「雪が降ってるわよ」
花瓶の水を替えてきた香里が声をかけた。
「ん‥‥‥お姉ちゃん、来てたの?」
手の甲で目蓋を擦りながら、ベッドの上の栞がのそーっと半身を起こす。
「よくそれだけ眠っていられるわね。飽きないの?」
「そんなことないですよ? それに寝る子は育つのです」
充分以上に寝ている割には発育不全気味の胸を張って、栞が答える。
「それより、お姉ちゃんも目が真っ赤だよ。また」
「喧しいわよ。いいから黙って外でも眺めてなさい」
遮るように言い捨てられて、むすっと頬を膨らませた栞は香里から目を逸らし、
「そんなこと言われても‥‥‥わ、雪が! お姉ちゃん大変! 雪が降ってるよ、ほら、雪!」
首をめぐらせた先にはちょうど窓があった。
‥‥‥大変も何も、だから「雪が降ってるわよ」って言ったでしょうに。一体この子は人の話のどこを聞いているのだろうか。
大体今日は朝から雪だったのに、こんな時間になるまで一度も目を覚まさなかったのかしら?
香里は肩を竦めてみせたが、栞が窓の外に夢中になっているのはわかっていたので、そんなポーズもすぐに止めてしまった。
二重に閉め切られた硝子窓の向こうで、粉雪は音もなく舞い散り続けている。
葉の落ちた樹の幹や枝の茶色も。
アスファルトの黒っぽい青も。
向こうのビルの鼠色も。
屋根瓦の赤茶けた色も。
ありとあらゆる白でないものが白く塗り潰されていく様を、ふたりは、じっと見つめている。
「ホワイトクリスマス、だね」
もう騒ぐのも飽きたのか、栞が静かに向き直った。
「まだイヴでしょ? 明日も雪が残っていたらホワイトクリスマスだけど」
「こんなにたくさん、今すぐ晴れても溶けないよ。それに日本はほら、イヴの方がメインみたいなものだし」
「そうね。病床の妹とふたりで迎える、とかじゃなければ、もう少しロマンティックだったかも知れないわね」
ちょっと意地悪く言ってやったつもり、なのだが。
「だって、お姉ちゃんのことは、待っててくれてる人がいるでしょ?」
どうも最近、栞の反撃が手厳しい。
「どうしてそうなるのよ」
「きっと昨夜も待ってたんだよね? 電話が来るのを。毎晩、こんなに目が赤くなっちゃうまで」
香里の顔が僅かに赤くなる。
「馬鹿なこと言ってると帰るわよ?」
怒ったぞの声で香里が告げる。‥‥‥声は怒ったぞだが、その声で届いた言葉は否定を意味するものでもない。
栞はくすりと笑みを零し、そして、
「行ってらっしゃいませお姉様。どうぞごゆっくり」
ベッドの上に起こした半身でわざとらしく礼などしてみせるものだから、立ち上がりかけていた香里も意地になって、これ見よがしにベッドに腰かけ直してしまう。
「それで、待ち合わせは? せっかくのクリスマスなのにあんまり待たせたら気の毒ですよ?」
「‥‥‥してないわよ」
「へ?」
「してないの。誰とも。待ち合わせなんて。今日は」
ぶすくれた香里はぶつぶつと言い募る。
「今日は別に何も用事はないし、この後は百花屋でショートケーキでも買って帰るわよ。読んでる本もあるし」
予め決められた用事なんて本当に何もなかった。
祖母が具合を悪くしただかで両親は自宅にいない。
他の友人連中にはそれぞれ都合があるだろう。そんな野暮なことなど確認したいとも思わない。
こうしていると何だか明日にでも退院できてしまいそうな気もするが、一応栞は入院中の身だ。夕方から夜に向かいつつある筈の今から、連れ立ってどこかへ出掛けられるわけでもない。
前々から誘われていた水瀬家のホームパーティは、ありもしない家庭の事情を持ち出して欠席にした。
用事などないのだ。
なくなるように仕向けたのだから。
なのに。
それなのに。
「えー」
栞は栞で何やら不平を言いたてるが、
「私もショートケーキ! イチゴとえーとモンブラン!」
「そ‥‥‥そっち?」
いちいちオチがつくのは何とかならないのか。
処置ナシ、といった感じで香里は小さく首を振る。
「まあ、それもあるんですけど、メインはやっぱり待ち合わせの‥‥‥待ち合わせがない方っていうか。本当に?」
「余計なお世話よ。大体あなた、どうしてあたしが誰か待たせてるとか思うわけ?」
「だって、お化粧。リップの色。イヤリング。ちょっと他所行きっぽいお洋服。雪なのにヒールの靴。それから」
「‥‥‥喧しいわよ」
ぺちん。
何だか無性に腹立たしくて、香里は栞の頭を叩いた。
「うう、お姉ちゃんがいじめるー」
「馬鹿言ってないでとっとと寝てしまいなさい病人」
言うだけ言ってぷいと顔を背ける。
どこまでも勝手な姉と。
恨みがましく頭をさする妹と。
再びの、静寂。
「白ってね」
「ん?」
「寂しがり屋さんの色だな、ってさっき思った」
「何よ突然?」
「絵の具は、どうやって混ぜても白くはなりません」
ぴんと立てた人差し指を振っているのは、どの先生の真似だろう?
「混ぜれば混ぜるほど黒くなってしまうからです」
「そうね」
そのことなら、香里にも昔習った憶えがある。
赤、緑、青。色の三原色。
確か、混ぜると白くなる色もある。あれは光の三原色と言ったか。だがあれは光線でやるからそう見えるもので、絵の具でそれを真似することはできない、とも。
「だから雪の日は、白にとってはチャンスなんじゃないかって、さっき思った。何に積もっても雪は真っ白いままで、どんなものでも白くなっていく。混ぜたら黒くなる絵の具でも。‥‥‥誰でも綺麗に、真っ白になれる日」
「それは、あたしが黒い、と言いたいの?」
つまり、雪でも被って白くなって来なさい、と。
「そんなことないですよ? あんまり」
「こら。あんまりって何よあんまりって」
ぺろりと舌を出す栞の頭を軽く小突く。
「それはさておきお姉ちゃん」
「だから何よ」
「外は雪」
「ええ」
「頃は黄昏」
「そうね」
「そして今夜は、年に一度のクリスマス!」
「だから」
「お姉ちゃんが学校でどんなお姉ちゃんなのか、本当は私よくわからないけど、でも多分今日は、誰かの前で真っ白になってもいい日だよ? 今日を逃すとまた一年、もしかしたらもっと、チャンスがまわってこないかも知れないよ?」
「余計なお世話よ。いいのよそんなチャンス、別にこれから幾らだって転がってるんだから」
「でも、カレンダーに『明日』って書いてあるとこ‥‥‥お姉ちゃん、見たことある?」
「それは」
今の今まで満面の笑みを湛えていた筈の栞が、
「いつでもできると思ってることなら尚更、できると思えるうちにやっとかなきゃ、って思うよ」
いつしか、まっすぐに、香里の瞳を見つめていた。
灰色の重たい雲が厚く垂れ籠めた暗い空は、そういえばさっき、栞とふたりで見つめた空よりもっとずっと暗くなっている。
絶え間なく降り続く雪は、手当たり次第に何もかもを‥‥‥遂には夜の闇さえも白く染めあげようとしている。
リノリウムの床に杖のように傘を突いて、硝子の自動扉の向こうに降り続ける雪を見つめる。
いつでもできると思ってることなら尚更、できると思えるうちにやっとかなきゃ、って思うよ。
何度も何度も、栞の言葉が心のどこかを掠めて過ぎる。
‥‥‥冗談じゃない。そんなに簡単に、真っ白になんてなってやるもんですか。
硝子の自動扉の向こうに広がる闇を香里は睨み据える。
見てらっしゃい。
この闇のどこかにいるに違いないあの意気地なしを、今から探し出して、あたしの代わりに雪だるまにでも埋めてやるわ。
そうよ。いるったらいるのよ。いるに決まってる。
待ち合わせしてないくらい何よ。
「約束がないくらい‥‥‥それくらい何だっていうのよ」
決然と呟いて。
長いコートの裾を翻して。
叛乱の旗印のように、どこか青空にも似た鮮やかな傘の青を頭上に翳して。
奇蹟にも似た偶然だけを頼りに、香里は白い闇の奥へと踏み込んでいく。
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