確かに貸した  


  

「だーかーらー、ここから漫画を持っていくやつはお前しかいないだろう」
「でーもー、ワタシは持っていってないんだから、アンタがどっかにやっちゃったに決まってるじゃない」
 ぎゃーぎゃーわーわーと叫喚荒れ狂う正樹の部屋に来ているのはもちろん菜織だ。彼女がまとっているのは普通の家の部屋ならありえないが、この部屋ならありというメイド服、正確にはメイド服タイプの制服。
 団体客が入ったロムレットの助っ人バイトを終え、そのままの格好でやってきて、おしゃべりと本棚あさり。服装はさておき、二人によくある風景。しばらくはいつもの二人だったものの、菜織が借りようと思っていた本がなくなっていることに端を発して今では「貸した」「借りてない」の応酬が激しく繰り返されている。
「絶対にお前に貸した。確かに貸した。ちゃんと覚えてるんだよ。正にその服を着たお前が、あの本を借りてくねって言って持っていった姿を」
「この姿って、いったいいつよ。バイトなんて久しぶりだし、そもそもバイトが終わって来るときは着替えてくるほうが多いじゃない」
「そんな理屈で逃げる気か、こら」
「こら、って何よー。むかつくわねぇ」
「それは、こっちの、セリフだ」
「むー」
「むむー」
 互いに言うだけ言って、戦いの場が目と目を結ぶ空間へ移る。ばちばちと火花が出そうな視線の絡みあい。とそこに、トントンというノックの音が鳴った。しかし先に動いたほうが負けとでも言わんばかりに二人は無言のまま対峙を続ける。ノックがもう一度鳴ってから、今度はドアを通じて外から声が流れこんできた。
「あ、あの、お兄ちゃん、菜織ちゃん、えーと……」
「ちょっと待て」
 妹の声に動いたのは正樹だった。視線で菜織を牽制しつつ、ドアの前へまわる。かちゃっとノブを回して開くと、こわごわと乃絵美が、やっぱりロムレットの制服姿で滑りこんできた。
「ふ、二人の声、外まで聞こえてきたから、その……」
「ああ、わりぃ。とにかくこいつが強情でな」
「何言ってんのよ。強情なのはアンタでしょうが!」
「何ぃ、乃絵美を前にしてもまだ白を切るつもりか、おのれは」
 またもや言いあいに戻ろうとする二人を止めたのは、勢いこんだ乃絵美の声。
「あ、あの、二人とも、こ、これっ」
 睨みあう正樹と菜織の間に小さな身体を割りこませると、さっと一冊の本を差し出した。
「あれ?」「あ、これ……」
「そうなの。これ、私がお兄ちゃんからこの間借りて、ずっとその……ごめんなさい」
 割りこんだ勢いはどこへやら。声は消えそうで、本を持ち支える手も震えている。
 そんな乃絵美の手から本を受け取って、正樹は本と妹の姿を何度も見比べる。
「……ええと、ひょっとして、俺の記憶にある姿って、実は菜織の格好をした乃絵美だったってことか?」
「ワタシの格好ってアンタは……往生際が悪いわね。要は乃絵美とワタシを間違えてたってことじゃない」
 口から広がる息が見えそうなほど大袈裟に、菜織はため息をついた。
 大きく吐いてから、今度は吸うと、強気な目で一方的に正樹を貫く。
「さて正樹。何かワタシに言うことは」
「……スマン」
「ふむ、ちゃんと謝ったのは偉いわね。さて、どう落とし前をつけてもらおうかしら」
「おい、謝ったのにそれかよ」
「あらあ? さっきまでワタシに大声出させたのは誰かしら? 誰かが間違えなければワタシがこんなに疲れることなかったんだけどなあ」
「ぐっ」
 自分に非があることは否定できない。菜織の言うことはもっともで、正樹は乃絵美を前にして身動きままならない。口すらまわらない。
 菜織の目と兄の表情を前にして、乃絵美の瞳がきょろきょろと動く。乃絵美の震えが、わたわたという動きに変わった。
「ご、ごめんなさい、お兄ちゃん」
「いや、乃絵美が謝ることは全くない」
「そう。これに関しては、乃絵美がどうフォローしても正樹に言いわけは立たないわ」
 残念だけどという表情を乃絵美に向けてから、正樹には呆れた表情を浴びせる。
「てか、どうして乃絵美とワタシを間違えるのかしらね。アンタって制服しか見てないんじゃないの?」
「ぐぐぐぅ……」
 ぐうの音だけは出すものの、そこまでだ。しばらく正樹は晒しものになる。
 だがそれも菜織が表情を緩めるまで。笑い声こそ出さないものの唇の端を緩めて、明るい声を正樹にぶつける。
「さあて、じゃあこれをワタシが借りちゃおうっと。いいわよね、正樹?」
「好きにしろ」
「ふふふ」
 まだ正樹の口元は苦いが、二人の間の空気はいつも通りに戻りつつある。ほっとした乃絵美の表情も緩み、自然に口が動いた。
「あ、ねえ、お兄ちゃん。いいかな?」
「なんだ?」
「この人の描いた前のシリーズって、持ってるんだよね」
「あ、ああ……おおっ、やっぱり乃絵美もハマったな」
 ぱっと満面の笑顔になり、正樹は乃絵美の頭をぽんぽんと叩く。くすぐったそうにしながら乃絵美は兄の笑顔にさらに大きな笑顔を返す。
「はまったっていうか、うん、面白いから、あるのならそれも読みたいなって」
「よしよし、乃絵美にはそっちを貸してやる。ちょっと待ってろ。ええと、確か、ここに……あれ、あれれ」
 今日の騒動のきっかけ。そのときは菜織が見つけられなかった。今は正樹が探せずに空気が少し重くなる。
 重くなった空気がそよっと揺れた。動きを追うようにふっと首を動かす正樹と乃絵美。
 揺らしたのは菜織だった。向けられる伊藤兄妹の視線に目をそらしつつ、
「……あは、あはは、正樹。ごめん、それワタシが借りてる」
 ぽつり呟いた。
 言葉の意味を数秒間考えてから、正樹はじろっという目になって、低く重い声を放った。
「落とし前は別につけてやるから、さっさと返せ。乃絵美が待ってる」
「え、別に私は急がないから――」
「ううん、いいの乃絵美。わたしも、うちの兄弟みんなも読み終わっているから」
「だったらさっさと返せよー」
 これまでの疲れが一気にぶり返した正樹は、その叫びを最後にベッドにがくっと腰を落とした。優位が吹き飛んだ菜織は、極り悪そうに「着替えてくるから」と部屋を去ってしまう。
 バタンというドアの音に、はあと息をつく正樹。そんな兄の姿に、自分も去っていいものか乃絵美は制服姿のまましばらく考えこむことになった。


[確かに貸した title:やまぐう / cast:やまぐう / author:やまぐう]

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