アルミとみょーこと保健室で。  

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「うー‥‥‥」
 シャツの襟に指を引っ掛けてぱたぱたさせながら、有美はふうと息を吐いた。
 同じバスから降りた生徒が何人か、一様にうんざりしたような顔をして、そこに立ち止まった有美をゆっくり追い抜いていく。
「どーしてこう、坂ばっかりなんだろ、この学校」
 駅と大学を結ぶ路線バスは、山の麓みたいなところに設えられた学生用駐車場や駐輪場の高さまでしか上がってこない。
 今、有美が立っている辺りから、校舎棟が建っている高さまでは、有美の足なら大体五分くらいの山登り。
 ちなみに、体育館兼講堂やら食堂やら購買やらは、校舎棟の位置からさらに階段なり坂なりを上がったところにある。
 今年の四月に入学したばかりの有美は、入学式が来るまで、そういうことを何も知らなかった‥‥‥これから四年に渡って毎日こんな山登りを続けるのか、と思うとちょっと気が滅入る。
「せめてバスが教室と同じ高さまで上がってくれなきゃなあ」
 ぶつくさ文句を言うが、言い募ったら山が低くなるというものでもない。
「っと」
 肩を落として、もう一度息を吐いて、それから有美は山登りを再開する。



 ちょうど五分後。
「‥‥‥わーお」
 開いたままの引き戸の奥を覗き込むと、講義室は異様に閑散としていた。
 例えば前回の今頃、同じ講義が始まる五分前ともなれば、もっとたくさん学生がいた筈だった。大体この講義は必修科目なのだから、時と場合によって学生が増えたり減ったりすること自体にも、厳密にいえば問題はある‥‥‥の、だろう。
「ゴールデンウィーク直後、かあ」
 時節柄を考えれば、こんなものなのかも知れないが。
 ‥‥‥と。
「って、うわっ!」
 まだそこに立ち止まったままの有美の背中に、突然、何かがぶつかった。
「あたっ!」
 振り返ると、知らない女の子が蹲っている。
 どうやら鼻の頭を押さえているようだ。
「ちょ、だ、大丈夫?」
 しゃがんだ高さから有美を見上げる、細い眼と眉が一緒にハの字になった困り顔を見つめて、
「は、はひ」
 こんな可愛い人、同じクラスにいたっけ‥‥‥今の状況と何も関係ないことを、唐突に、有美は考える。
「あの、もうひわへあいまへんれひは」
 そうこうしているうちに、目の前に立ち上がった女の子がぺこりと頭を下げた。
「え、あ! 血! 鼻血!」
「ふえ?」
 やや傾いた顔の真ん中、ちょうど手の甲で隠されたどこかから、す、と赤い雫が落ちた。
「いいからええとはいティッシュ。それからそれからええと、んー」
「あ、わっ」
 ジーンズのポケットからティッシュを取り出して丸ごと正面に放る。
 受け取ろうと動いた手のひらの、血に染まった片方が、ポケットティッシュの外装にべたっと指紋を押しつけながら、どうにかそれをキャッチする。
 もう一滴落ちた雫が、ちょうど腕と腕の隙間を擦り抜けて、床にもうひとつ赤い点をつけた。
「ねえ保健室どこだっけ!」
 誰に、ということではなく‥‥‥教室の中の誰かに向かって、有美は声を上げる。
「え、教務の横、だったような」
 やっぱり知らない誰かが答える。
「さんきゅ!」
「あの、すみまへん、わらくひ」
「いいから!」
 目の前の女の子を半ば引き摺って保健室へ向かう。
「ひゃわああああ‥‥‥」
 ちょうどふたりが講義室棟を出たところで、始業のチャイムがキャンパス中に響いた。





「ま、お医者さんが要るような問題じゃなくてよかったわ。はい」
 おかしそうに笑いながら、白衣の女性職員はふたりの方へ、机上に置いてあったティッシュ箱を差し出す。
「え‥‥‥えっと?」
「いや『はい』って」
「だから、いま鼻に入ってるの、詰め替えたら?」
 それはそれとして、何だかこの職員、『ティッシュ箱を渡す』以外のことをする気は別にないらしい。
「あの、でも手当するとか、そういうの何かないんですか? 薬塗るとか何とか」
 困り顔の女の子の代わりに有美が訊ねると、
「‥‥‥え?」
 何かとても不思議なものを見るような目で、白衣の職員は有美を見つめ、
「ああ、そっちかー!」
 そのうちに、ぽんとひとつ手を叩いて、
「いやー気づかなくてごめんねー。立ったままじゃアレだよねー。座りたかったらほら、そこの椅子でもそっちのベッドでも好きに使ってもらっていいから。あーあとねえ、お茶セットはあっちの壁のところ。電気ポットとか置いてあるの、わかるでしょ?」
「はい?」
「おーそうだ、アレだったらついでに私のコーヒーも淹れといてくれる? なんか今日忙しくってさー」
「‥‥‥はい?」
 いやー悪いわねーとか何とかいいながら、職員は白衣の裾を翻し、とっとと机に向き直ってしまう。
「えと、すみません、できればゴミ箱を持ってきていただけると」
 鼻が片方塞がっているからか、幾分くぐもった不鮮明な声が、今度は有美の背後から。
 振り返ると女の子は、ちょうど手近なベッドに腰を降ろしたところだった。
「え、あ、はいはい」
 職員が向かった机につかつかと歩み寄り、その脇から持ってきたゴミ箱を女の子の足下に置く。
「いや‥‥‥ええと、そのゴミ箱じゃなくても、あちらのポットのところに」
 その一部始終を見ていた女の子が、困り顔で再度小首を傾げるのと、
「あああまた間違えたあああ」
 机に向かった職員が、何かの紙をくしゃくしゃ丸めて机の脇に投げ落としたのが概ね同時。
「あれ?」
 金属製のゴミ箱に収まる筈の紙屑がダイレクトに床に落ちて‥‥‥聞こえる筈の物音の違いに、今度は職員が首を捻った。
「ねえ、ゴミ箱持ってった?」
 首は捻ったが現場に目をやることはせずに、職員はまず、後ろのふたりに声を掛けて、
「あ、はい」
「おーらい。どこ行ったかわかってりゃ別に‥‥‥ってもう! 一文字でアウトかコンチクショウっ!」
 だからそこにゴミ箱はないと知っている筈なのに、ひとつ目の紙屑とまったく同じところへふたつ目の紙屑が投棄される。
 クリーンヒットしたふたつの紙屑は床の上でぶつかって弾けて、片方は引き出しの下に滑り込んだが、それは別にどうでもいいことなのか、あるいは単に気づいていないのか、職員が机上の何かから目を離す気配はない。
 ‥‥‥何なんだろうな、このセンセ。
 わからないようにひとつ溜め息を吐いて。
「で、こっちは大丈夫なの?」
 それから改めて、有美は女の子の方に向き直る。
「はい。ほら、鼻血だけですから」
 細い目と眉毛が笑うかたちに下がる。
 やっぱ可愛いんじゃないかなこの子、とまた思う。
「というか、ゴミ箱はこのままでいいんでしょうか。わたくしは別に、他のゴミ箱でも」
「いいと思うよ。気にしない気にしない」
 根拠はないが断言しておくことにして、今度はポットやら急須やらマグカップやらがごちゃっと置かれたコーナーへ向かう。
「サイドテーブルそこにあるよね。お茶でいい?」
「あ、いえ、お構いなく」
「まあまあ。どーせセンセのコーヒーも淹れなきゃいけないんだしさ」
 何だかさっきからいいようにこき使われているような気がして、正直なことをいえばちょっとシャクではあるが‥‥‥まあそうはいっても、忙しい人と、手当が必要な人と、別に忙しくないし手当も要らない人の三人しか保健室にいないんだから、それくらいは仕方がないんだろう、と今は思っておくことにした。



「‥‥‥ん」
 有美が淹れてきたお茶を口に含んで。
 数秒、物思いに耽るように目を閉じて。
 おもむろに、ふ、と小さく息を吐いて。
「粗茶ですねえ」
 目の前の女の子が最初に呟いた言葉がコレであった。
「ぶっ」
 何だろう、今度は向こうで職員が、有美の淹れたコーヒーでも吹いたのだろうか。そういう音がした。
 どいつもこいつも失礼な連中であった。
「ってあああせっかくここまで書けたのにッ!」
 くしゃくしゃぽい。
 有美の知っている限りでは、確かこれが本日五投目。
「知らんわそんなモン‥‥‥」
 やや憤りつつ、客用湯呑みに有美も口をつける。
 ‥‥‥いやまあ、すごーく美味しい、とは自分でも思わないが、それにしたって。
「何でも大体こんなもんでしょお茶なんて」
「そんなことはないと思いますが」
「それはアレよ、そうやって鼻塞いでるから味覚鈍ってるんだって」
 鼻つまんでモノ食っても味がわからない、という例のアレであろう。
「そうでしょうか?」
 何やら不審げに眉根を寄せつつ、鼻から詰め物を抜いた途端、まだ止まっていなかったらしい鼻血が、湯呑みの中にぽたりと落ちた。
「あらー‥‥‥」
「ほら早く塞ぐ塞ぐ! あああ湯呑みはいいから!」
「あ、はっはいっ」
 そそくさと箱からティッシュを引っ張り出す女の子。
 縒ったティッシュを再び鼻に詰めて、ちょっと困ったように小首を傾げて微笑む女の子。
 返す返すも‥‥‥せっかくの美人さんが台無しだ。
「ねえセンセー、やっぱり何か、薬とかそういうのはないんですかー?」
 ちょっと離れた机に向かって声を掛ける。
「あなた今まで、鼻血に何か薬塗ったコトあんのー?」
 木霊が返るように、音だけが戻ってくる。
「いえ、ないですけどー」
「わかってんじゃないのよー。ええいまた没っ。じっとしてればそのうち止まるでしょー、大人しく鼻押さえてなさいねー」
 木霊の間に都合六投目が挟まっていたようにも聞こえたが、そうとわかったところで、有美に手伝えることは特にない。
「‥‥‥だってさ」
「はい。まあ、鼻血だけですし」
 穏やかに微笑んで、それから、女の子はこてんとベッドに横になって、
「わたくしは、止まるまではこちらで大人しくしていることにします‥‥‥それであの、お詫びとお礼はまた改めてということで、ここは講義に戻られた方が」
 殊更天井を見つめながら、つまり有美とは目を合わせないようにしながら、その子はそんなことを言った。
「ああ、それはいいよ別に」
 とはいえそこは、
「何かほら、行き掛かり上はあたしが怪我させたみたいなことになっちゃってるし、これでこのまま放っとくっていうのも何だか寝覚めが悪いっていうか。まあ、そっちが嫌じゃなければ、だけど」
 有美には有美の気持ちというものがあるのであるが、
「とんでもありません。そもそもはわたくしの不注意ですし。なのでその、お気持ちはありがたいのですが、こんなことに巻き込んでしまった挙げ句、講義まで取り上げてしまうというのでは、あまりに申し訳がないというかですね」
 ならば当然、その女の子の方にだって固有の気持ちがある、のも道理というものであって。
「あーなるほど。ん、気持ちはありがたいんだけど、とはいえなあ」
「はい?」
「ほら丁度だ」
 女の子の目の前に、有美の腕時計がぶら下げられる。
「さん、にー、いち、はい」
 きーんこーんかーんこーん。
「うわ、これってもしかして」
「二限終了お疲れさまでした」



「ああ、もう昼なのか」
 そこで突然がばっと職員が立ち上がって、
「よし! えーっとそっちの怪我してない方!」
 いまひとつ明瞭でない言葉を発しながら、ベッドの縁に腰掛けたふたりの真ん中辺りを曖昧に指差した。
「‥‥‥あたしのことかな?」
「‥‥‥多分」
 そうとわからないわけではないのだが、反応が鈍いのは致し方ない。‥‥‥というか、この女の子の名前も、先生の名前も、そういえばあたしだって知らない、ということに今更有美は気づいた。
「私タマゴサンドとチキンカツサンド!」
「何の宣言ですかそれ」
「は? あなたたち相手にサンドイッチの名前宣言して何になるのよ」
 あたしが訊いてるんでしょうが。
「タマゴサンドとチキンカツサンドとあとチョコレートドーナツを妾は所望する!」
 誰がワラワか。
「自分で買いに行けばいいじゃないですか」
「そんな暇ないわ!」
 学生相手にそれを言ってどうなるのか。
「いやいや、でも別にあたしとこの子は今から食堂行っちゃってもいいわけで」
「まだ調書取ってないからそっちの鼻血はダメ!」
「『調書』って何の取り調べよ!」
「『鼻血』呼ばわりは酷いです先生‥‥‥」
 突っ込みどころがありすぎる。
「ほらどーすんの? 見捨てて自分ひとりだけ食堂行っちゃおうっての?」
「こンのやろー‥‥‥」
 傍らの女の子の顔には『見捨ててください』と極太ゴシック体で書いてあるのだが、
「ああもう、ええいわかった! レタスサンドとハムサンドとあと何でしたっけ?」
 本当は有美が優しいのか、あるいはそこまでが職員の作戦のうちなのか。
 真偽の程はわからないが、ともかくも、結局有美は昼食の買い出しを仰せつかることにしたようだ。
「ほらもう間違ってるじゃないのよ! ちゃんと憶えなさい、タマゴサンドとチキンカツサンド! あとチョコレートドーナツとプチマドレーヌと」
「口で言わなくていいから何かメモ書いてください」
 このひと相手の口約束は危険だ。
 胸の中で有美の理性が頻りに囁く。
「えー、めんどくさー」
「見捨てるぞゴルァ!」
「‥‥‥はい」
 必要以上に敗北感たっぷりの背中を丸めて職員は机に向き直り、その辺の紙の裏に何か書きつけ始めた。
「で、こっちは?」
「はい?」
「何か要るものある? どうせ行くついでだから、何かあるなら買ってくるけど」
「鼻血吹いた人には優しいんだ‥‥‥」
 恨めしげな声が有美の耳に届く。
「怪我人に優しくして何が悪いのよ!」
 この人ホントに養護の先生なのだろうか。
 割と真面目に、有美はそこのところを疑問に思った。
「‥‥‥で、何か要る?」
「いえ。わたくしはお弁当ですから」
「あ、そうなんだ」
「はい。お気持ちだけいただきます、ということで」
 ふわっと人好きのする笑顔が有美に向けられた。
 ‥‥‥嗚呼。
 いま、これで、この子の鼻の片方にティッシュが詰められてさえいなければ。



「ふいー、ごちそうさまー。予は満足じゃー」
 職員はにこにこ笑いながら、机の脇に持ち帰ってきたゴミ箱に五枚目のビニール包装を放り込んだ。
「さっきは『妾』だったじゃないですか」
「別にどっちだっていいじゃないそんなの。両方口から出任せなんだから」
「うわとうとう開き直ったよ」
「‥‥‥ふふっ」
 傍らでは、ようやく詰め物がなくても困らなくなったらしい女の子が、いかにも女の子らしい、ちまっとした弁当箱に蓋をしながら、
「おかしいですね、おふたりとも」
 こちらもにこにこ笑いながら、ごくナチュラルに、何とても酷いことを言った。
「酷っ! あたしこんなテキトーじゃないでしょ!?」
「その言い草は酷くはないのかね小娘‥‥‥」
 有美と職員はぎっと睨み顔を見合わせる。
「こうなったら、健康診断の時のあなたの体重、五倍くらいに書き換えといてやろうかしら」
「うわ酷! っていうか、五倍は流石に人間の体重じゃなくなっちゃうでしょ!」
「そうよ。だから感謝しなさい、一・三五倍とかそういう微妙にリアルな数値じゃないことに!」
「どこまで腹黒いんだこのひと‥‥‥」
 頭を抱える有美の前に、
「というワケで、調書を取りましょう」
 机上の引き出しから引っ張り出した紙を差し出す。
「今の話の流れで、あたしが素直に協力するとでも?」
「細かいこと言わない。パン奢ってあげたじゃない」
「う‥‥‥」
「何だったらお茶も淹れちゃう。この保健室の主たる私が、粗茶なんかじゃないとこ見せてやるわ」
「‥‥‥やっぱり、さっきの聞こえてたんですね」
「聞こえてるに決まってるじゃない。こんな小さい保健室なんだからさ」
 故にコーヒーを吹いた、ということであるらしい。
「まずは見てわかるとこだけでいいからさ、それ埋めてみて。その間に、あなたたちの分もお茶淹れとくから」
「はあ」
 言うだけ言ってすたすた去っていく背中から、手元の紙に視線を戻す。
「‥‥‥何これ?」
「あれ、本当に『供述調書』って書いてありますね」
「どこまで本気なんだろこの保健室」
「でも、まあ、書かないというわけにも」
「や、だって、『供述』って口で言うことでしょ? 聞き書きするのは刑事さんの仕事でしょ? 事情聴取されてる人が自分で調書を筆記するのって変じゃない?」
「お詳しいんですね。どこで勉強されたんですか?」
「お詳しいですねっていうか‥‥‥そのくらい字面でわかるじゃん大体。国文でしょ?」
「え、わたくしの学科をご存知なんですか?」
「いや『ご存知』っていうかさ」
 結局ふたりが出席しそびれた二限の講義は『古典文法概論』。国文科一回生専用の必修なのだから、受講しているのは国文科の一回生に決まっていた。
「あんたとセンセの方がいいコンビじゃないの‥‥‥」
 どこまでボケでどこから天然なんだか、さっぱりわからないところがよく似ている、と有美は思う。
 ‥‥‥そう、例えばこの『供述調書』だ。
「外傷の部位は鼻でしょ、詳細は鼻血」
「処置の欄は‥‥‥うーん、ティッシュを丸めて詰めました、っていうのは『処置』なんでしょうか」
「他に何もしてないんだからそれでいいでしょ。ティッシュを、丸めて、詰めました、っと」
「あとは、加害者と、被害者ですか」
「まあ被害者はそっちでしょ。問題はあたしが加害者なのか被害者なのかっていう」
 ぶつかったのも、結果人体にダメージがあったのも、衝突してきた女の子。
 有美はただ立っていて、背後から衝突されただけだ。
「あーそれはね」
 ちょうど戻ってきた職員が、事務机の隅に陣取ったふたりの真後ろに立つ。
「自損事故だから、鼻血吹いた人の名前を被害者と加害者んとこに書いて。あなたの名前は凶器んとこに」
「凶器かい!」
「あらあら。凶器さんだったんですか?」
「その質問が回答として何を想定してるのか、先に教えといてくれると助かる‥‥‥」
 なんだこの珍問答。
 再び、有美は頭を抱える。



「どれどれ」
 背後から白衣の袖が伸びて、湯呑みをふたつ置いた代わりに、供述調書を摘み上げていく。
「えー、被害者の氏名が」
 西園寺妙子。
「さいおんじ、みょーこ、と。んで凶器」
「‥‥‥ええと、先生、『たえこ』です。『みょーこ』じゃありません」
「凶器がー」
 女の子は困り顔で指摘するが、無論というか、それが聞き入れられそうな様子はない。
「んー‥‥‥難しいわね」
 堀之内有美。
「『ほりのうち・ゆみ』でしょ。何が難しいのかと」
「『ほりのうち・あるみ』と。読みづらいわねー、ちゃんと振り仮名振っとかないとねー」
 背後でかさかさと物音。ひょっとしたら、そのふざけた振り仮名を本当に書き込んでいるのかも知れない。
「いや、だから、別にそこでオモシロ追求する必要とかないでしょ!」
「あら。アルミさん、って可愛いお名前なんですね」
「あんた今の話聞いてなかったのか!?」
「まあまあ。もう細かいことはいいじゃないですかアルミさん。‥‥‥アルミさん。アルミさん。ふふっ」
「ちょ、何なのよその、語感がちょっと気に入っちいましたーみたいな顔‥‥‥んなこと言ってると、あんたのことも『みょーこ』って呼ぶわよ?」
「えー?」
「えー、じゃないわっ! みょーこよみょーこ! あんたなんか、みょ・お・こっ!」
「えええ‥‥‥」
「ふふっ。仲良きことは美しきかな」
「全体的にあんたのせいでしょアホ職員っ!」
 振り返りざま、有美必殺の右肘を一閃。
「わっ、ちょっと、危ないじゃないの!」
 白衣の胸元を掠めた肘先が、うっかり手放された供述調書を弾き飛ばす。
「やり直しよやり直し! 大体『供述調書』って何!」
「まあまあ。せっかく淹れてくださったんですから、お茶でも飲んで落ち着きましょうアルミさん」
「だからなに気に入ってんのよみょーこ!」



 言い募る有美の勢いなどどこ吹く風、といった風で。
「‥‥‥ん」
 職員が淹れてきたお茶を口に含んで。
 数秒、物思いに耽るように目を閉じて。
 おもむろに、ふ、と小さく息を吐いて。
「やっぱり、粗茶ですねえ」
 あの、ちょっと困ったような顔で、妙子はまた笑った。

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