羽織ったバスタオルの下はすぐスクール水着、なんて変な格好のまま。
渡り廊下の熱くなったコンクリートに裸足でぺたぺた足跡を残しながら。
授業中のプールからこっそり逃げ出して、今、通用口から校舎の中へ消えたあいつのことには‥‥‥多分まだ、俺だけしか気づいてない、と思う。
見つからないようにプールを抜け出すだけでも、やってみたら意外と大変だった。
校舎に入った後はもっと大変だった。どこの教室だって今は授業の最中で、バスタオルだけとか水着だけとか、そんな格好で廊下なんか歩いてたら、プールから抜け出してきたみたいにしか絶対見えない。
あいつ、なんかいっつもぽやーっとしてるくせに、こんな凄いこと平気でやるなんて。
呟きそうになって、思わず口を両手で押さえた。ほっぺたのあたりでぱちんって小さい音がして、でもそれが階段中に、廊下中に響いちゃったような気がして、日の当たらない冷たい階段に左の爪先を乗せた姿勢のまま、胸のドキドキが治るまで、俺は銅像みたいに固まってるしかなかった。
通用口の方の階段は四階までしかない。屋上へ行けるのはこっちじゃなくて、玄関の方の階段だった。いくらあいつが凄くても多分廊下は歩けないから、この階段に、踊り場のどれかにあいつがいる。俺はそう思った。
しーんと静まり返った階段を昇っていく。
英語の先生が、複数形は名詞にエスをつけるんですよー、なんて言ってる声も、数学の先生が、イコールの両側に同じ数を掛けると、なんて言ってる声も、何だか、不思議なくらい遠くから聞こえてくる。
学校って‥‥‥今まで、自分がいる教室のこと、だと思ってた。自分がいない教室は自分と関係ない授業をしているってことを、今まで、俺はちゃんとは知らなかった。
でもそんなこと、きっとあいつはずっと前から知ってる。そう思うのが何故だか悔しくて、俺は下の唇を少し噛んだ。
いちばん上の踊り場で、俺はあいつを見つけた。
「何やってんだよ?」
薄暗い踊り場の隅で、バスタオルの上にぺたっと座り込んで、壁に寄り掛かっていた。
「んー? でももう、これ、ないよ?」
これ。
熊のぬいぐるみとか抱くみたいに抱っこしてる、でっかい‥‥‥消火器。
「は?」
「こーやってると、冷たくて、気持ちいいよねー」
ものすごく嬉しそうに呟いて、レバーの付け根のあたりに頬ずりする。右の頬が少し埃っぽくなったけど、そんなの全然気にしてないみたいだ。
「だったらプール入ってればいいじゃん」
「だって私、泳げないんだもん」
「だからって、こんなトコで水着のままで消火器かよ?」
「夏はねー、廊下の隅とか、消火器とか、涼しくていいよねー」
「な‥‥‥」
俺が言いかけたところで、唇に人差し指を当てる仕種をした。その人差し指も少し埃っぽかった。
「あんまり大声出すと、先生に見つかっちゃうよ?」
次に言おうとしたことが急に言えなくなって、息ができないまま、俺は慌てて振り返って、踊り場から階段を見下ろした。でも別に、先生が来そうな感じはしなかった。
「ねー、先生に言われて、追いかけて来たの?」
ぽやーっとした声と、小さい衣擦れの音が、背中の後ろに聞こえていた。
「違うよ」
答えながら、もう一回、あいつのいる方に振り返ろうとしたんだけど、
「じゃあ、どうして来たの?」
でも、今はまだ、振り返れなかった。
見てないけど多分赤い、こんな顔なんて絶対見せたくなかった。
なんで俺が、顔が熱いんだ。
なんで、消火器抱いて嬉しそうなとこなんか思い出すんだ。
なんで‥‥‥可愛い、とか思うんだ。
「ねー、準備いいよ?」
「何がだよ?」
何の準備か全然わかんなくて、不思議なことを言われた俺は、思わずそのまま、顔が赤いのも可愛いとか思うのも全部そのまま、振り返ってしまった。
「開けたから、こっち来れば? 消火器はあげないけど」
さっきはちょっとくしゃくしゃだったバスタオルがきれいに敷き直されていて。
「えっと、でも、ほら暑いから、あんまり近くはダメだよ? ‥‥‥でも、あのね、ちょっとだったら、近くてもいいよ?」
そんな風に言いながら、いつの間にか少し俯いて、消火器をじーっと見つめていた。
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