ごすっ。
 鈍い音がする。拳にうっすらと血が滲んだ。
 ごすっ。ごすっ。ごすっ。‥‥‥誰も知らない夜の底に、鈍い音は際限なく響き続けた。








誰か口ずさんでるリフレインに蘇らす思い出の影でハミダシモノは待ってるんだずっと
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episode.01:「otherwise」






「おはよ。あれ、お兄ちゃんは?」
「朝練だって言って先に行ったわよ」
「そっか‥‥‥聞きたいことがあったのにな」
「あの正樹が朝練だもんねえ。なんかイメージ合わないわよね」
「お母さんそれちょっと酷い」
「はいはい。わかったから乃絵美は朝御飯食べてから行きなさいね」
「むー」
 少しむくれた顔の乃絵美が食卓につく。
 早朝、伊藤家。
 取り敢えずその日、伊藤家にはごく平穏な朝がごく普通に訪れていた。





 同時刻、十徳神社の石段。
「どしたの正樹? 最近ヤケに気合い入ってるわね‥‥‥はい、お茶」
「サンキュ」
 麦茶のカップを受け取った正樹の右手には、何故か包帯が巻かれている。‥‥‥方法も何もない、それはただ単に「巻きました」というだけのぞんざいな巻き方だった。
「正樹、その手どうしたの?」
「‥‥‥いや、何でもない」
「ねえ、それ本当に何でもないの? 何か巻き方も変だし。巻き直してあげよっか?」
「いいって言ってるだろ‥‥‥お茶ありがと。じゃ俺は学校行くよ」
「あん、待ってよ!」
 妙に無愛想な正樹はとっとと石段を駆け降りてしまう。菜織は慌てて後を追‥‥‥おうとして、カップをふたつ手に持っていることに気づいた。さすがにこれを持ったまま学校へは行けない。
「んもうっ‥‥‥正樹の馬鹿! べーだっ」
 眼下。みるみる小さくなる正樹の背中に舌を出して、菜織は石段を駆け上がった。





 あの包帯、ひょっとしたら乃絵美は何も知らないんじゃないかしら?
 授業中、教室。‥‥‥授業に集中できない菜織は、正樹のすぐ側の席で正樹の右手ばかり見ている。普段なら先生が黒板に書いてあることですらまともにノートに書いたりしない正樹の右手が、珍しく、一心不乱にノートに何かを書き続けている。しかしさっきから先生は黒板に何も書いていない。
 乃絵美が巻いたら絶対もっときれいにできてると思うのよね‥‥‥正樹が包帯巻くほど怪我してるの知ってて何もしないでいられる乃絵美じゃないし‥‥‥あれきっと、左手だけで自分で巻いたんじゃないのかな‥‥‥な〜んか妙なコトしてなきゃいいけど‥‥‥
「はい伊藤くん、次訳してくれる?」
 指された正樹は無愛想に立ち上がり、それなりにまともな訳文を披露してすぐに腰を下ろす。
 そのわずかな隙に正樹のノートを盗み見て‥‥‥菜織は、絶句した。


 ページが真っ黒になってしまうほどの。
 夥しい数の、乱雑に書き殴られた「真奈美ちゃん」という言葉が、そこにあった。


「ん、よくできました。んじゃその次を氷川さん‥‥‥氷川さん?」
 その真っ黒なページに向かって、正樹の右手がまた動き始める。きちんと留められていない包帯の端がゆらゆらと揺れる、その光景が、何も見ていない菜織の瞳に、ただ、映っていた。
「氷川さ〜ん? お留守かしら?」
 呆然としている菜織の背中を誰かが指でつついていた。
 我に返った菜織の目前で、先生はちょっと小首を傾げながら、にこやかにこう言った。
「氷川さん‥‥‥そんなに宿題多いのがお好き?」


 菜織の悲痛な叫び声が廊下にこだました。





 放課後、グラウンド。
 誰にも聞き取れないような小さな声で何かをぶつぶつと呟きながら、正樹はただ‥‥‥誰に話しかけられても何の答えを返すこともなく、ただただ、走っている。さすがに気味が悪いのか、陸上部の面々は正樹の存在を取り敢えず無視することにしたらしい。
 右手に巻かれた雑な包帯には薄く血が滲みだしていた。


 真奈美ちゃん真奈美ちゃん真奈美ちゃん真奈美ちゃん真奈美ちゃん真奈美ちゃん‥‥‥
 果てなく繰り返される言葉の裏でにやにやと笑っているその影は、今は正樹にしか見えていない。





「菜織ー、お客さんよー」
「ああもう‥‥‥今忙しいから適当に上がってもらってっ」
 夕刻、菜織の部屋。姉の呼ぶ声に即座にそう答えて、菜織は宿題に意識を戻す。
 余計なこと気にかけたおかげで、要らないお土産いっぱいもらっちゃったじゃない。本当にもう‥‥‥正樹の馬鹿ぁっ。
 怨念でも篭っているのか、教科書の文章をノートに書き写す筆圧はいつもに増して強い。
 お客さんって誰かしら。どうせ正樹よね。正樹だったら手伝わせてやる。決めた。
 勝手に決めつけたところへ、
「あの‥‥‥ごめんなさい、そんなに忙しいって知らなかったから‥‥‥」
 聞こえた声は、完璧にアテが外れたことを菜織に教えていた。思わずがっくり肩を落とす。
「え‥‥‥その‥‥‥えっと‥‥‥」
「ああ、ごめんごめん。いや別に乃絵美が悪いんじゃないのよ。ただちょっと事情があって、正樹が来たんだと思い込んじゃったもんだから‥‥‥だって見てよこの宿題の山! みぃんなあいつが悪いんだからっ」
 申しわけなさそうにちょこんと座った乃絵美の前に、菜織は宿題セットをどさっと投げ出した。
「これ全部明日まで。信じらんない」
「‥‥‥ごめんなさい‥‥‥お兄ちゃんが‥‥‥」
「乃絵美が謝ることないわよ。それにしてもあの馬鹿‥‥‥ってそういえば乃絵美、最近あいつ家にいるとどう? 普段通りにしてる?」
 乃絵美の顔が一段と曇る。
「あのね、あの‥‥‥菜織ちゃんに、相談したいことが、ふたつあるの」
「ふたつ?」
「ん‥‥‥」
「それは、あいつじゃなくて、私がいいことなのね?」
「半分‥‥‥お兄ちゃんのことだから」
 乃絵美はとても言いづらそうにしている。
「そっか、わかった。取り敢えず麦茶持ってくるからちょっと待っててね」


「最近、お兄ちゃん、何だか恐いの‥‥‥部屋にいるとね、なんか壁殴ってるような音とか、何かぶつぶつ喋ってるような声とか、夜中にそういうのが時々聞こえることがあって。それでこの間、私もどうしても寝つけなくて、夜中にこっそり、お兄ちゃんの部屋を覗いてみたの」
 話しながら、乃絵美は俯いている。
「お兄ちゃん何かと喋ってた‥‥‥背中のところに何か、白いような黒いような、何かそういうのがいて、それが一生懸命、お兄ちゃんに‥‥‥『お前は遅い、どうせ次に何かあっても肝心な時には間に合わない、お前は所詮ただの屑だ』って‥‥‥そんなことばっかり、ずっと言い続けるの‥‥‥そんなことないって、絶対そんなことないって言いたかったけど‥‥‥お兄ちゃんには内緒で部屋覗いてたから、私、言えなかった‥‥‥」
 背中のところに何か、白いような黒いような、何かそういうの。それじゃ。
「ちょっと待って乃絵美。見えるのはわかったけど、それがどうして乃絵美に聞こえるの?」
「わかっちゃうんだ。前から幽霊とかそういうのよく見るし、喋ってることも聞こえてるし。本当はお兄ちゃんにも聞いて欲しかったけど‥‥‥お兄ちゃん、あんなだし‥‥‥なんか、黙ってるのに堪えられなくなって‥‥‥だから菜織ちゃんに‥‥‥ごめんなさい‥‥‥」
 それじゃ、まるで。
「ねえ乃絵美。あいつ今、右手に包帯巻いてるじゃない? あれ、何で?」
「包帯? 右手に? 知らないよ‥‥‥ねえ、それって、お兄ちゃん怪我してるってこと?」
「じゃあやっぱり、あの包帯のことは乃絵美も知らなかったのね?」
「包帯なんて‥‥‥それじゃあの音は」
「ホントに壁でも殴ってるんでしょ‥‥‥そう、そういうことだったの‥‥‥」
 これでわかった。
 包帯を巻いてるのは正樹自身の考えだろう‥‥‥そりゃ壁殴ったのも「真奈美ちゃん」なんてノートに書きまくったのも正樹ではあるんだろうけど。
 それを正樹にやらせた奴がいる。正樹の、すぐそばに。





「それでいきなり、落とし方を聞きに来た、と」
 隣室。ひとつ唸って、菜織の姉は腕を組んだ。
「でき‥‥‥ない、かな?」
 菜織の声は何かを期待していた。
「まず、菜織ひとりの手には余るでしょうね、それは」
 穏やかに、しかしきっぱりと、姉は言い切った。それは多分菜織が予想した通りの、そして菜織がもっとも聞きたくなかった類の、そういう答えだったのだろう。それくらいのことは姉にもわかっていた。唇を噛み、悔しそうに俯いたその姿から‥‥‥ふと、姉は乃絵美に視線を移す。
「ところで、乃絵美ちゃん」
「はい‥‥‥」
「方法はあるのよ。その方法は多分乃絵美ちゃんじゃないとダメだから、乃絵美ちゃんが嫌だったらそれでおしまい。でね、今からはっきり言っておくけど、それをやったら多分乃絵美ちゃんは菜織よりも恐い目に遭うと思うし、もしかしたらそうやって散々恐い目に遭わせた挙げ句、菜織の力じゃ両方とも救えないかも知れない」
「ちょっと姉ちゃん! 救えないって‥‥‥救えないってどういう」
「やらないんであれば」
 姉は敢えて、菜織の問いには答えない。
「‥‥‥まあ順当なところでは、私の父が出向いて行って、それを祓うことになるでしょう。でも、そういう風に表に見え始めているようなのだと、いつ暴れ出すかわからないからきっと効率を最優先する。結果、祓ったことによって正樹くんがいなくなってしまうような手段でも、場合によっては、父は使うでしょう」
 正樹くんがいなくなってしまう。その言葉に、乃絵美ははっと顔を上げる。
「祓うことじゃなくて正樹くんを救うことが目的なら、父とは別の方法を採らなきゃいけないでしょう。正樹くん次第、という面もあるから必ず成功するとは限らないし、失敗したら正樹くんと一緒に乃絵美ちゃんも菜織もいなくなった挙げ句、結局父がそれを祓うようなことが起こるかも知れない。乃絵美ちゃんが手伝ってくれたとして、それでも多分、あなたたちの勝率は甘く見積もって5割」
 でも私‥‥‥言いかけた乃絵美を制して、姉は言葉を続ける。
「乃絵美ちゃんはやるって言うでしょうね。菜織もきっとやるって言うでしょう。わかっているから止めないけど、ひとつだけ憶えておいて欲しいの。これは決して子供の遊びじゃないし、あなたたちは自分で思っているほど大人じゃない。まだ、生命に責任が取れる大人じゃないのよ‥‥‥だから」


 失敗は、誰が赦そうと私が赦しません。何が起ころうとも必ず、すべてに勝って帰ってきなさい。
 菜織の姉はそう言って、ふたりを奥へ導いた。





 ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。ごすっ。
 真夜中、正樹の部屋。
 覗き込んだ部屋の中は深い闇に沈んでいる。こんな音でもなければ、正樹は眠っていると誰もが思うだろう。
「お兄ちゃん‥‥‥」
 正樹は振り向きもしない。扉を開けた乃絵美に気づいていないのかも知れなかった。
「やめてよお兄ちゃん!」
 振り上げられた右腕を掴む。‥‥‥掴んだ、と思った手が乃絵美の手をすり抜け、壁に打ちつけられた。乃絵美の手に濡れたような感触が残る。きっとそれは、
「やめて! やめてったら!」
 背中にしがみついた。壁から引き離そうとするが、乃絵美の力では正樹には敵わない。
 乃絵美を振り飛ばした正樹がようやく乃絵美の方を向く。
 壁まで振り飛ばされた乃絵美は、すぐそばにあった照明のスイッチを入れた。
 右手の包帯はとっくに解け、正樹の足元に落ちていた。血塗れの右手が痛々しい。正樹が背にした壁も血で濡れている。その瞳には‥‥‥悔恨、もしくは、狂気。


「祟り神は魂を喰って身体を手に入れる。でも、生きている魂をそのまま喰うことは、彼らにとってはとても苦しいこと‥‥‥だからまず、祟り神は魂を殺す」


「どうして‥‥‥ねえ! 聞こえてるんでしょ、お兄ちゃんに取り憑いてる人っ!」
『‥‥‥どんな理由ならいいのだ?』
 それは正樹の声だった。
 だが、喋っているのが正樹でないことは乃絵美にはわかっていた。
『こいつはな、後悔している。真奈美とかいう女に追いつけなかったのが悔しくて悔しくて仕方ないらしい。ふふふ、いつまでも阿呆のようにそればかり考えている‥‥‥こういう阿呆は軽くけしかければ簡単に儂の手に落ちる。そしてまた、儂は依り代を手に入れる』
「お兄ちゃんは渡さない。あなたが誰かは知らないけど、あなたなんかにお兄ちゃんは渡さない」
『渡さない‥‥‥ならばどうする?』
「あなたを、お兄ちゃんから追い出す。‥‥‥お兄ちゃん! 答えてお兄ちゃん! 今からその人をお兄ちゃんから追い出してあげる!」
 構えたのは破魔矢らしきもの。しかし弓はない。
「だからもう、あんまり悲しまないで‥‥‥真奈美ちゃんだって、きっとお兄ちゃんに会いたいって思ってる! だからお兄ちゃんも、絶対会えるってもう1回信じて! 私じゃ‥‥‥なくてもいいから!」
 頬にこぼれた滴が、正樹には見えただろうか。


「ステップ1。まず、自分は正しいと信じなさい。絶対に、最後まで、信じ通しなさい」


「私じゃなくていいから、真奈美ちゃんを信じて! 菜織ちゃんを信じてよ! 真奈美ちゃんのこと追いかけてたお兄ちゃんはそんな弱い人じゃないって、お兄ちゃんはそんなに簡単に負けたりしないって、何も言わないけど菜織ちゃんだってきっと信じてる! だからっ!」
『はーっはっはっはっ! 面白いことを言う小娘だな。うぬのような無力な小娘に一体何ができる? できることなど何もなかろうが!』
「いろいろできるわよ?」
 いつの間にか。
 そこに‥‥‥正樹のすぐ真後ろに、菜織がいた。


「正樹くんの名前は、正樹くんの魂が憶えている。殺された魂は誰何に応えない」


 正樹が向き直るよりも、菜織の動きの方が速かった。後ろから襟首を掴む。
「答えなさい。あんたは、誰?」
 問う声ひとつに、
『なにを今更‥‥‥』
『いと‥‥‥ま‥‥‥さき‥‥‥』
 応える、ふたつの言葉。
「菜織ちゃん! お兄ちゃんが!」
「わかってる‥‥‥勝つわよ乃絵美! 十徳流巨扇術皆伝、氷川菜織参るっ!」


「ステップ2。正樹くんから祟り神を叩き出す。これは菜織の得意技」


 菜織が振り上げた手にあったものは、何故か、誰がどう見ても、紙垂のついたハリセンだった。それが正樹の後頭部を直撃する。叩き飛ばされた正樹の輪郭が奇妙にぼやける。菜織や姉が祟り神と呼んでいたそれと、正樹の体が‥‥‥目に見えて、ずれた。


「ステップ3。祟り神を何かに縫い止めて正樹くんから引き離す。乃絵美ちゃんはここが正念場」


 壁際まで張り飛ばされた正樹の頭上、ほんの数センチ上に、乃絵美が破魔矢を突き立てた。
『ぐああああああああああああああっ!』
 非力な乃絵美が振るった木の矢が、見事に壁に突き刺さる。
「菜織ちゃん!」
「わかった!」
 破魔矢に貫かれた祟り神を壁に残したまま、菜織は正樹を反対側の壁まで引きずっていく。
 と。
『おんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおん』
 凄まじい勢いで祟り神が暴れ、勢いに負けた矢が壁から外れて落ちた。途端、猛然と正樹に向かって飛びかかる祟り神‥‥‥その正面に、
「渡さないんだからっ!」
 恐怖に竦みそうになる自分を必死で奮い立たせ、破魔矢を構えた乃絵美が割り込んだ。
 床に向かって矢を振り下ろす。
『ぐおおおお‥‥‥一度ならず二度までもおおおおおお‥‥‥』
 その矢に突き通された祟り神の動きが止まる。しかし、再び床に縫い止めるには至らない。必死で上に逃れようとする祟り神を、今度は菜織がハリセンで叩き落とした。
 今度こそ、乃絵美の矢が床を捉える。


「ステップ4。落とした祟り神をこの世から祓う」


「この子にはね、あんたみたいなのが逆立ちしたって敵わない力があるのよ。無力な小娘ナメんじゃないわ‥‥‥掛けまくもかしこき熊野夫須美大神。此方なる穢れし御霊、今しこの世を去らしめんとす。乞い願わくはこれを嘉みし給いて、溝穢に向かわせ給えと畏み畏みて白す」


 どこから取り出したのか、菜織が大麻を振るう。
 一振りごとに祟り神の姿は霞み、三振りで完全に消えてしまった。


「消えちゃったね‥‥‥」
「ふう‥‥‥これでおしまい。意外と楽勝だったかな?」
 正樹に歩み寄る。何も知らないかのように、正樹はくーくーと寝息を立てている。
 ふたりはその場にへたり込んだ。
「取り憑かれてる間ってすごい勢いで消耗してるから‥‥‥落とすとね、落ちた時のショックで気が遠くなったりして、大体そのまま寝ちゃうんだって。とにかく、正樹に取り憑いてた変なのはこれで落とせたと思うから‥‥‥目を覚ましたら普通の正樹よ。多分」
 正樹の顔に、菜織が血塗れの手を伸ばす。
「こんの馬鹿正樹ぃ‥‥‥あんたなんか、あんたなんか‥‥‥」
「な、菜織ちゃん‥‥‥?」
 菜織は正樹の頬をぐにぐにと抓りながら、
「ふざけんじゃないわよ‥‥‥あんたひとりがそんなんなるまで自分を追いつめたからって、そんなんで一体誰がしあわせになれるってのよ‥‥‥あんたはね、あんたは‥‥‥真奈美に追いつくまで、普通に、マジで走ってりゃいいのよ‥‥‥誰にも内緒で妙な後悔なんてつまんないコトしてんじゃないわよ‥‥‥ワケわかんない心配させんじゃないわよ‥‥‥本当にもう‥‥‥馬鹿ぁ‥‥‥」
 もしかしたら、泣いていた、のかも知れなかった。
 乃絵美は菜織に何も言わないことにした。‥‥‥乃絵美が何も言わなかったから、菜織はその後もいろいろと呟きながら正樹の頬を抓り続けた。





 陽光は容赦なく、惨劇の爪痕を曝け出す。
 ‥‥‥翌朝、正樹の部屋。床の上で血塗れのまま3人寄り添うように眠っていたところを正樹の両親に発見されてしまった菜織と乃絵美は、どう贔屓目に見ても説得力があるとは思えない言い訳で取り敢えずその場を誤魔化しながら、必死で壁や床の血痕を落とし、慌ててシャワーを浴び、右手を壊してしまった正樹を病院に放り込み、ばたばたと学校に滑り込んだ頃には1限が終わろうとしていた。


 2限の教師は菜織を見るなりこう言った。
「で、宿題はちゃんとやってきたわよね? 氷川さん♪」
 ‥‥‥その、悲痛すぎる菜織の叫び声は、校舎内のどこにいても確認できたという。



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