にじ×こん  


  

 例えば、自分の部屋の本棚や、その辺の床に転がった雑誌の表紙や、そうしたものを目にする度に。
 自分のものであるというスマートフォンにインストールされた、アプリケーションのリストや、アカウントに対する課金状況を眺める度に。
「何というか、割とこう、ヲタクっぽいものの比率が比較的高い傾向があるような」
「いや『ぽい』とか何とかいうのじゃなくて、ヲタクそのものでしょうが、和彦のアレは。比率で言うんだったら一〇〇パーセントの‥‥‥ふう」
 あるいは、生まれた時から隣家の住人だという要子さんが、とても面倒そうに呟く言葉を聞く度に、僕としては首を傾げるしかない。



 要するに僕は、記憶喪失なのだそうである。
 それはまあ、例えば自室がああである理由すら自分でわからないのだし、そのようにして過去あったことが思い出せなくなってはいるのだから、それは記憶喪失には違いないのだろう。それはもう考えても仕方のないことというか、そういうもんだと思ってやっていく他ない、のだけど‥‥‥要子さん以下、近しい人々が口を揃えて『記憶喪失になりたくてしょうがなかった』と言っているのが、目下、最も意味のわからないところであった。




 つい先日、病院で目を覚ます以前の僕、田中和彦という人は、ごく普通のサラリーマンである父を家長とする、ごく普通の家庭で生まれ育った一人っ子であり、ごく普通の男子高校生であり‥‥‥また、少ない小遣いが入る都度アニメだのマンガだのゲームだのに使い果たしてしまう、所謂二次元の人でもあって、その方面には際限ない浪費の人だった、と聞いている。
 蔵書や、CDやゲームのハードウェアにメディアの類、HDDレコーダーに録画された番組データの偏りなどから、それはある程度想像のつくことだった。
 単純に、えらく量が多いからだ。
 想像といえば‥‥‥もしこれらの全部を消費していたのだとすれば、学校の成績は多分そんなによくかったんじゃないかな、ということについても察しはついた。
 もう一度これらをすべて読み返したらどのくらい時間が掛かるのか、俄には想像がつかない物量である。これを全部消化して、かつ勉強もきちんとやっているとしたら、それこそ蔵書に多くある女の子成分多めなSFの類のように、以前の僕にとっての一日が二四時間でなかった可能性についての検討が必要かも知れない。
 他に得意なことがあったような話も、多様なジャンルの友人がいたような話も特には聞いていない。
 得意といえば、クローゼットを見たところでは服装の趣味もごく普通‥‥‥なのは別にいいとして、体育会系の部活にいればユニフォームの類が何かがあるんじゃないかと思ったものの、そういうものも発見されていない。他の場所から文化系の道具類が出てきたわけでもないことだし、そもそも僕は部活をやっていない、もしくは、所属はしていたが活動らしい活動はしていない、のではないかと踏んでいる。
 日記をつけるような習慣もなかったようだ。今のところ、自分で書いたり作ったりしたと思しきものはほとんど部屋から発見されていない。
 ツイッターのアカウントはあるが、呟いていたのは主に深夜、何かアニメを見ながらのもののようだ。まあ日中は授業を受けている筈だからそんなものだろう。
 他にブログやSNSのアカウントはなかった。
 そういえば、今時の男子高校生でLINEのアカウントを持っていないのは珍しいのではないだろうか‥‥‥つまり僕には、そういうもので連絡を取り合う相手が、即ち友達がいないのではないだろうか、というのも、そういうあれこれから類推される事柄であった。
「賢いのかアホなのか、昔からよくわかんないよね」
 先日、そうした事々について要子さんに話してみたら、苦虫を何匹か纏めて噛み潰したような顔をして、要子さんはこめかみに指をやった。
 ‥‥‥間違っている、という言質はなかった。




 僕と要子さんの通っている高校は、自宅から徒歩で充分通えるところにある。実は小学校より近いらしいが、今のところ、小学校がどこだったのか、の記憶がない。
「それでその、『記憶喪失になりたくてしょうがなかった』というのは、一体どういう意味の」
 肩を並べて通学路を歩きながら、僕は要子さんに、何度目かの質問をしてみる。
「自分のことでしょうが」
 いつもそうだけど要子さんは素っ気ない。
 いや素っ気ないのは別にいいんだけど、ただでさえ白目勝ちの眼をずーっと嫌そうに眇めていられると、それはもうほとんど白眼視を通り越して黒目が消失する勢いで‥‥‥もしかして僕は何かそんな風に藪睨みされるような、すごく悪いことをしているのではないかと、そんなことばかり気になってしまう。
「そう言われましても」
「そんな風に敬語で話されるのも調子狂うのよね。馬鹿にされてるような気がするというか」
「一体どうしろと」
「もうちょっと普通にできないの?」
「ですから、どういうのが『普通』なんだかよくわからない、というのが問題で」
「めんどくさ‥‥‥」
 本当に面倒そうに、長い髪を掻き上げる。
「っていうか、本当にないんでしょうね、記憶」
「まだそんなことを」
「そんなこと疑われるような奴だったのよ」
「うーん‥‥‥」
 要子さんはもうひとつ息を吐いた。
「アニメとかラノベとかゲームとか、そんなんばっかり見てた奴なのは知ってるでしょ?」
「それはまあ」
「やたら女の子にモテることを目的とするジャンルなんかの傾向らしいんだけど、そういうのの主人公には記憶喪失が多いんだって」
「は?」
 それはまた突飛な話だ。
「どの子と仲良くなるかで話の結末が違うとするでしょ。すると、短期間で一気に話を進めるために、仲良くなり得る女の子の数だけ過去に因縁が用意される。その女の子がうっかり主人公に靡いちゃうような劇的な因縁が」
「‥‥‥はあ」
 もしかして、幼馴染みしか出て来ないようなゲームが僕の好みなんだろうか。
「でも、そんな劇的なことばっかりたくさん憶えてたらルート選択の余地がなくなるから、構造上、全部憶えてはいないことにするんだって。で、進行に合わせて、ポイントとなる記憶を都合よく取り戻すことを、そのイベントの主眼とする」
「‥‥‥ん?」
 もしそれが、僕が『記憶喪失になりたくてしょうがなかった』ことの説明なんだとしたら。
「まさか、そういうフィクションの主人公には記憶喪失の人が多いから、僕も記憶喪失になりたかった?」
「本人はそう言ってたけど」
「そんなアホな‥‥‥」
 僕はそういう主人公になりたかったのだろうか。
 とはいえこの場合、AがBだからBもA、とは限らないんではないのか。仮に主人公がみんな記憶喪失だからといって、記憶喪失の人がみんなフィクションの主人公、とはならないだろう。
「まさか自分自身にアホ呼ばわりされる日が来るとか、考えたことなかったんじゃないかしらね」
「どうなんでしょう‥‥‥」
「なったところで『記憶喪失になりたかった』ことを憶えてないんじゃ意味ないのに。本っ当アホなんだから」
 まったくもってその通りだった。
 要子さんと僕は一緒に肩を竦めた。



 日中、高校にいてわかることは、それほど多くない。
 本当に僕にはあまり友達がいないこと、それから、僕と要子さんはほぼセットで扱われること、などだ。
「要子さんはどうなんでしょう」
「どう、とは?」
 それは、訊ねるにもタイミングを考える必要があることだろうと思い、放課後までとっておいた質問だった。
 今、帰り道の途上であれば、僕ら自身の他には道端の猫くらいしかいない。
「例えば、コレとセットである、ということについて」
 問いながら自分の顔を指差すと、
「‥‥‥きちんと止めを刺すべきだった。後悔してる」
 要子さんは大仰に溜め息を吐いた。
「それはいいけど和彦」
「いいのか‥‥‥」
「いやちょっと、そういう意味じゃないでしょ!?」
 要子さんの頬に朱が差した。ちょっとかわいい。
「え、じゃどういう意味で」
「やっぱり死ね。三回死んで死ね」
 ‥‥‥もしも憎しみで人が殺せるとしたら、それを成し得るのはこういう視線の持ち主ではないだろうか。
「そんな藪から棒な」
「いいから聞きなさい全然違う話だから。今日、和彦ん家はおじさんもおばさんも留守だから、夕飯ウチで食べなさいって、おばさんから聞いてないの?」
「あ、そうなんですか」
 どっちの家も両親共働きで、忙しい時期や休みの周期が違うから、そういう風に預かったり預けられたりは、それこそ僕や要子さんが生まれた頃からしばしばあったことなのだそうだ。
 別にカレシとカノジョとかになれとかは言わないけど、意味もなく仲悪くなるのはやめてね、私たちが不便だから、と両親も言っていたのを思い出す。
 ‥‥‥僕が、自分の食事を自分で用意ができる人なら、そんな話にならないだろう。ということは。
「もしかして、僕は料理ができない人?」
「どうだろ。一応まあ、できるといえばできる?」
「え、そうなの?」
「お湯湧かしてカップラーメンの器に注ぐ、くらいのを『料理』と言っていいのなら、だけど」
 無論、そんなものは『料理』と言わないわけであり、
「ご馳走になります」
 差し当たってはそう答えるしかない僕である。
「何よ、難しい顔して」
「いや、こう、僕って何か取り柄ないのかなあ、とか」
「なかったと思うけど」
「即答ですか‥‥‥」
 薄々そうじゃないかと思ってはいたが、やはりそれは、ちょっと悲しい答えだった。
「どうせ素直に帰っても別にすることないんでしょ。食事の用意ができるまで、ウチで宿題でもやってれば?」
「へ?」
「分担すれば早いじゃない」
 そりゃクラス同じなんだから宿題の量も同じだろうけど、宿題ってそういうものだったろうか。
「まあそりゃそうでしょうが」
「ああ‥‥‥そういえばそれも、前よりマシになったことのうちかもね」
「マシ、というと?」
「前は宿題やってるの私だけだったもん」
 いや、だから、普通宿題ってそういうものでは?
「和彦は後で写すだけだったのが、ちゃんと分担できるようになったんだから、こっちにしてみれば大分マシ」
 ‥‥‥すみません。私が悪うございました。




 さっきまで差し込んでいた西日もすっかり窓から姿を消してしまい、点けてはあった照明の明るさがはっきりわかるようになってきた頃合いである。
 今いるここは、お隣、要子さんの家の居間だ。
 ちょっと部屋で着替えて、ついでに冷蔵庫から麦茶出して来るから、と言い置いて、要子さんは奥の扉に消えたままだ。
『部屋までついて来たら殺すわよ‥‥‥』
 扉が閉まる瞬間、要子さんは殺人者の目をしていた。
 聞いた話とちょっと違っているのは、要子さんの家も両親が留守である、ということだった。もっとも、こっちのおばさんはもうじき帰ってくるそうだが、僕の両親はさらに遅いそうなので、最終的にはそれで辻褄が合う、ということなのだろう。
 一応テレビは点いているがまったく観ていない。映っているのは何かワイドショー的な番組のようだが、まあ興味もないし、適度な雑音を発生させる装置としてしか機能していなかった。
 そのせいか、テレビが発する雑音よりも、かりかりとノートに字を書く音の方がよく耳に届く。
 数学の教科書を捲りながら‥‥‥何も憶えてないのに問題は解けるんだなあ、とかいうことを少し思う。
 あるいは、この自分はそんなに勉強してる人ではないと思ってたが、もしかしたらそこは見込み違いだったのかも知れない。記憶喪失になっても泳ぎ方や車の運転のようなことは忘れないのだ、という話はよく聞くし。
 ともかくも、進捗は順調だった。



「よし、こんなもんか」
 ここに腰を落ち着けてから、かれこれ三〇分近くが経過している。
 僕に割り当てられた部分はもう粗方片付いた。あとは要子さんなのだが‥‥‥台所に続く扉に目をやるが、まだ要子さんが現れそうな気配はない。
「要子さーん?」
 呼び掛けてみたら、
『ちょっと待ってー』
 割とすぐに返事は返ってきたが、何故、何を『ちょっと待って』なのかは全然わからなかった。
 宿題のための道具は通学鞄ごとここに置いてあるんだし、普通に考えたら、制服を適当な部屋着に着替えて、麦茶用意して戻って来るだけの筈だと思うんだが、そのくらいのことに何十分掛かりなんだろう。
 そんな風に気を遣わなきゃいけない間柄だとは思えないけど‥‥‥それはそれとして、やっぱり女の子の着替えっていうのは大変なことだったりするんだろうか。
「あの、なんか忙しいなら、麦茶くらいこっちで出しときましょうかー?」
『い、いいから宿題やっててよ!』
 やや鋭い拒絶。
 いや終わっちゃったんですけど僕の担当分。
 ‥‥‥仕方なく、要子さんがやる筈だった、英語の宿題のための一揃いも卓袱台に広げる。



 で、そろそろ英語の宿題も終わろうかという頃。
『和彦、いる?』
 こんこん、と居間の扉がノックされた。
 何か場違いに遠慮がちな印象の声。
「へ? ‥‥‥はい、いますよ?」
 ここに招き入れられた経緯や、僕や要子さんが今するべきことを考えたら、『いる』に決まっている、のではないのだろうか。
『う、うん』
 どちらかといえば要子さんは剛毅果断の人だと思っていたのだが、扉の向こうの要子さんらしき人は、そうした普段のイメージとはやや不釣り合いだ。
 よくわからないが何か逡巡しているらしい。
 ‥‥‥そしてこの場合、むしろ剛毅果断なのは僕の方であったのかも知れない。
 腰を上げた僕はすたすた扉の方へ向かい、向こう側には何の断りもなしに、いきなり扉を開けてしまった。




 僕のいる居間から、廊下へと差した光の他に、廊下には明かりらしい明かりはなかった。
「ひゃっ! ちょ‥‥‥」
 呻くように呟くと、要子さんはしゃがみ込んでしまう。光を伝って廊下に伸びた、僕の影に身を隠すように。
「え。いや、ちっ違うの」
 よく見ると変な格好だ。
 さっきまで着ていた制服はブレザーにブラウスで、今着ているのは白いセーラー服だった。少なくとも高校指定の制服ではない。
 それでいてスカートはなく、裾から下にいきなり生えているのは、スクール水着の下半身のようである。
 爪先から膝の上までも白のニーソックス。
 長いストレートの黒髪は一旦ポニーテールに纏めて、頭の上には白い‥‥‥水兵が被るような帽子を、ちょこんと引っ掛けている。
 どういうセンスをしていると部屋着がこうなるのか、取り柄ナシの一男子に過ぎない僕には、ちょっと想像がつかなかった。
 わかるのは‥‥‥これは何か、いろんな意味で取り返しのつかない何かである、ということくらいだった。
「何の格好?」
 少なくとも、さあこれから宿題をやりましょう、という格好ではない。
 と思う。
 ‥‥‥ん、だけど。
「あの」
 答える代わりに、要子さんはその場に立ち上がった。
「もしかして、本当にわかんない?」
「え」
「ま、っ‥‥‥あああああっ!」
 ぶちん。
 要子さんの頭の中で、何かが切れた音が聴こえた、ような気がした。



「マジカル潜水艦少女、サイレント☆ゆー子! いけない子には、雷撃戦でおしおきしちゃうぞ!?」
 やや甲高い声でそう言って、くるん、と一回転。



 もしかして要子さん自身が赤く発光しているんじゃないかと疑いたくなるくらい、顔といわず太股といわず、真っ赤に染まった要子さんの姿がそこにある。
 思い切った割には腰の引けた、言っては何だがちょっと情けない姿だ。何というか、『ポーズを決めた』というより、『自分しかいないはずの部屋にもうひとりいたことに気づいてしまった』ような感じだった。
「か‥‥‥かっ‥‥‥」
 そのまま数秒‥‥‥まるで永遠のように長い数秒を、僕たちはただ、見つめ合うだけのことに費やした後、
「かかか和彦殺して私も死ぬーっ!」
 錯乱したのか、眼がぐるぐるしだした要子さんの手を引っ張って、僕は廊下の薄暗がりへ踏み出す。
 入れ違いのように、玄関側から近づいてくる足音と声。
『ただいまー。和彦くんも来てるわねー?』
 要子さんの『和彦殺して私も死ぬ』発言は‥‥‥おばさんの耳には届いていない、と思いたかった。



 『ついて来たら殺す』と言われた部屋に要子さんを押し込み、その勢いで僕も室内に転がり込む。
「か」
 そのまま要子さんはベッドに飛び込んでいった。
「汗顔の至りです‥‥‥」
 こんな時、僕はどんな顔をしたらいいのだろう。
 『そうですね』はないだろうし、意図がわからないのに『かわいいですね』も違う気がする。
「なんでそんなことを」
 重たい沈黙に困り果てた僕は、仕方がないのでごく普通に訊ねてしまうことにしたのだが、
「ね‥‥‥本当にないのね、記憶」
 ベッドから引き剥がしたシーツやタオルケットにすっぽりくるまって、顔だけ出した要子さんが訊ねてきた。
「そうらしいです。‥‥‥もしかして、僕が好きだったキャラの格好?」
「まあ、和彦も嫌いじゃなさそうだったけど」
 いくらフィクションの話とはいえ、スクール水着の上にセーラー服は突飛に過ぎるのではないのだろうか。
「アニメのゆー子は身長が一四〇ないような小さい子って設定だし、私のタッパでこの格好は流石にちょっと無理があるって、わかってはいるんだけど」
 確かに要子さんは、女子の中では背が高い方だろう。僕と大して変わらないくらいだから、そろそろ一七〇に届こうか、というくらいではないだろうか。
 でも上背の割にはボディラインの起伏が目立たないから、スクール水着はむしろ似合う方なのでは‥‥‥とか思った気がするのだが、脳内で激しく警鐘を鳴らすもうひとりの僕が尋常な勢いではなく、要子さんよりもむしろそちらに気圧された僕は、結構な苦心の末に、喉元にわだかまる言葉を飲み下した。



「でも着たかった、とか?」
「だって私、かわいいの好きなの」
 シーツで作った繭の中に、残った頭も引き込まれる。置き場を失った水兵の帽子がその場に落ちて転がった。
「私、なんか身長あるし、やたら目つき悪いし、愛想も全然ないし」
 立ち入りを禁じられた部屋の中を見回す。
 所狭しと並べられた、蔵書や、CDやゲームのハードウェアにメディアの類‥‥‥何だか、僕の部屋みたいな部屋だ、と僕は思った。
「だから和彦、帰ってきてくれないと困る」
 やがて、シーツの繭から、普通のジャージ姿の要子さんが再誕する。
「こういうの、元々好きだったのは私の方。初めのうちは、和彦は私の趣味に付き合ってるだけだった。途中で変な転び方しちゃったのは、まあ、今はいいとして」
 困ったような顔で明後日を見つめる様を見て、いつもそうしていればかわいいのに、と思い‥‥‥それも恐らく、直接言ってはいけないタイプのアレなのであろう、と思い直す。
「だからこういうの、今まで和彦としか話したことないの。別に友達いないわけじゃないけど、こういう話が普通にできる友達がいるってわけでもないし」
「それは‥‥‥」
 悲しいことだろう。要子さんにしてみれば、ほぼ唯一の同好の士が突然いなくなってしまったようなものだ。
 ‥‥‥でも、要子さんのいう『和彦』が戻ってくるということは、今いる僕なり、今の記憶なりは、どうなってしまうかわからない、ということだ。多分。
「戻ってくるといいですね」
 いろいろ考えた結果、僕はそう言う他になかったし、
「‥‥‥ん」
 きっと、要子さんも、頷く他になかったのだろう。




 居間に戻ってみると、居間の卓袱台に広げっ放しだった勉強道具はすっかり片付けられていて、
「もうお勉強終わってるの? 除けちゃったけど」
 それらの代わりに、にこやかなおばさんの顔と、真ん中でふつふつ煮える土鍋が目に入った。
 そう、こんなに印象の違うおばさんと要子さんだけど、並べて見比べると、パーツの造作というか、顔つきはむしろ似ているように思うのだ。目つきに険がないだけで。
 ‥‥‥笑ってる女の子は、大体、かわいい。
 どうやら三次元のことには疎いらしい僕に知り得た、それは、数少ない真理のように思われた。
「どうしたの? おばさん、何か顔に付いてる?」
 そう、ここで、ちょこんと首を傾げるのか、
「ちょっと和彦、何じろじろ見てんのよ!」
 あるいは、無防備な背中を破砕する勢いの平手が飛んでくるのか、その差と言い換えてもいいのかも知れない。



 それと、痛い。
 というか、この痛みには、何か憶えがあるような。
『いやでも、要子は上背の割にはボディラインの起伏が目立たないから、スクール水着はむしろ似合うh』
『喧しいわゴルァっ!』
 ああそうだ、あの時も、僕と要子は同じような、




「いつも思うんだけど要子、和彦くんには当たりが厳しいんじゃないかしら」
「え、いや、その」
「そういうのを『ツンデレ』っていうんだっけ?」
「ぜんぜん違うと思います‥‥‥」
 ふたり分の声が、ぼんやりと遠くに聴こえていた。
 何となく、それらの音源は頭のずっと上にあって、僕の頭や耳の方がどこか深い水の底に沈んでいて、そのせいで聴こえ方が違っているような、不思議な感じだった。
「もしかして、記憶喪失がどうのっていうのも、本当は要子がやったんじゃないの? 一緒にいたっていうし」
「う‥‥‥それは」
 要子の声には、何か返答に窮したような響きがあった。
「ま、いいけどね」
 他人を記憶喪失にまで追い込んでおいて『いいけど』の一言で済ませるのは豪快過ぎではないだろうか。
 ‥‥‥などと。
 今までのうちであれば、そう言って不平を鳴らすこともできたのかも知れなかった。
 だけど今、ここに僕がいる以上、そういう手段の使い時はもう逸してしまった、と思った方がいいのだろう。
 周囲を漂い、水面へ向かう泡沫の幾つかを追うように、水の中から自分を引き上げるイメージで。
 最初に僕は、光の方へ腕を伸ばし、それから、



 のっそりと身体を起こして、辺りを見回すと。
 場所はまだ要子の家の居間で、当然そこに、僕を沈められるような量の水はない。
 よし。意識ははっきりしているし、現実も視えている。
「か‥‥‥和彦?」
「うん」
 それは確かに自分の声なのに、違う誰かの声で話しているような違和感があった。‥‥‥実際、この何日かは知らない誰かが自分を演っていたようなものだったのだから、それも無理からぬことのような気もした。
「そんなに泣いちゃうくらいなら、要子が手を出さなければよかったんじゃないの?」
「うるさい馬鹿」
 ぺちん、と軽く叩かれる。
 なんて理不尽な。
「あら。ひょっとして、戻ってきたのかしら?」
「多分そうです。すみません、ご心配を」
「いえいえ。よかったわ」
 おばさんは相変わらず朗らかだったが、
「心配した‥‥‥心配したんだから、っ」
 差し当たり、僕の首に縋りついて、人が変わったようにわんわん泣いている要子のことをどうするべきか、僕は考える必要に迫られていた。




 居間に戻った時にはあんなに湯気を立てていた土鍋が、どうやらすっかり冷めてしまっているようだ。
 そのくらいの時間が経ったのだろう。
 そして、
「なんだ和彦、思い出したんだって?」
「お邪魔します。ごめんなさいね家族総出で。ああこれ、うちの夕食だったんですけど、せっかくだから」
「あら、肉じゃが。こっちのお皿も出しましょうね」
 いつの間にやら、要子のおじさんもウチの両親も帰宅しており、両家の誰も口にしていない夕食を、結局、両家の全員が一斉にとる話になり、俄に息を吹き返した土鍋を都合六人分の食器が包囲した。
 だから、そのくらいの時間が経ったのだろう。



 夕食だか宴会だかは一段落し。
 両親同士は『久し振りだから軽く呑み行こう』とか何とか言って去り。
 再び静まり返った居間の卓袱台に、ようやく登場の麦茶のボトルとコップを並べ、
「宿題やってるのが誰だけだって?」
 さっきの宿題ノートを書き写しながら、
「‥‥‥くらいの皮肉、和彦なら言うと思う」
 でも要子は、まだ少し首を傾げていた。
「うん。本当は言おうと思った」
「やっぱり」
 どうも要子の和彦像には、相変わらず重大な偏りがあると考えざるを得ない。どんな酷い奴なんだ僕は。
「‥‥‥で」
 例の、ジト目としか言いようのないあの視線を、要子は僕に向けた。
「主人公にはなれたの?」
「んー」
 幼馴染みがいる。
 僕しか知らない彼女の秘密を、記憶喪失によって僕はすっかり忘れている。
 そこにイベントがあって、僕は彼女の秘密に纏わる記憶を取り戻す。
 表面的には、一応これでフルコースだ。
「でもなあ‥‥‥」
「でも?」
 自分をギャルゲの主人公に準えるには、何かとても大事なことがひとつ抜けているような気がする。
「よくわかんない」
「何よそれ」
 呆れたように、要子は頭を振って、
「‥‥‥何だったら、もういっぺんやってみる?」
 それから、意地悪そうに笑ってみせた。

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