんでいて、誰かのお下がりを使っているようにも見えた。この学校は何度か制服は変わっているらしいのだが、コートはずっと変わっていないのだそうだ。ロシアかどこかの外套みたいなデザインで、ボタンのほかに一番上にリボンがあって、それが学年ごとで色違いになっている。彼女のそれは制服の――私の使っているものと同じということだ――色と同じだったから、きっと三年、あるいは六年前のコートなのかもしれない。
「あ、ちょっと待ってください。鍵を取りにいかなくては」
「資料室の?」
「ええ。すっかり忘れていました。寒いとつい、教室から出るのが億劫になってしまって。だめですね」
美汐はなんだか微妙なセリフを言うと、職員室へ向かおうとする。
「栞は先行っていてください」
「あ、はい。わかりました」
職員室へ向かう美汐を送る。
私は資料室へ足を向けることにした。
Scene.02
当然のことながら、資料室は空いていない。
あの春先に私が史学文芸部に入ってから、私と美汐以外の部員を見かけたことがないが他の人たちはどうしているのだろう。案外大きい図書館のほうで普通にやっているか、空き教室かどこかで活動しているに違いない。しかしこう寒くては空き教室も辛いなぁと思うのだがどうだろう。
「栞、ここだったか」
資料室の前にぼんやり立っていた私は声に振り向いた。
「祐一さん。どうかしましたか?」
三年生は確か模試中だったと思うのだが。
「いや、模試終わったんだ。途中で北校舎向かうの見えたから香里んとこいったのかとおもったんだ」
北舎には演劇部や軽音楽部の部室がある。
「そうですか、すみません。何かご用時でしたか?」
「特には無い」
「そですか」
祐一さんが私の髪の毛に手を伸ばしてくる。私はわしゃくさと撫で付けられるままになっていた。
「うー、寒いな」
「祐一さん、コートはどうしましたか?」
「今日は着てこなかったんだ。急いでて」
「またお寝坊さんですか? 怒られますよお姉ちゃんに」
「もう怒られたさ」
私の左手を取って、それからぐい、と抱え込んで祐一さんは壁にもたれた。
「……どうしました?」
「手、冷たいぞ、栞。こんなとこで立ってるからだ」
「いえ、まぁそうなんですけど。でも鍵が開いてないのでしょうがないんです」
「開くのを待ってるのか? 自分で鍵を探しに行けばいいのに」
「鍵はその、」
「ヒトを悪役にしないでいただきたいですね」
冷えた声が聞こえた。
「……美汐。おかえりなさい」
「鍵を取りに行くのが遅くて申し訳ありませんでした」
私に頭を下げる。
「いえ、そんな」
「そうだぞ、栞がこんなに冷えてるんだぞー」
祐一さんが茶化す。すると彼女の眉がますます釣りあがるので慌てて私は言った。
「ぜ、全然寒くなかったですよ、ストールもありますしっ。ほら、祐一さん、茶化さないでくださいっ。美汐が怒ってるじゃないですか」
「怒っていませんが何か?」
彼女は口元をぴくぴくさせながら言った。
どうやら笑っているつもりらしいがソレを見ていて全然笑えない光景だと思う。
「ゆ、祐一さんもよかったらどうですか、お、お茶ぐらいいれますよ」
「入れなくて良いです、栞」
ぴしゃり、と言って彼女はがちゃりとドアを開け中に入っていってしまった。
「なんだありゃ。機嫌悪いなぁ」
「……誰のせいだと思っているんですか」
「誰のせいだ?」
相変わらずわかっていない。
私はため息をついた。
「美汐は繊細なんですから、あんまり迂闊なことは」
「まぁきっとアノ日なんだろうなぁ」
バタン!
ドアが急に開いたかと思うと目元を赤くじんわり染めた美汐が顔だけ出して、
「違います!」
とだけ言ってばたんとドアが閉まった。
「……あの、祐一さん。そういうのが迂闊なんです」
「……わかったよ……」
私は苦笑しながら、一緒に資料室に入った。
○
「へぇ。こんな場所があったんだ」
「一生知らないほうがよかったんじゃありませんか」
美汐が湯飲みに紅茶を入れながらそんなことを言う。
「まぁまぁ、美汐。祐一さんも悪気があったわけじゃありませんし」
「無ければいいというものでもありません!」
うわぁ。
相当怒ってる。
「あんまり怒ると皺が増えるぞ天野」
「…………! ……! ……!!」
美汐は腕をぶんぶんと振り回して声にならない憤怒の表情をしている。
「なぁ栞」
「はぁ、なんでしょう」
「類友だなぁ。天野と栞」
「……あの、祐一さん、それはどういう?」
「いやー。なんでもないなんでもない」
あっはっは、と笑っている祐一さんは凄くのんきだった。
「……はぁ。栞、教育がなっていません。しつけがなっていません。まったくなっていません!」
「ご、ごめんなさい」
美汐はぷんすか怒っている。
感情を露骨に出すのは珍しい。まぁそれほど祐一さんが感情を巻き起こしているのだ、と言えなくもないのだが。それにしてもどうしてこう反発するのかは謎だ。私にはよくわからない。祐一さんは、というと思い当たる節があるのかないのか、ひらりひらりと怒りをのらくらかわしている気もする。だが今はそれより。
「機嫌直してください、美汐」
「セクハラまがいの言動をされて、怒らないほうがおかしいとは思いませんか、栞」
「まぁ、確かに。ダメですよ、祐一さん」
「すまん。反省」
「……ほら、反省してることなので許してあげてください。美汐の言うとおり、祐一さんはとてもダメなひとなんです。悪ふざけはしょっちゅうだし、脈絡は無いし、人のこと全然考えないし、わがままで勝手だし」
「はいはいすみませんね」
「だから怒ってあげるのはよいことですから」
「……そんなダメ人間とっとと別れてしまえばよいのです」
美汐はぷぅと膨れてむくれている。
「でもまぁ、あばたもえくぼですから。惚れちゃった私が悪いのです」
「……」
美汐はちらりと私を見て、はぁ……っ、と長いため息をついた。
「栞はお人よしですからね」
「それはもう筋金入りでして」
「……わかりました、もういいですよ……お茶は?」
「いや、もういい」
祐一さんは立ち上がるとぽむ、と私の頭の上に手を置いた。
「雪がひどくなる前に帰れよ、栞」
「あ、はい。わかりました。祐一さんは?」
「図書館の北川拾って帰る。またな、天野」
「またがあればよいですけどね」
「あるさ。何度でも。人付き合い、ってそういうもんだろ」
「……」
バタン、と扉が閉まる。
しばらく静かな空気が流れた。
「……すみません、あんな人で」
「栞の自由ですから、私がどうこう言うことではありませんよ」
「……そうですけどね」
紅茶を飲む。
くすんだ緑色の湯飲みに入ったオレンジ・ペコは水色がよく見えない。それでも豊かな香りと温かい液体は体と心を楽しませてくれた。
「それで?」
美汐が不意に言葉を投げかけてくる。
一瞬何のことかわからなかった私は、直ぐに思い出した。
「あぁ、バイトのこと」
「ええ。その話をしにきたのでは?」
「すっかり忘れていましたよ。えーと」
スカートからよれよれになった紙を引っ張り出す。
「駅前に、新しいスポーツジムが出来たそうなんです」
「そうなんですか」
そういうのは疎くて、と美汐が呟く。
「……結構時給が良いものですね」
「冬休みに入ったらやってみませんか」
「それは、構わないのですが」
美汐は少し戸惑い気味に言った
「この『制服支給』ってなんですか?」
「あ、それは実は私も疑問に思っていたんですよよね。なんだろ。まぁ、行けばわかるということで」
「そうですか……、まぁそんなものかもしれませんね」
美汐はイマイチ釈然としないながらも、緑茶をすすりながらそう答えた。
○
外は雪が降っているというのに、ハワイアン・ミュージックが流れている。あちらこちらに熱帯性の観葉植物がおいてあるので、ここだけ夏であるかのようだった。結構ヒトが入っている。きっと冬にこうした夏気分を味わうのがいいのだろう。
「栞」
「はい、なんですか?」
「……いえ、なんでもないです」
デッキブラシをごしごしやっている私を見て、美汐はため息をついた。
「お仕事お仕事」
「栞、一つ聞きたいのですが」
「はい、なんでしょう?」
「何故、このバイトなんですか?」
「……んー」
私は人差し指を顎に当てて考え込んだ。
「……んー。夏っぽいことをしたくて」
「それは夏にやってください……」
「そうなんですけどね」
でも、冬のバニラ・アイスとか。
そういうのが私によく似合うと思うのだ。
でも一人はちょっと寂しいから。
「美汐を巻き込みたかったんですよ」
「……そうですか……」
美汐はぐったりと疲れたようだった。
胸に「あまの」とひらがなで大書された名札も眩しい(ついでにその字はすごくやる気が無さそうな彼女の字だった)。支給された「制服」とはつまり、水着のことで。
「私たち、中学生かなにかと勘違いされてませんでしょうか」
「いや、それはないんじゃないかなぁ」
私は紺色の水着の布地をひっぱりながら、あはは、と笑った。
外は静かに雪が舞っている。
その冬寂の中とは全く違う箱庭のセカイのなかで、私は彼女とのんきに笑いあった。
[Asynmetric "Wintermute" author:せいる]
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