「すみません、こんなに遅くまで」
「いや、いいんだけど。それより早く帰ろう」
「はい」
ちひろが頷いたのを見届けて、先導するように直樹は歩き始める。
忙しく屋上のプランタの手入れをしているうちに、気がついたら随分遅くなってしまっていた。生徒や教師はとっくに帰っているし、こんな時間では多分、正門ももう締め切られてしまっているだろう。どうやってこの学園から出るかも考えなければならない。
‥‥‥もっとも、本人としては不本意なことに、忍び込んだり抜け出したりは最近何度かやっていて、それなりにコツも掴めているのだが。
しんと静まりかえった薄暗い廊下を歩いている。
ちひろと直樹がそれぞれに手に持った、道具の入ったバケツがかちかちと音をたてている。
上履きを履いていると足音はあまり響かない。時々、きゅっと擦れる音がするくらいだ。
「何だか、幽霊とか、出てきそうな感じですね」
いつの間にか横に並んだちひろは、頻りに直樹に話し掛けようとる。すぐ隣にいて何か喋っていないと不安なのかも知れない。
「七不思議関係はもういいんだけどな。最近そんなのばっかりに付き合ってる気がするし」
不安な気持ちはわからなくもないが、恐いのに恐い話なんかしなくてもいいのに、と直樹は思う。
「え、そうなんですか? でも今、私たちがいるのは、二階の廊下ですよね?」
「‥‥‥まさか」
「はい。ここはそうだって友達から聞いたことがあります。あの、すみません、こんな遅くに自分が歩くことになるなんて思ってなくて、今まで忘れてたんですけど」
申し訳なさそうに、ちひろは小さく頭を下げた。
「いいよ。別にちひろちゃんのせいでそんな話になったわけでもないだろうし。ところでそれ、どんな話なの?」
「ええと、夜遅くに二階の廊下を歩いている時に」
またそれか。
途端に直樹がげんなりした顔をする。
「ごめんちょっと待った」
「はい?」
「前からずーっと思ってるんだけど、その手の目撃証言ってみんな夜中の学校なんだよな‥‥‥そいつら一体、そんな夜中に学校なんか来て何するつもりだったんだ?」
「え‥‥‥さあ‥‥‥」
それをちひろに訊ねても仕方がない。
案の定、そんな事情など知る筈もないちひろは、困ったように曖昧に笑うばかりだ。
「あ、ごめん」
そんなちひろを見ていると、何か酷く悪いことをしたような気がしてきてしまう。
「いいんだ。それで?」
「はい。ええと、二階の廊下を歩いていると、後ろから足音だけがついて来るんだそうです」
ひたひたと。
「足音?」
素足でリノリウムのタイルの上を歩くような。
「その足音はそのうち自分たちを追い越して、向こうの階段の角を曲がったところで消える、って言ってました」
上履きが鳴らす音とはどこか違っている音。
「それだけ?」
「はい。私が聞いたのはそれで全部でした。それより、久住先輩もそういう話は詳しいんですか?」
「外階段が夜中に一段増えたり元に戻ったりするって話と、昇降口の下駄箱から手が出てくるってのは見に来たことが‥‥‥待てよ?」
階段の時も下駄箱の時も主犯は結だったことを思い出し、立ち止まった直樹は考え込む。
「どうしました?」
立ち止まった直樹を追い越してしまったちひろが、やはりその場で立ち止まって、くるりと振り返る。
ちひろも直樹も、今は歩いていない。
今、ふたりの他に、この廊下には誰もいない。
では、今も聞こえている、この足音は、何だ?
「く、久住先輩‥‥‥あの‥‥‥足音が‥‥‥でも、後ろ、誰も」
少し遅れて、ちひろも気づいたらしい。
「落ち着いてちひろちゃん。ほら、足音は追い越して消えるだけだって言ってたろ? だったら大丈夫だ」
直樹がそう思うことに根拠などない。そもそも、ちひろが聞いてきた話自体、嘘か本当かわからないのだから。
それでも直樹が冷静でいられたのは、やはり場慣れしていたせいなのかも知れない。
さして大きくもない足音はひたひたと近づいてくる。
邪魔なバケツを床に置いて、自由になった両腕で、ちひろを護るように胸に抱いた。
「あ‥‥‥」
突然抱きしめられたことに驚いたちひろはバケツを床に落としてしまい、中の道具が跳ねてがちゃがちゃと派手な音をたてた。それでも足音は掻き消されることなく、確実に、ふたりに近寄ってきている。
しがみつくように身体を寄せるちひろを、抱きしめる腕の力を強くする。そのままふたりは息を潜めて、みっつめの足音が通り過ぎるのをじっと待った。
長い時間をかけてゆっくりと近づいてきた足音は、同じくらい長い時間をかけて直樹とちひろの立っている場所を通過し、本当ならもうとっくに直樹たちが通過していた筈の階段の踊り場のあたりまで遠ざかったところで、不意に聞こえなくなった。
薄暗い廊下に静寂が戻る。
「行ったみたいだな」
「はい‥‥‥あの、ですから、久住先輩」
「‥‥‥あ。ご、ごめんっ」
ちひろが言いたいであろうことを察して、直樹は慌てて腕を解く。
「でも、ありがとうございました。護ってくれて」
そう言ってちひろは、はにかむような笑顔を見せた。
さっき足音が消えた、踊り場のあたりに差し掛かる。後はその階段を下りて、下駄箱で靴を履き替えて、
「少しは肝が冷えましたか?」
「うわっ!」
角を曲がったところでいきなり声を掛けられ、直樹もちひろも飛び上がりそうになった。
「って、あれ? また久住くんですか?」
何故かそこに立っている結が意外そうに声をあげた。
「また、って‥‥‥何だ。また結先生の仕業ですか」
呆れたように直樹は溜め息を吐く。
「放課後から深夜にかけては、私たちの研究がもっとも捗る時間帯なんです。ですから、用のない生徒たちがなるべく学園に近寄らないように、こうして脅かしているのですが‥‥‥最近こんな風に会ってばかりいますね、久住くん。今度は何をしていたんですか?」
「あ、あの、久住先輩は、私と一緒に、屋上の花壇を」
ちひろから助け船が出される。
「そうですか。まあ、遊びに来たわけでもないようですし、もういいですから今日のところは早く寮の方に戻ってください‥‥‥あ、それと橘さん」
「はい。このことは、内緒にしておきます」
ものわかりのいいちひろのひとことで、真相は闇に葬り去られることになった。
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