朝から降っている雪はまだ止みそうになくて、開いた黒い傘の上でさらさらと踊る音がずっと聞こえている。晴れていればそろそろ夕暮れも近い頃だが、こう雲が厚くては時間の見当もつけづらい。
北川の目に映るクリスマスイブの街は、やけに華やかなモノクロームの風景写真のようだった。
吹き込む風に煽られてコートの裾やスーツの足元に着地する雪を時折払いながら、クリスマスムード一色の駅前通りをふらふらと歩いている。慣れない革靴は雪の上では滑りやすくて、玄関からほんの十数歩の地点で既に自分の選択を後悔しかけていたが、だからといってこの日のためにわざわざ買ったスーツを諦めたくはなかったし、諦められない以上、格好がスーツなのにトレッキングブーツを合わせるわけにもいかなかった。
俺‥‥‥何してるんだろう。
自分の行動に自分で首を傾げつつ、自分のことなど誰も待っていないとわかっている駅前に向かって、重たい足をそれでも進めていく。
不思議な街のモノクロームとスーツやコートの暗めの色は何故だか無闇に相性がよくて、歩いている自分がそのまま、誰かの風景写真の一部に溶け込んでしまいそうな錯覚を憶える。
彼が脳裏に思い描いた予定の通りになっていたなら、今頃ひとりでこんなところを歩いていたりはしない筈だった。そもそも予定の通りなら、遅くとも昨夜までには、北川は電話で今日の彼女の独り占めに成功している筈だった。だが実際は、受話器を握り締めたまま悶々としているだけの夜を何度も何度も繰り返し、結局、電話など一度もかけられないまま、今日という日はやって来てしまった。プレゼントにいくら使うかわからないからと、やたら多めに現金を突っ込んだ財布の重さも、今となっては虚しいだけだ。
パン屋もケーキ屋もコンビニも店先にはサンタクロースに扮した売り子を出している。ファーストフードのサンタクロースはフライドチキンのセット売りをしているらしい。まるで商店街のシンボルか何かのように例外なく玄関のガラスのドアに提げられた、鮮やかな緑色をした灰色のクリスマスリースが、人の出入りの度に揺れる。
引き出した金を全部使って自棄食いでもしてやろうか。
自虐的な思いつきが脳裏に浮かぶが、やっぱりそれも実行はされないまま、姦しく声を張り上げる軒先は視界に捉えた順番に背中の向こうへ遠ざかる。別にケーキもフライドチキンも、振り返って店に戻ろうと思うほど欲しいわけでもない。
不意に、擦れ違う誰かの肩が触れた。そちらに目をやると、申しわけなさそうに会釈する女の子は、それでもどこか嬉しそうだ。隣の男が何とも形容し難い複雑な顔で北川を一瞥したが、そちらはすぐに忘れてしまった。
もしかして、今、この世の中に、ひとりで街を歩いているような馬鹿は自分しかいないんじゃないのか、と思う。そんな筈はないと頭では考えても、実際にあたりを見回してみれば、そこにいる人のほとんどは、何かの売り込みか、幸せそうなカップルのどちらかだ。あながち嘘でもない、ような気がしてきてしまう。
本当に、自棄食いでもしてやろうか。
二度目の自暴自棄は、頭の中で否決されるまでに、さっきよりも少しだけ長い時間を必要とした。小さく頭を振って自暴自棄を追い出す。
冷たい空気と一緒に、賛美歌や、能天気なクリスマスソングが耳に届く。賛美歌の聞こえる方には教会があって、その扉の向こうでは、多分本当に誰かがそれを歌っているのだろう。なにしろ今日はクリスマスイブだ。クリスマスイブは確かキリストの誕生日だから‥‥‥あれ? 誕生日はクリスマスの日か? そうすると、誕生日の前の日がどうして嬉しいんだ?
とりとめもなく考えているうちに、賛美歌も北川の横を通り過ぎていく。流れる歌声はゆっくりと小さくなり、傘の上に積もる雪の微かな音が、再びそれに取って代わろうとする。
ふと立ち止まって、下から傘を透かして見ると、まだらに積もった雪はちょうど地球儀に描かれた地面のようだ。しばらくそれを見つめた後で、北川はおもむろに傘を畳む。ざーっと音をたてて積もっていた雪が散る。すぐに開いた傘の上には壊れたユーラシア大陸の残骸が僅かに残っていたが、それも閉じたり開いたりを何度か繰り返すうちにすべて落ちてしまった。
こんな風に。‥‥‥海しかなかった太古の時代に逆戻りした地球儀を眺めて、北川は唇を僅かに歪める。
こんな風に、今すぐ誰かが、この世界ごとクリスマスを終わらせてくれたらいいのに。
今度の自暴自棄は何やらスケールが大きい。それはもしかしたら、この世の誰かには実現できることなのかも知れなかったが、取り敢えず、片想いの相手に電話のひとつもかけられないでいる情けない男の手には余る、ということだけは間違いなくて。
そんなどうでもいいことに溜め息を吐きながら、北川は肩に落ちた雪を払う。
随分ゆっくり歩いてきたつもりだったが、それでも、そろそろ駅舎が見えてくる。別に着いたから何がどうだということはない。自分のことなど誰も待っていない、そんなことは北川自身が誰よりもよく知っている。
不慣れな革靴を時々雪に滑らせながら、誰も待っていないことを確認するだけの割には気合の入った格好と、気合の割にはまるで中身が伴っていない気分の重さを引き摺るように、少しずつ、だが確実に、北川はかつてないほど間抜けな瞬間と対面する場所に近づいていく。
天命は、人事を尽くしてから待つものだ。結局何もしなかったくせに、奇蹟など信じるべくもない。駅舎の外を回り込むようにもうひとつ角を曲がれば、自分のことなど誰も待っていない、ただのベンチが見えてくる。もう、こんな馬鹿げたことは終わりにしよう。自然と足が速くなる。ケーキのひとつも買って帰って、後は来年のことでも考えよう。さくさくと雪を踏みしめる音の間隔がどんどん短くなる。いつまでも煮えきらない自分をどうすればいいのか、そのことはこれから何とかしてみせるから、だから神様、神様!
せっかくクリスマスイブなんだから、一度くらい、ひとつくらい、俺にだって奇蹟を!
起こる方が馬鹿馬鹿しい奇蹟みたいなものに厚かましく縋りつこうとする自分と、そんな自分を苦々しく思う自分が頭の中で取っ組み合いを始めた頃、ようやく、視界の片隅に、駅前のベンチが‥‥‥モノクロームに慣れた目が痛くなるほど鮮やかな、そこに腰かけた女の子が首に挟んだ傘の赤い色が飛び込んできた。
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