そのすぐ後に、ひとつだけ、妙姉ぇが嘘をついていたことがわかった。
それからのことが、僕にも妙姉ぇにも初めての「すっごいこと」で‥‥‥だから本当は、その前にはまだ、僕は妙姉ぇに「すっごいこと」なんて何もしてなかった、ということが。
「妙姉ぇの嘘つき」
「怒んないでよー」
「嘘つき」
じゃれついてくる妙姉ぇの手をわざと冷たく払って、僕は妙姉ぇに背中を向ける。
「しーくんってばー」
「だって、あんな苦しがられたら、何だか僕が悪いことしてるみたいだったのに」
それでも構わず妙姉ぇが抱きついてくるから、引っ掻かれてひりひりする背中に、やわらかいものがくっつく。
「そんなこと言われたって、女の子はそうなんだもん」
「だからっ」
衣擦れの音がする度に、ほんの少しだけ、空気に血の匂いが混じる。
忘れられる筈がない。妙姉ぇがあんな苦しがるようなことを‥‥‥知らないうちに僕が妙姉ぇにしてた、だなんて。
「本当にやっちゃってたら、多分僕、もっと許せなかった。だって、気がつかなくて寝てただけの僕が、妙姉ぇが痛いとか苦しいとか、そんなの気にしてるわけないよ。妙姉ぇがぎゅってしてって僕に言ったって、そんなのきっとわかんないんだよ」
「しー、くん?」
ひくっと、妙姉ぇの肩が震えるのがわかった。
「知らないうちに僕がそんなことして、妙姉ぇが泣いてる時に何もしてあげられなくて、それで、それで結婚なんて、そんなの僕」
「しーくんっ」
僕の背中を這い上がった妙姉ぇが僕を乗り越えて前に出る。
腰の上に斜めにのしかかった身体が、僕が寝返りを打つのを‥‥‥妙姉ぇから目を背けるのを許してくれない。
真っ暗い部屋の中でも僕の唇をちゃんと探し当てた妙姉ぇの両手が、そっと僕のほっぺたに触れた。
逃げ場をなくした僕に、妙姉ぇの吐息の音が近づいてくるのがわかった。
そして。
目を閉じるのも忘れるくらい。
ずっと、長い、キス。
「しーくん、あたし」
ちょっとしゅんとした感じの妙姉ぇの声が。
「‥‥‥あたし、喜んでもいいよね?」
しゅんとした感じのまま、いきなり、なんか声とは違う感じのことを呟く。
「へ? 何が?」
「あたしにだけはね、痛いことしても苦しいことしても、もっとめちゃくちゃなことしても、しーくんはいいんだよ。だから、しーくんがわかんないうちにあたしがそんなことされちゃったって、しーくんだったらあたしは平気って思ってたけど、でもそれじゃ、あたししか平気じゃないのかも、って今わかった」
ごろん。僕を乗り越えた妙姉ぇが、とうとう全部、僕の前に転がり降りた。
「そんなの平気じゃないってしーくんが思ってくれるから‥‥‥そういうの、あたしが苦しがってるのもちゃんと見てて、それでちゃんとあたしの心配もしたいって、しーくんも思ってくれてるってわかるから」
そこで一旦言葉を切る。すーっと静かに、深呼吸の音。
「最初に、ごめんなさい。そんな変な嘘ついてしーくんを騙すようなことはもうしません。あと、しーくんに他の彼女ができる前に、きせーじじつとかとにかく作っちゃえ、とかいろいろ企んで焦ってたのも本当はちょっと本当だけど、そういうのも全部やめます。だからさっきのこと、怒らないでください。ごめんなさい」
あの妙姉ぇが、何だか、いつになくしおらしいことを話している気がする。
「妙姉ぇ‥‥‥あの」
「それからね。あたし、嬉しかった。しーくん、ちゃんとあたしのこと想ってくれてたんだね。いい加減にしちゃわなくてよかった。簡単にきせーじじつとかになっちゃわなくてよかった。こんなにしーくんの背中引っ掻いて大騒ぎして、あたし、しーくんよりお姉さんのくせにすっごい格好悪い、ってあの時思ってたけど、でもきっと、格好悪くなきゃだめなこともあるんだね」
妙姉ぇは腕を回して、僕の背中をそーっとさすった。
「うわ。これ、触っただけで、引っ掻かれたってわかっちゃうよ」
途端に、妙姉ぇがちょっと驚いたような声をあげた。
指とか手のひらがつーって通る度に、痛かったり、引っ掛かったりする感触のある場所が幾つもあるから、もしかしたら、そこは僕が自分で思ってるよりも凄いことになってるのかも知れない。
「あの、それも、ごめんなさい。これじゃ痛かったよね」
「でも爪はちゃんと切ってあったし、僕なんかより妙姉ぇはもっと‥‥‥あいこだよ。っていうか、僕もごめん。もっと何て言うか、こう、なんか、上手に」
「そんなの、いいんだってば」
暗くて見えないけど、笑ってくれてるのがわかる。僕は少しほっとする。
‥‥‥それはそれとして。
さっきからずっと撫でてくれている背中の上を、妙姉ぇの手が触った順番に、背骨のあたりから、ぞくぞくするような、むず痒いような感じがじわっと滲んでいく。
「あー。もしかしてしーくん、背中、感じてるでしょ?」
「違うよ」
あんまり気にしないように、なんか背中反らしたりもぞもぞ動いたりしないように、さっきから僕は頑張っていたつもりで。
「しーくんの嘘つき。だってほら、膝に当たってるよ?」
「ぁ‥‥‥ぅ」
全然バレてた。しかも妙姉ぇは調子に乗って、その膝をぐりぐり押し当ててくる。
僕は慌てて妙姉ぇから離れようとした。妙姉ぇの手のひらが背中に強く当たって、引っ掻かれた傷のかたちに熱を持った。
でも妙姉ぇは、手を離してはくれなかった。
「言ったでしょ? しーくんはいいんだよ。痛いのも苦しいのも、しーくんだけはいいの。ほら」
それどころか、妙姉ぇはそのまま、僕の真下に滑り込んでしまった。
何も考えずに乗っかっちゃったから、妙姉ぇがその下で小さく呻く。‥‥‥女の子だからとか男の子だからとかじゃなくて、人間がひとり上に乗ってて重たくないわけない。
「重いでしょ妙姉ぇ? だから」
だから離れようとしてるのに。
「やだ」
やっぱり、妙姉ぇは手を離してはくれなかった。
「あのねしーくん。あたし、多分今からまたしーくんの背中引っ掻く。まだ慣れてないから、また痛いとか辛いとかきっと何度も言う。また泣いちゃうかも知れない。だから、あたしに痛いことして。もっとめちゃくちゃなこともいっぱいして」
「ちょっと待ってよ。だからって、何がだからなんだよ? 意味わかんないよ妙姉ぇ」
「いいの」
妙姉ぇはきっぱり言った。‥‥‥これじゃ、狼狽えてるのは僕だけだった。
「それであたし、しーくんの下ですっごい苦しくて必死だから、だからしーくん、あたしが大丈夫かどうか、思いっきり気にして。もう死んじゃいそうになるくらい、ずーっとずーっと、あたしのことだけ心配してて」
すぐ耳元で妙姉ぇが囁く。
「そうやって今から、っていうかこれからもずっと、あたしでしーくんを一杯にしちゃうの」
吐息が耳に触れて、思わず、僕はぶるっと身体を震わせる。
「‥‥‥そんなこと言って、妙姉ぇがえっちなだけじゃないか。妙姉ぇの嘘つき」
何となく、そのまま頷くのが悔しくて、僕は混ぜ返した。
「なによー。しーくんだってこんなになっちゃってるくせにー。しーくんの嘘つき」
妙姉ぇは膝を少し浮かせて、まだ真上にぐりぐり押し当ててくる。
「何だよー。妙姉ぇの嘘つきっ」
「ふーんだ。しーくんの嘘つきっ」
子供みたいに、馬鹿みたいなことをしばらく言い合ってから。
「‥‥‥えっと、恥ずかしいね、妙姉ぇ」
「‥‥‥ん。なんか、今更だよね、あたしたち」
暗がりで顔を見合わせた僕たちは、多分二人とも、照れたみたいに笑った、と思う。
嘘つき同士で意地張りあって、でも本当は、そんな嘘なんてどっちも全部お見通しで。
自分のことで相手を一杯にしちゃおうとかお互いに思ってる限り、多分、僕と妙姉ぇはずっといつまでもこんな風なんだ。
何となく、何かがわかったような気になって‥‥‥ひりひり痛む背中に、それでも妙姉ぇが爪を立てやすいように目一杯抱きしめながら、僕はそーっと、そーっと妙姉ぇを一杯にしていった。
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