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「もしかして、北川くんって雨男なんじゃないの?」
「美坂が雨女なんじゃなくてか?」
 不毛に責任を押し付け合う言葉も、口にした側から雨音に溶けていく。
「あたしは違うわよ。どっちかっていえば晴れ女」
「そうなのか? おかしいな、俺もそっちの筈なんだが」
 仮に、それが本当にどちらかのせいであったとしても、変わらないことはひとつ。
 嫌がらせか何かのように今日という日を選んでざーざーと降りしきるこの雨は、今日のうちには多分止まないだろう、ということだけだった。



 最寄りの駅から続く道は、舗装されている割には酷く凸凹していて、水溜まりの深い場所と浅い場所が斑模様を描いているような有様だ。
 暗い雨雲を映し込んだ水溜まりはまるで泥水のようで、
「いいのか美坂、そんな思いっきり足突っ込んじゃって」
「いいのよ。そのためにサンダル履いて来たんだもの」
 浅いところを器用に渡り歩く北川は、水を蹴立てながらひたすらまっすぐに歩を進める美坂に気づいて驚く。
「ミもフタもないな」
 苦笑する北川の足元にはソールの厚いバスケットシューズ。
 それも一応、北川なりの雨対策ではあったのだが。
「こんな大雨だもの。濡れないように、なんて考えるだけ無駄よ」
 確かにそれでいいのかも知れない、と北川は思った。
 なにしろ今は夏休みで、こんな雨にもかかわらず、蒸し暑いところだけはちゃんと夏らしいのだから。
「どうしたの北川くん? あたしの足に何かついてる?」
 不意に歩みを止めた香里は、自分の足元をさっきからじっと見ている北川に声を掛ける。
「あー‥‥‥サンダル?」
 誤魔化すように答えた北川の顔をめがけて、香里は水溜まりに沈んだ右の足を振り抜いた。
「うわっ」
 勢いよく跳ね上げられた飛沫は北川に届かなかったが、代わりに、飛び退いた北川の足元からは派手な水音が聞こえた。
 にいっ。香里が唇の端を吊り上げる。



 緩やかに曲がりくねりながらだらだらと長く下る坂道を辿っていると、不意に、視界が開けた。
 防波堤のように一段高く造られたふたりの足の下から、すぐ目の前に広がる海へと砂地が続いている。
 晴れていれば今頃はこの辺りも海水浴に来た客でごった返していたのだろうか。
「当たり前だけど、誰もいないな」
「サーファーなら向こうにいるみたいよ」
 傘を持っていない方の香里の手が少し遠くを指差す。
 風がない割に波は高いらしい。確かにそこには何人かのサーファーがいて、波に乗ったり足元を掬われたりしているようだ。
「北川くん、せっかくだから泳いで来たら? 今ならこの砂浜を独り占めできるわよ?」
「美坂が一緒に泳ぐっていうんなら考えてもいいけどな」
「あたしは遠慮するわ。水着なんか持ってきてないもの」
「ったく準備の悪い奴‥‥‥うわごめんなさい何でもありません」
 さっき振り抜かれた足がもう一度上がるのに気づいた北川は慌てて謝り始める。
「仕方ないわね」
 いかにも渋々といった表情で香里は右足を降ろす。
 砂浜に蹴り落とされそうな危機的状況から取り敢えず脱した北川が安堵の息を吐いた。
「準備が悪いって言うけど、北川くん、水着なんか本当に持って来てるの?」
「まあ、実は一応」
 何か不思議な生きものでも見つめるように、香里は北川の顔を見つめる。
 傘を持っていない方の手が北川の頬に触れる。
 その手は頬に添えたまま、香里の顔がゆっくりと、添えた自分の手と、そこにある北川の頬に近づいていく。
 そして。
 どうにか平静を取り繕おうと頑張る北川の耳元で。
「何赤くなってるのよ馬鹿」
「‥‥‥このやろー」



 北川のすぐ側からぱっと飛び退いて、笑いながら砂浜へ逃げ込んだ香里を北川が追う。
 だが、傘を差している上に、雨に濡れたせいで土のように重たくなった砂がもともと重いバスケットシューズに纏わりついて、思うように走れない。
 香里の方は身軽なもので、時々波打ち際まで駆けて行ってサンダルの土をばしゃばしゃと洗い落としながら、機動力に劣る北川を挑発するように、近寄ったり離れたりを繰り返す。
 業を煮やした北川は、差したまま走っていた傘を畳んで、手近な砂地に突き立てた。途端に頭からびしょ濡れになるが、それも構わずに香里を追いかける。
 流石に分が悪い香里は、くるぶしまで沈めた海を背にして北川を待ち構える。
 そうして、ほとんど「飛びかかってくる」くらいの勢いで迫る北川をいなすように、



 ‥‥‥いなせなかった。
 ざばん。
 波に負けないくらいの飛沫をたてながら、もつれあったふたりは海の中へと倒れ込む。



 差したまま走っていた香里の傘も、北川が砂に立てた傘も、ふたりの上を通過した波がどこかへ持ち去ってしまったらしい。
 水底の砂にぺたんと座り込んだ香里は、呆けたように、ただ頭上の雨雲を見上げている。
 長い髪から滴る雫が、海の水なのか、それとも雨粒なのか、今はもうよくわからない。
 すぐ横で身を起こした北川は、さっきから何やら気まずそうな顔をして、自分の身体に纏わりつく服を必要以上に気にしている。
「北川くん。今日、あたしたちって」
 ぽつぽつと呟く声。
「う‥‥‥ご、ごめん」
「怒ってないわよ、別に」
 しょうがないわね、とでも言いたそうに息を吐いてみせながら香里が笑う。
「それより。あたしたちが、水族館に行く予定、だったと思ったんだけど」
「そうだけど」
「なんか、これって」
 手のひらで掬い上げた海の水に雨が何度も水紋を作る。
「‥‥‥まあいいわ」
「何だよ? 気になるだろ」
「いいのよ。それより、どうするのこれ?」
 強引に話を変えながら自分のシャツの肩口を摘む。
 途端に、申し訳なさそうに歪む北川の表情を見て、香里はもう一度笑った。






 緩やかに曲がりくねりながらだらだらと長く下る坂道を辿っていると、不意に、視界が開けた。
 防波堤のように一段高く造られたふたりの足の下から、すぐ目の前に広がる海へと砂地が続いている。
 だが、仮に天気がよかったとしても、季節外れの寒々しい砂浜で海水浴もないだろう。しかもそぼ降る雨のせいで景色は一様に暗く、広がる海も鉛か何かのように重たく見える。
 ‥‥‥あれから半年くらいが経った、冬休みのある日。
 あの時の海辺で、ふたりはまたも雨に降られていた。
「北川くん、今日は泳がないの?」
「美坂が一緒に泳ぐっていうんなら‥‥‥考えなくも、ない、けど?」
「本当に?」
「ごめん嘘」
「なんだ。つまらないわね」
「いや、つまんなくていいから、取り敢えずその足降ろしてくれ美坂。なんでまた蹴り落とす気満々なんだ」
 本当につまらなそうな顔をして、香里はブーツの右足を降ろす。舗装路のくせに妙に凹凸が多いのは相変わらずのようだが、しっかり水溜まりを避けて立っているあたり、香里も流石であった。
「‥‥‥つまらないって、まさか美坂、本当に水着持ってきてるとか?」
「お願いだから真顔でそういうおかしなことを聞かないでくれる?」
 言うだけ言ってくるりと前に向き直った香里の、あれから買い直したらしい傘の鮮やかな青が、北川の視界を半ば塞いだ。
「うわっ」
 傘から散った飛沫に北川が顔を顰めた頃には、香里はさっさと歩き始めている。



「そういえばあの時、何か言いかけたよな、美坂」
 追いついてきた北川はぶつぶつ言いながら後ろを振り返っている。ふたり仲よく水没した砂浜。
「よく憶えてるわね、そんな昔のこと」
 あの傘はどこへ流れていったんだろう。ふと、そんなことを香里は思う。
「昔って、まだ半年しか経ってないだろ」
「そうだったかしら? もう忘れたわ」
「いや、俺はあれからずっと気になってたんだけど。もしかして美坂、やっぱりあの時、水族館行きたかったんじゃないかな、とか」
 あの砂浜からさらにしばらく歩いたところに、水族館がある。そこが今日の目的地で、半年前に来た時も、本当はそこが目的地だった。
 だがあの後は、運よくオーナーが準備に来ていた砂浜近くの海の家でシャワーを借してもらえることになって、服が乾くまで中の座敷で休ませてもらえることになって、ついでに焼きそばまでご馳走になって、でも夕方になっても完全には乾ききらなかった服を仕方なしに着込み、結局、そのまま電車で帰ってしまった。
 だから、ここに来たのは二度目だが、水族館には初めて入ることになる。
 ‥‥‥これから何も起こらなければ。
「別に怒ってないって言ったじゃない。それに、あれはあれで結構楽しかったのよ。今だから白状するけど」
「憶えてんじゃねーか」
「あ」
 言われた香里は、
「‥‥‥水族館へね」
 ばつが悪そうに苦笑した。
「魚を観に来た筈だったじゃない、あの時も」
「ああ」
「でも、雨が降ってて、あたしの方が海に浸かってて。水の中‥‥‥何だか、あたしたちの方が水族館の水槽の中にいるみたい、ってちょっと思ったのよ。それだけ」
「ふーん‥‥‥」
「笑ってもいいのよ?」
 僅かに目を逸らしたまま、憮然と香里が呟く。
「いや、笑わないけど。それよりさ」
「何?」
「あの海が水族館の水槽で、俺と美坂がその中の魚で」
「ええ」
「それを観に来る奴らって何考えてるんだろうな」
 至極真面目に北川は首を捻った。
「鏡に聞いてみたら?」
 香里の返事は、いつもよりも素っ気いように思えた。



 そんな風に他愛のないことを言い合いながら、海岸沿いの道をしばらく歩くうちに、目指す水族館がようやく見えてくる。
「あ、それで、さっきの話だけどさ」
 思い出したように北川が話を戻す。
「どの話?」
「なんで美坂、水族館に行きたいとか言い出したのかな、と思って」
「さあ。どうしてだったかしら」
 わざとらしく肩を竦めてみせる香里。
「あのな。それじゃ今日は何しに来たんだよ」
「何しにって、魚観に来たに決まってるじゃない。水族館で他に何するのよ」
「うーん‥‥‥また水槽の魚の気分になってみるとか」
「それはもうやったじゃない。それとも、今から浜まで引き返して、今すぐにまたあの海で泳ぎたい、という意味に解釈して欲しいのかしら?」
「丁重に遠慮します」
「残念ね」
 コートの襟首を摘んで、意味深な流し目。
「今日はちゃんと水着着て来たのに」
「は? 何で? ‥‥‥っていうか、さっき言ってたのと違うだろそれ」
 呆れたような北川の声を後目に、ひとつひとつ、コートのボタンを外していく。
 その中に着ているのは、特に何の変哲もないブラウスとスカート。
「確かめてみたい?」
 続けて、ブラウスのボタンに指を掛ける。
 ごくり。
 我知らず、北川が喉を鳴らす。
「恥ずかしいから近くに来て。もっと近く」
「‥‥‥ああ」
「ほら」
 ふたつだけ外したブラウスの首元から、北川がその中を覗こうとする。



 頭上で傾けられた香里の青い傘から、北川の頭上に雨粒が流れ落ちた。
「‥‥‥っ! ‥‥‥っ! ‥‥‥っ!」
 それは見る間に後頭部から首の後ろを伝い、声にならない悲鳴を上げてじたばたともがく北川の服の中で滲んでいった。
「すけべ」
 してやったり、の顔で舌を出してみせて、
「このやろー」
 くるりと踵を返し、今度は水族館に向かって走り始めた香里を北川が追いかけ‥‥‥そうこうしているうちに、夏には辿り着けなかったゴールが、いつの間にか、ふたりのすぐ目の前にまで近づいてきていた。

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