『達哉、達哉?』
呼ぶ声と、控えめなノックの音、それから、ドアノブを捻る音が何度か。
『眠ってしまったのかしら‥‥‥』
残念そうな溜め息も、静かに離れていく足音も。
その部屋の中、死角に隠れるようにベッドの下に身を潜めたまま‥‥‥実は、達哉はそのすべてを聞いていた。
「行ったかな」
本当は隠れている意味もないのだが、それでも音をたてないように、そろそろとその場に身を起こす。
「行っただろうな」
ずっとそこにいたもうひとりの声が意地悪そうに呟く。
「なんてことをしてくれるんだフィアッカ」
「言いたい気持ちもわからないではないが、ひとつ屋根の下に暮らすサヤカやリースリットたちの安らかな眠りについても、ふたりが気に掛ける機会になれば、と思ってな。タツヤとフィーナ姫が思っている程には、この家の壁は厚くないのだと‥‥‥仲睦まじいのは結構なことだし、こういうことにもあまり口を挟みたくはない。だがそうはいっても、いずれは誰か言わねばならんだろうからな」
「う‥‥‥わかった。それは悪かったよ。だけどそれでコレか? なんでよりによってこんなやり方なんだ」
不貞腐れた声で達哉が呟く。
「お手軽で効果的。いや、我ながらよいアイデアであったと思うよ」
そんな達哉の傍らで、先程からずっと、フィアッカはくすくす笑っている。
「まだ姫も行ったばかりだろう。その姿でも逢瀬が叶うと思うなら、今からでもやってみてはどうだ? 夜這いでも何でも」
「その姿‥‥‥って言われてもな」
確かに、『その姿』という表現は、もしかしたら少し正確さを欠いているかも知れなかった。
階下。
「フィーナ、起きてる?」
今度は達哉が、フィーナの部屋のドアをこんこんと叩く。
『達哉? 起きていたの? それならさっき、部屋に入れてくれれば‥‥‥今開けるわ』
すぐに答える声が聞こえて、
「あ、ごめん。そのままで聞いて」
そのままドアに近寄ろうとしているらしいフィーナを、達哉は言葉で制した。
『え?』
「あのさ、ちょっと今、誰かに会えるような状態じゃないんだ。だから、せっかく来てくれたのに居留守使うような感じになっちゃったことだけ、謝っておこうと思って」
フィーナの顔から一気に血の気が引いた音を、達哉は聴いたような気がした。
『まさか、何かあったの? あ、でも声はしっかりしているし、階段を降りて来られるのだから、身体は大丈夫ね?』
「ん。そういう心配は全然要らないと思うんだ、多分。でも何ていうか、まあ、いろいろあって」
『お願いよ達哉、そうやって言葉を濁さないで‥‥‥さっきのことは別に怒ってなどいないわ。わざわざ謝りに来てくれる気持ちも嬉しいけれど、でもそんなことを聞かされたら、私だって心配しないではいられないの。だからこのドアを開けさせて。大丈夫なら、大丈夫だって信じさせて、達哉』
フィーナらしからぬ‥‥‥懇願する人のような弱々しい声が、達哉の良心を苛む。
その原因を作ったフィアッカよりも、たった今、こんなにもフィーナを不安にさせてしまっている自分が許せない。
目の前のドアを今すぐに開けて、フィーナを抱きしめたかった。
だが、それは。
『いい? 開けるわね、達哉?』
それは、何も言えないままでいる達哉への言葉か、それとも自分自身への言い訳なのか。
許しを請う人のように呟いてから、普段の何十倍もの時間をかけて、フィーナはドアを開いていく。
ドアノブに手を掛けたまま、固く閉ざした目蓋を恐る恐る上げたフィーナが、ようやく一杯まで開かれたドアの向こうに見たものは。
部屋からの明かりに四角く照らされた廊下‥‥‥だけ、であった。
「た、達哉っ? どこへ行ってしまったの?」
「いるよ。ここにいる」
四角い明かりの中から、達哉の声だけが確かに聴こえていた。
「え? どこに‥‥‥あ。まさか」
取り乱しかけたフィーナの動きがふと止まった。
すっと細められた目の奥、俄かに蘇った理性の輝きが、この世で最も美しい深緑の瞳を彩っていく。
「リースの仕業ね?」
「フィアッカだったけど、まあ、同じことかな」
「そう‥‥‥つまり」
朝霧家一同が夕食を済ませ、それぞれが居間から自室に戻ってから、フィーナが達哉の部屋を訪れるまでの間に。
「あのロストテクノロジーで、達哉の姿が消されてしまった、ということね?」
「多分そうだと思う。俺には正直、何されたのかよくわかってないんだけど」
「よかった。もっと酷い、何か取り返しのつかないことになっていたら、私、どうしたらいいか」
言いながら、フィーナは達哉の手をとる。
「って、俺が見えるのか?」
フィーナにだけは達哉の姿が普通に見えているかのような、ごく自然な動作だった。
「見えません。でも間違えないわ」
達哉の胸板に触れた指が、首を伝い、唇に辿り着いた。
「だって、わかるもの。これは達哉だもの。こんなに温かいんだもの。私が間違える筈がないじゃない」
その指先を追うように、この世で最も美しい深緑の瞳が、瞳に映らない達哉の顔を見上げた。
それは、今にも泣き出しそうな顔のように、達哉の瞳には映った。
「ごめん、フィーナ」
「どうして達哉が謝るの? 達哉は何も悪くないのに」
「それがそうでもないらしいんだ」
かいつまんで、フィアッカに告げられたことをフィーナに話す。
途端。
菜月もかくや、の勢いで真っ赤になったフィーナが、今度はその場に俯いてしまった。
「‥‥‥ええ。確かに、少し配慮が足りなかったと思います。その点は反省しなければならないわ。でもやっぱり、それは達哉ひとりだけのせいにできることではないと思うの。私のせいでもある筈だもの」
少し間を置いてから、再びフィーナが口を開いた。
「それはまあ、そうなんだけどさ」
透明な腕がフィーナを抱きしめる。
見えないだけで確かにそこにいる、達哉の身体に頬を寄せる。
「だけど、こんなことでフィーナを心配させたくなかった。泣かせたりするつもりじゃなかったんだ。だから」
「あら。それなら達哉は、どうして今降りてきたのかしら? 話の通りなら、明日の朝にはきっと、フィアッカは達哉を元に戻してくれるわ。私に心配させないだけなら、それから来てもよかった筈でしょう?」
「それは」
何か言いかけた達哉の唇を、強引に、自分の唇で塞いで。
「まさか達哉、透明人間になってしまったのをいいことに」
まだ目尻に涙を溜めたまま、悪戯っぽく笑ってみせて。
「何も知らない私に、何か酷いことをするつもりだったんじゃないでしょうね?」
「え? いや、酷いってどんな」
「どうやら、じっくりと時間をかけて尋問しなければならないようね。さあ達哉、取調室にいらっしゃい」
それからフィーナは、姿の見えない達哉と手を繋いで、自分の部屋へと戻っていった。
同じ頃。
「戻ってこないということは」
効果なし、か。
‥‥‥達哉の部屋にひとり取り残された幼い身体を、大きなベッドに横たえて。
「ま、月の姫が幸福なのは、基本的にはよいことだからな」
こちらも何やら言い訳めいた言葉を口にして。
微かな温もりにしがみつくように達哉の枕を抱きしめながら、フィアッカもまた、眠りの淵に沈んでいく。
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