「なーおーきっ」
にやにや笑いながら茉理が寄ってきた。
もうその顔を見ただけでロクなことを企んでいないのが丸わかりの、呆れるほどわざとらしい笑顔だった。
「ね、聞いたよ。最近何度も学校に忍び込んでるんでしょ? まだあるんだけど聞きたくない?」
「まだって何が」
想像はついていても、つい訊ねてしまう直樹に、
「決まってるでしょ。学園の恐い話」
ふふんと鼻を鳴らしてみせる。
「嫌がらせかよ」
心底嫌そうに直樹は溜め息を吐いた。
「それでね? 廊下のところの階段なんだけど‥‥‥ちょっと直樹、ちゃんと聞いてる?」
「聞こえない聞こえない聞こえない」
「むっかぁ‥‥‥こら直樹! ちゃんと聞きなさいってば! あたしも! 学園にっ! 連れてけーっ!」
耳を塞ぐ手を引き剥がし、その耳元で大声をあげる。
‥‥‥何が楽しくて深夜の学園などに潜り込みたがるのかは直樹にはさっぱりわからなかったが、ともかくも、陥落は時間の問題であった。
「ふーん、こんな夜中だと感じ違うんだねー」
「最近こんなことばっかりしてるような‥‥‥」
同日深夜。
例によって簡単に忍び込むことに成功して、茉理と直樹は今、校舎裏を壁沿いに歩いている。
「でも茉理、カフェテリアの仕事で遅くなったりするだろ? こんなに遅くはないにしても、暗くなって誰もいない学園なんて何度か見たことあったんじゃないのか?」
「そうだけど、そういう時はみんな一緒だもん。誰もいないのとは、やっぱり、ちょっと違うよ」
「そんなもんかな。それで、茉理のは何だって?」
「もう。それはさっき、来る前に説明しといたじゃない。真夜中になると」
直樹もだんだんわかってきたのか、それくらいのことを今更いちいち気に留めはしないが、
「廊下の階段から、こう、手がにゅーって伸びてきてね、真上を歩いてる人の足を捕まえるんだって」
「それなんだけどなー」
今度は話の中身の方に、今まで聞いてきたどの話よりも信憑性がなかった。
「本当にその手が足を捕むとしたら、怪我した奴が実在しないってのは無理があるだろ? 階段で足捕まれたら普通は転ぶだろうし、転んだらもう落ちるしかないぞ」
「う‥‥‥そこを突っ込まれると、確かに、ちょっとね」
茉理の苦笑い。
「ったく。付き合わされる方の身にもなってくれ」
まだぶつくさと何か言っている直樹に、
「直樹こそ、付き合わせる方の身にもなってよね」
聞こえないように言い捨てて、
「え、何だって? ‥‥‥こら茉理、待てったら」
呟いた言葉に自分で赤面しかけた茉理は、直樹を置いてさっさと歩を進めていく。
昇降口近くの暗がりの中、それでも僅かに明るい月明かりの差し込む窓際の壁に寄り掛かって、茉理はひとり、直樹を待つ。
‥‥‥遅い。
そんなに自分は足が速かっただろうか。
まさか直樹だけ先に帰ってしまったのだろうか。
嫌な想像がいろいろと脳裏を過ぎる。
何度目かの溜め息。
「ここにいたのか茉理。待たせたな」
ようやく直樹が姿を見せ‥‥‥
「遅ー‥‥‥いっ?」
茉理の声が裏返る。
「ここでスペシャルゲストが登場するワケだが」
「はぁぁ?」
何故か、直樹の横には、どこからか連れて来られたらしい結が立っていた。
「ちょっと、こら馬鹿直樹! 内緒で忍び込んでるのに先生連れてきてどうすんのよ! 説明しなさいよ説明!」
「まったくですよ。何がスペシャルゲストですか久住くん? 大体これでここで会うのは何度目だと」
「何言ってるんですか。結先生の疑いを晴らす為でしょ」
結にだけ、直樹は耳打ちする。
「疑い?」
「また手が出るそうですよ、結先生。今度は階段から」
「え‥‥‥」
それきり押し黙ってしまった結。
直樹を睨みつける茉理。
‥‥‥楽しい夜になりそうだ。
肩を竦めて、直樹は歩き始める。
「え‥‥‥ちょっと直樹、あれ‥‥‥」
「こ、これはっ」
「うわ。来た途端からコレか」
三人が階段に着く前に、事態の方が予め急変していた。リノリウムのタイルが貼られた階段から、上に向かってまっすぐに伸びているのは、誰がどう見ても、人の腕だ。
茉理はともかく、結も直樹も気づいていた。
見覚えのある白衣の袖口。
『あれだけ結に気をつけろって言っといて、私がこんなじゃカッコつかないってのに‥‥‥どこ行ったのよもう』
安物のラジオを遠くに置いたような不鮮明な声。
ついでに、腕の根本のあたりに転がった煎餅。
「これ、どう思います、結先生?」
言わずもがなのことを直樹は聞く。
「ああもう‥‥‥これでは弁解の余地もありません」
結は呆れたように頬を引き攣らせる。
「というワケで茉理、これが真相だ。全然恐くないだろ」
「こ、ここ、コレってドレよ」
かちかちと歯を鳴らしながら直樹を見上げる。
「なんだ。ちゃんと見てないのか? あの腕」
「だって、だって階段から! 階段から手が!」
「まだわからないのかよ」
直樹はつかつかと腕に歩み寄り、何かを探すように蠢く腕を軽く叩く。
『うわっ! 今何か触ったっ!』
「煎餅は持ってってあげますから、大人しくそこにいてくださいよ、恭子先生!」
腕のまわりの不自然な空洞に大声を投げ落として、直樹たちは時計塔へ向かう。
「まったく。わかってみたら時空転移装置の実験してるだけでしたーなんて、つまんないオチ」
例によって意味のよくわからない説明を散々聞かされ続けて毒気を抜かれた茉理は、帰途についてようやく、さっきまでの苛立ちを思い出したようだった。
「事実なんて、わかっちゃったらそんなもんだ」
こともなげに答える直樹を茉理はまた睨みつける。
「直樹は知ってたんでしょ? あの装置のせいだって」
「まあな」
「‥‥‥悔しい。悔しすぎる。あたしだけ踊らされてたなんて納得いかないっ! こうなったらもっとすごい噂にして、みんな夜中に学校に忍び込みたくなるようにしてやるんだからっ」
恨みがましく呟いた茉理のひとことで、真相は闇に葬り去られることになった。
「‥‥‥ま、それはそれでいいか」
「よくないわよ! せっかく」
迂闊に続けかけた言葉を無理に呑み込み、また茉理は、直樹を置いてさっさと歩を進めていく。
そんな茉理の背中を少し離れたところから眺めて、直樹はもう一度肩を竦めた。
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