すっきりと晴れて雲ひとつない筈の夜空には、月の他にひとつの星もない。
そうして、ただひとつそこにある、血に濡れた赤い満月から‥‥‥頻りに零れ、跳ね回る赤黒い雫のように、無数の蝙蝠は見る間に宵闇を汚していく。
居もしない狼の遠吠えがビルの谷間に木霊する。
‥‥‥夜が、ざわめいていた。
この世ならぬものどもが百年も待ちわびた、王の眷族の帰還が果たされようとしているからだ。
「結局、こうなったか」
立ち食い蕎麦屋の暖簾越しに交差点の真ん中を見やって、男はぼそりと呟いた。
彼は自らを『特殊な悪魔祓い』と称したが、悪魔祓いというよりはバイカーと言われた方がしっくりくる風体だ。革のジャケットにジーンズ、拍車のついたブーツ、革手袋、サングラスまで黒。その風体のどこにも‥‥‥例えば、十字架をモチーフとしたような意匠はない。
「ならないと困るでしょ」
背中に声を掛けたのは、奥の厨房から姿を現した女だ。
「こんな往来に棺を引っ張り出すような真似までして、何も起きなかったら何て言い訳するつもりよ」
右手に数枚、『ダスキン』と書かれた黄色い布を掴んでいる。左手にあるのは大量の油揚げが盛られたバットだ。修道女然とした装いに似合わないことこの上ない。
「何も起きないに越したことはなかろう」
「あんたいい加減‥‥‥ゲンダイシャカイってものを理解しようとしなさいよね。タダじゃないのよ何もかも。私たちの生まれ育ったあの時代のワラキアとは違うの」
「それもこれも生命あっての物種だろう。冥府に持ち込める富なぞない。ゲンダイシャカイにおいても、だ」
「本当にそう思ってるならあんなもの往来に出さない。あんたの方がよっぽど脅威じゃないの」
ふん。つまらなそうに男は鼻で息を吐く。
明滅する信号の合図とは無関係に、数刻前から、その交差点の車や人の行き来はまったく途絶えている。
蓋が閉じたままの棺から渾々と沸き立つ瘴気は、視える者には街を覆わんばかりに立ち籠める霧のように認識されるのだろうが、今、そのようであることを解する者は、今この場には立ち食い蕎麦屋のふたりしかいない。
だが、視えないとしても、陽の元に生けるものの根源的な危機意識には障るのだろう。
この国の警察機構によって周辺が封鎖されているものの、突破できないほどの強固なものでもない。普段であればこれほど綺麗に無人にもならないであろう。しかし実際、今は人っ子ひとりいない。
それは、そこに‥‥‥スクランブル交差点のど真ん中に、木製の巨大な棺が置かれていることを、通行したい人々が皆知っているから、ではない筈だった。
ばさばさと、際限なく増幅を続ける蝙蝠の羽音が、耳に痛いほどになった頃。
棺桶の蝶番が、きい、と錆びた鳴き声をあげたのが、羽音にも遠吠えにも掻き消されることなく、蕎麦屋の中から様子を窺う男女の耳にも確かに届いた。
「起きたな」
古くからの言い伝え通り、百年を経て復活を果たした悪心の神の眷族は、
『ぬうっ! これは何としたことか!』
まず、踏み降ろした足の下に描かれた、横断歩道の白い塗料にぶすぶすと足の裏を焼かれ、慌てて棺桶の中に足を戻した。
「呆れた‥‥‥まさか本当に効くだなんて」
肩を竦めた女の手から黄色い布を奪い取り、うち一枚の中に包んだ手近な丼を重石として、男はそれをぐるぐると振り回し始める。
「楽な仕事で助かるな」
次にはそれを‥‥‥振り回した黄色い布から手を離すと、それは一直線に棺桶の男の頭をめがけて飛翔し、
『ぎゃあああああああ!!』
こめかみを痛打するなり、まるでそこに太陽が現出したかのような、強烈な閃光を放っ
*
のところまで読んで、彼女は大仰に溜め息を吐いた。
「まさかとは思いますが、この後‥‥‥」
疲れた様子で眉間を揉み、ぱきぱき肩を鳴らしながら腕を回す。たった今まで手に持っていた薄っぺらい本は、その勢いで空を飛び、ばさりと床に放り出された。
「流石にもう、洒落や冗談では済まされないのです」
ソファから腰を上げ、落ちた本に歩み寄ると。
「こんな本があるから」
スリッパの底でべたんとそれを踏んづけ‥‥‥てやろうとして、
「ま‥‥‥まあ、それは勘弁してやるとしても」
何秒かの躊躇の末、本当に踏みつけることはせずに、持ち上げた足をそっと元の位置に戻し、
「いずれ貴方にも、不死者の苦悩を知らしめるのです」
床に伏せられた薄っぺらい本の表紙を‥‥‥その中に描かれていた満月のような、真っ赤な瞳で睨み据えた。
▽
十一時にイベントが開場になってから、既に小一時間が経過していた。
今回も僕はサークル机の内側に陣取って、さほど人通りのない往来をぼーっと眺めている。‥‥‥二次創作中心でやっているウチのサークルと『一次創作オンリー』というイベントのポリシーが相容れないため、ここのイベントにはそんなに熱心に参加しているわけでもなかったのだが、まあ何だかんだあって、年に一回、五月の開催時には僕もサークルを出す、ということを数年続けてみてはいる。
そう決めてから何年経ったんだっけ、とかについて思い出そうとしたが、もうその辺の記憶は定かでない。
大体‥‥‥『自主製作漫画誌展示即売会』なんだそうである。まあそのことも、あまり積極的に参加しようと考えなかった理由のうちにはあった。
つまり僕はマンガどころか絵も描けないし、ウチの売り物も『漫画誌』ではなく文章の本なんだが、ここのイベント的に、これって反則だったりしないんだろうか。
「反則、か」
机上、往来の側に向けて三つ作られた在庫の山のうち、内側から見て左側から、いちばん上の一部を手に取る。この山の本は昨日刷り上がったばかりだ。
表紙も含めて二十ページくらいの、A5判の薄っぺらいコピー本が、机上に三種類。ちなみに、すべての山の表紙用紙がやたら赤黒いのは内容が吸血鬼モノだからで、真ん中と左の表紙にそれぞれ『2』『3』と書かれているのは、一応、三冊続いているシリーズですよ、という態にしてあるからだ。
「間が空きすぎるのも反則っちゃ反則だよね」
年に一度しか参加しないイベントのための新刊を三度読むには三年掛かる。つまり、少なくとも過去二年は、僕はこのイベントにサークル参加していたことになる。
「こんなのを二年も待ってる人っているのかな」
ぱらぱらと本を捲りながらひとりごちる。誰も聞いていないようなことを口に出してもごもご呟いているのは、要するに、暇だからだ。
それはさておき。
「まあ、いるにはいるのかも知れんけど」
一次創作のイベントに普段のウチのお客さんはいないので、大体、作った在庫のほとんどを、通り掛かった友人知人にばんばんバラ撒いて終わりにしちゃうのが通例なのだが、それでも一応、何か出す都度、一冊二冊くらいは見知らぬ人の手にも渡っている。毎度の売り上げはきちんと記録しているのでそこは間違いない。
「ごめんください」
‥‥‥そう、例えば、やや伏し目がちに肩を縮こまらせ、何か困ったような顔をして机の向こう側に立った、この女性は過去に何度か見掛けたような気がする。
歳は幾つくらいなのだろう。大人だといわれればそんな気もするし、でも学校の生徒ですといわれても特に違和感ないし、どこか掴みどころのない印象の女性だ。
誂えもののように丈の合ったワンピースの、臙脂というのか蘇芳というのか、抑えに抑えた暗めの赤がまた、年齢不詳な感じに拍車を掛ける。
まあ、こういう渋い色を殊更選びたがる人の年齢を若い方に外すっていうのは珍しいだろうから、素直に考えれば相応の年齢なのだろうけど‥‥‥でもこういうの、親御さんの趣味っていうこともあり得るかもだし、
「あの、すみません、わたくしが何か?」
そこまで考えたところで唐突に思い出す。
そういえば僕、サークルの中の人として、ちゃんと応対しないといけないんじゃないのだろうか?
「あ、いやごめんなさい何でもありません。ウチにお客さん来るとか珍しいので、つい」
「はあ‥‥‥」
伏し目がちな姿勢のまま、何か不審なものを見るように、彼女は僕を睨めつけた。
その瞳の奥に、不自然に赤みがかった光を視たような気もしないではなかったけど、今はそんな勘違いに気をとられている場合ではなかった。
なにしろ、このサークルには僕しかいないのである。その僕がこんな風に呆けたままでいる間ずっと、事実上サークルも一緒にお留守になってしまう。
そういうのは、多分、あまりよくない事態であろう。
「いや本当に何でもありません」
結果、慌てて取り繕わざるを得ない。
「それならよいのですが‥‥‥あの、失礼ですが、こちらのサークルの方でしょうか?」
「あ、はい」
椅子に座っているのは僕だけなので、間違いようのないシチュエーションではあると思うけど。
「これらの本を作っていらっしゃるのは貴方おひとり、ということですか?」
「そうですね」
いやまあ、誰かの表紙絵とかも時々は欲しいけど。
「そうですか‥‥‥実は、相談がありまして」
いつの間にか手に取っていたらしい新刊を山に戻し、
「これと、これと、これを、全部」
こっちから見ると左から順に、三つある山のそれぞれを一度ずつ指差した。
「全部ですか?」
「はい。よろしいでしょうか?」
「大丈夫ですよ」
元より、それは全部売り物である。
問題などあろう筈もない。
「ええと一冊百円なので三種類だから三百え」
「あの、すみません。そういうことではないのです」
だが彼女はそこで、山の上から一冊ずつ取り上げていく僕の手を掴んで押さえると、
「全部です。この机の上にある本を、机の上にあるだけ全部。下の箱にも入っているなら、それも含めて全部」
何だか突拍子もないことを宣ったのだった。
「え、全部って、そういう意味の全部ですか?」
再度、僕は呆気にとられた。
その『相談』は流石に想像の範囲外だった。
「はい」
まったく躊躇なく、目の前の女性は頷く。
「何でまたそんな。いっぱいあるように見えるかも知れませんけど、これ全部で三種類だけですよ? 三冊持って帰っていただければ内容は」
「それではダメなのです」
「ダメ、といいますと?」
「その‥‥‥ダメ、なのです」
今度は答えづらそうな感じに、彼女は目を伏せる。
「つまり、いっぱい持っといて仲間内に配るだとか、誰か友達に読んでもらいたいみたいな、僕に伝えやすい理由じゃないってことなんですね」
「う、っ」
気まずげに顔を歪める。図星らしい。
「それはまあ、そもそも売り物なんで別に構わないんですけど‥‥‥ええとその場合、ウチの通例に則ると、完売した本の原稿は全部ウェブサイトにアップすることになりますけど、それは」
「え、そんな! だって、この本もこの本も、今までに一度完売している筈ですのに、サイトにはまだ!」
泣きそうな顔で、右の山と真ん中の山を指差した。
しかし何というか‥‥‥完売した本の原稿はウェブサイトに上げるようにしてる、ってことまで把握してるとか、よく予習してんなあこの人。
「そうですけど、最初から全部で三巻にする予定だったので、これは三巻が品切れになったら纏めてアップにしようと思ってたんです」
実際そうなのだった。
確かどっかにそういう注釈も入れといた筈で‥‥‥だからまあ、このシリーズはあと何年か、本のまま転がしておくんだろうなあと思ってたんだけど。
「んで今、全部欲しいと仰いましたので、まあこれで、三巻だけでなく、一巻も二巻も完ば」
「‥‥‥困るのです」
僕の言葉に被せるように、今度はそんなことを言う。
やっぱりそうか、と僕は思う。
「困る、ということは」
多分、逆だ。
この人は、好きだから欲しいんじゃない。むしろ。
「この本の内容が、誰かの目に触れては困る、という意味なんですね?」
問われて彼女は唇を噛み、申し訳なさそうにぐっと目を伏せて、
「‥‥‥はい。そう、なのです」
ごく僅かに頷きながら、蚊の鳴くような声で答えた。
▽
一応事情は知りたいので、女性を机のこっち側に呼び込むことにした。
今、女性は僕の隣でパイプ椅子に腰掛けている。使うアテもないまま毎度買うだけ買ってあった追加椅子が、今回に限っては珍しく仕事をしている格好だ。
「いきなり、こういうことを言うのも何なのですが」
僕が自分で飲む用に買っておいた緑茶のペットボトルを一息に飲み干して、
「あの‥‥‥吸血鬼は、実在すると思いますか?」
彼女が切り出した話は、最初から突飛だった。
「いや、しないと思います」
「ですよね‥‥‥」
また沈黙。
どうしろというのだこの状況を。
‥‥‥と。
「吸血鬼は、困っているのです」
意を決したように、彼女がこちらを向いた。
「『吸血鬼は』、ですか?」
まるで彼女が吸血鬼であるかのような物言いだった。
「はい」
決然と頷く。
「元々あんな風に弱々しい生物ではなかった筈なのに、吸血鬼を取り上げた創作物が増える度、おかしな弱点が増えていく状況に、です」
「弱点が、増える?」
「例えば‥‥‥そうですね、銀が苦手、ですとか」
「え? そうなの!?」
吸血鬼は最初からそういう感じなのかと思っていたのだが、違ったのだろうか。
「銀は銀です。他と同じ、ただの鉱物です。殊更銀だけを苦手にしなければいけない理由はなかったのです」
当たり前のことを言うように彼女はそう言った。
「大体、ヨーロッパのお城に住んでいた吸血鬼は、人と同様、銀の器で食事をしたりもしていたのです。でも、元から苦手であれば、そんな生活はしないのです」
「いや‥‥‥吸血鬼って、食事もするんですか?」
「血だけを吸って生きている、というのも、吸血鬼に纏わる大きな誤解のひとつです」
彼女はひとつ息を吐いた。
「亡くなって以後、何かの理由で吸血鬼になった者は、要するに死体ですから食事はしません。でも、元からそのように生まれついた者は、それはそういう生物ですから、普通の生物に必要なことは一通り必要です。栄養のバランスも大切ですし。‥‥‥というより、むしろ」
小声でぼそぼそ呟きながら、小さく肩を竦める。
「死んでもいないのに血を吸う必要などないのです」
「‥‥‥それは、ええと」
思ったよりも根本的な問題らしい。
「しかし今、いわゆる吸血鬼は銀で滅ぼされますし、食事は血液で代替されます。そうなってしまったのです」
どうやら『吸血鬼とは何か』レベルの話のようだ。
ところで‥‥‥なんで僕は、気まぐれで参加した同人誌即売会の自サークルで、吸血鬼の成り立ちについてとかの講釈を受けているのだろうか。
何というかこう、全体的に、何がどうしてこうなってるんだかよくわからなくなってきたんだけど、
「それで、それとその本にどういう」
机上の山を指差して、話を本筋に戻してみる。
「一巻と二巻、読ませていただきました。あ、正確にいうと、二巻の途中までです」
同じ机上の山を、彼女は忌々しげに一瞥し、
「先程も言いましたが‥‥‥世の吸血鬼は皆、大変困った状況にあるのです。それだというのに」
それから、きっ、と僕の顔を睨んだ。
「ダスキン投げつければ爆発するだの、横断歩道の白いところを踏ませると燃えるだの、油揚げ食べたら死ぬだの、もうそういうのはいい加減にして欲しいのです!」
「いや待ってください、油揚げは」
一応訂正を試みるが、
「横断歩道が普通に歩けないのも、お掃除にダスキンが使えないのも困ります。でもそれより何より」
まったく聞いてもらえなかった。
「わたくし、きつねうどんが大好きだったのです! なのにあんな風に物語に油揚げを持ち出されては、もう恐くて食べられないのです! 返してください、わたくしのきつねうどん! 返して!」
のみならず、パイプ椅子から半ば腰を浮かせて、彼女は猛烈な抗議を続ける。
あまりの剣幕に、周辺のサークルや通路の人たちの耳目が集まってしまっているのがわかる。‥‥‥もしかして今、相当悪いひとに見えてるんじゃないだろうか、僕。
「落ち着いて。落ち着いてください。ね?」
「これが落ち着いて」
「目立ってますよ。いいんですか?」
彼女にだけ聞こえるように注意を促す。
「‥‥‥あ、っ!」
言われて左右を見回し‥‥‥途端、真っ赤に染まった顔と縮こまった身体をパイプ椅子にすとんと降ろした。
*
「楽な仕事で助かるな」
次にはそれを‥‥‥振り回した黄色い布から手を離すと、それは一直線に棺桶の男の頭をめがけて飛翔し、
『ぎゃあああああああ!!』
こめかみを痛打するなり、まるでそこに太陽が現出したかのような、強烈な閃光を放った。
数秒続いたその閃光が消えるのを見届けてから。
二枚目、三枚目の黄色い布をジャケットのポケットにねじ込むと、男は蕎麦屋から交差点へ出ようとして、
「この国の『教会』は至れり尽くせりだな」
傍らに置いてあった油揚げのバットを持ち上げ、角に直接口をつけて煮汁をずずっと啜り、
「ねえ。それは本当に、ただ好物だというだけなの?」
「この店を拠点に選んだ理由のひとつだ」
次いで、空いた手で五枚ばかり纏めて摘んだ油揚げを口に放り込んだ。
「はあ‥‥‥ま、いいわ。とにかく眷族を滅ぼしてもらえるのなら、他のことには関知しないけれど」
修道女はさっきから呆れた顔しかしていない。
*
といったことを、僕は二巻の終盤に書いた筈だった。
念のため、目の前に積んであった現物を軽く見返してみたが、やっぱり間違ってはいなかった。
「経緯がそういうことなら、『読めばわかります』なんて言ってもしょうがないですから言いませんけど、油揚げは悪魔祓いの方の好物です。別に吸血鬼が食べたら死ぬようには書いてません」
「ほ‥‥‥本当、ですか?」
彼女はさっきから疑わしそうな顔しかしていない。
「疑惑の時点で既にダメ、とかいうことでないなら、問題はない筈だと思いますけど」
「いえ、信じます。信じるのです」
疑惑の眼差しは相変わらずだが、分量が若干目減りした感もなくはない。‥‥‥のはいいとして、
「信じないことには、わたくしのきつねうどんが」
どんだけきつねうどん好きなんだろうこのひと。
「それはそれとして、質問なんですが」
「はい?」
二本目のペットボトルから口を離して、彼女はこちらを向いた。‥‥‥持ってきた飲み物はこれで全部なんだが、これから僕が飲む分はどうしたもんだろう。
「吸血鬼の弱点が、フィクションに引っ張られて増えていく、っていうのが問題なんですよね?」
「ええ」
「それがよくわかんないんですが‥‥‥んー、例えば、人間は実は油揚げが弱点だった、っていうフィクションを誰かが作ったとして、そ」
「あの、すみません」
小さく右手を挙げて、彼女が話を遮った。
「できましたら、そういう例に油揚げを出すのは止めていただけると助かるのです」
‥‥‥どんだけきつねうどん好きなんだろうこのひと。
「んー。じゃあ、何か嫌いな食べ物あります?」
「そうですね‥‥‥トマトジュースはあまり」
するとやっぱり、血の代わりにトマトジュース飲んで云々っていうのも、実効なかったりするんだろうか。
「んじゃ改めて。人間がトマトジュースに弱いって話がどんなに世間で大ヒットしても、だからって人間がトマトジュース飲んで死ぬようにはならないと思うんですけど、吸血鬼はなんでダメなんですか?」
「それはですね。吸血鬼は‥‥‥そうですね、人間よりは精神生命体に近い生き物、と言えばいいでしょうか。精神の有り様が肉体に及ぼす影響が大きいのです」
ふ、とひとつ息を吐く。
「例えば銀は、それが弱点であることをそもそも知らないか、あるいは、改めて弱点でないことを知り直した吸血鬼は問題にしません。他の鉱物と一緒です。ですが、『もしかして、それは弱点なのではないか?』という疑念を抱いている吸血鬼に対しては、実際そのように作用してしまう可能性がある、のです」
「え、影響されやすいんですね」
弱点がどうこう他人に言うより、その思い込みの強すぎる性格の方を何とかした方がいいのでは‥‥‥。
と。
「今、『弱点がどうこう他人に言うより、その思い込みの強すぎる性格の方を何とかした方がいいのでは』、とか思いませんでしたか?」
なんと彼女は、僕の心の中にしかなかった筈の言葉をそのまま読み上げてみせた。
「な‥‥‥なんでわかったんですか!?」
「いえ、わかりません」
ペットボトルから緑茶をもう一口。
「でも皆さん、同じようなことを仰るものですから」
それはそうだろうって気もした。よく考えてみたら、こんなことに多彩な感想とかはあんまりないだろう。
「それに、人間というのはとにかく吸血鬼を滅ぼしたい種族ですから‥‥‥元々、土地土地の『吸血鬼』は最初からすべて『吸血鬼』という種族だったわけではないのですが、そういう目線からの情報の整理・統合が進んでいった結果、例えばキリスト教の国でない場所においても、吸血鬼とみれば取り敢えず十字架を突きつけてみるようになります」
それに関しては、思い当たる節は自分自身にもある。
そこに積んである本の中で僕が使った『教会』も、古来から日本にあった組織ではない。悪魔祓いも修道女も、問題解決のために別の国から招聘された連中、ということにしている。‥‥‥多分、こういうのが、『吸血鬼とみれば取り敢えず十字架を突きつけてみる』という行動なんだろうな、と今はわかる。つまり。
「本当は自分と何にも関係ないようなキリスト教様式の悪魔祓いが、もしかしたら自分にも効いてしまうのではないか、と勘繰る吸血鬼が?」
あるいは‥‥‥ダスキン投げつければ爆発する、とか。
横断歩道の白いところを踏ませると燃える、とか。
油揚げ食べたら死ぬ、とか。
そういう与太話を真に受けてしまう吸血鬼が。
「現れるのです。残念ながら。‥‥‥そうしたことが繰り返されるうちに、本当に弱点が増えて行ってしまう、というフィードバックが起きるのです」
ここに至ってようやく、彼女の問題が何であるのか、僕は概ね理解した。‥‥‥と、思う。
「さらに悪いことに、そのフィードバックの速度は、人間の技術革新と共に上がっていきます」
その上、彼女の話にはまだ続きがあった。
「そもそもは、土地ごとの俗説でしかなかったのに」
印刷技術によって複製され。
大航海時代に海を渡り。
大戦に前後して空を渡り。
あるいは電波、放送‥‥‥徒歩の距離感で『世間』が完結していた頃には、直接行き合える人たちの間でしか流通しなかった情報が、ありとあらゆる技術をもって、際限なく交換され、変質を繰り返し、普遍化する。
そうしたことの中から、吸血鬼に関する情報だけが抜け落ちている、などということは起こり得ない。
「そして、そのとどめがインターネットです」
「ああ‥‥‥」
この原稿をアップしたウチのサイトを誰が見るか、ということではなく‥‥‥ウェブのどこかに存在する、誰かの目に触れる可能性がある、という事実そのものが問題なのだろう。時間と距離の概念を超越する速度を、普通の人が普通に手に入れた時代においては、何からどこに火が点くかなど誰にもわからないのだし。
「だからウェブサイトは不味い、と」
「わたくしの財力など些少ですが、それでも、今あるこの本を買い切るくらいはできます。もう複製を作らないと貴方が約束してくださるなら、絶滅させることも」
「いや絶滅て」
一応、こう、頑張って作ってるんだけどなあ。
絶滅目的で在庫が捌けるっていうのは、個人的には、あんまり嬉しいことではないというか‥‥‥。
「あ‥‥‥。あ、あの、申し訳ありません。これを作られた方のお気持ちとして、わたくしの言い分が嬉しくないのは、その、承知はしているつもりなのです」
もしかして、顔に出ていたのだろうか。
とても申し訳なさそうに眉根を寄せて、彼女は小さく頭を下げた。
「ですが本当に、吸血鬼にとっては死活問題になりかねないのです。ましてウェブは‥‥‥ウェブに上がってしまった情報をすべて買い切るなんて、どんな富豪にも絶対にできないことなのです」
▽
「ええと、あとひとつ、わかんないことがありまして」
「‥‥‥はい」
そう問われて、彼女は居ずまいを正した。
いちばん大事なことがまだ明らかでない、ということを、当然、彼女もわかっているのだろう。
「つまり、今までのわたくしが、どの立ち位置でものを言っていたのか、ということですよね」
「そうなりますね。何かあります?」
「んー。考えてはいるのですが」
始めてみたら話自体が存外おもしろかったから、そういう大事なことの確認もなしに、ここまで話に乗ってみたんだけど‥‥‥そもそも『吸血鬼が困っている』というのが彼女の脳内だけのできごとなら、現実において僕が何かを遠慮する必要はない筈だ。
彼女は単に中二病を拗らせただけのひとなのか。
あるいは、彼女自身が本当に吸血鬼なのか。
一応、ここまでの話の流れに真面目に向き合ってきたからには‥‥‥『僕が』どうするか、ということは、そこを抜きに決められることではない。
「どのように、わかっていただけばよいのか」
さっきから彼女は何か考え込んでいて‥‥‥こっちはこっちで、今までの彼女の態度を思い出している。
それが事実として荒唐無稽であることを一旦脇に置けば、どちらであるかは自ずと明らか、ではある。『全部与太話でした』と種明かしすればオチがつくようなことのために、あんなに必死で言い募る必要は、彼女にだってないと思うからだ。
‥‥‥大好物のきつねうどんが永遠に取り上げられてしまうかも知れない、ということに対する危機感は、あれは相当本気っぽかったように思われた。
もし、それもこれも全部が演技なのだとしたら、ただ単に事実を語ってああいう風になることより、演技であれをやることの方がよっぱど高度な芸ではなかろうか。
となれば、彼女が言いたいことは既にわかっている。
あとは。
彼女がこれから、証明にどういう式を持ち出すか。
持ち出された式で、僕が納得する気になるかどうか。
「そうですね‥‥‥ええと」
何か考えが纏まったのか、首を捻っていた彼女がこちらに向き直った。
「『アルビノ』についてはご存知ですか?」
「概念は知ってます。見たことはないです」
先天性白子、といったろうか。
体内で色素が作れない遺伝病で、全体的に身体が真っ白い、という‥‥‥まあ、そのくらいの知識しかない。
「ご覧になってはいませんか‥‥‥実はわたくし、別にアルビノではないのですが」
「はあ」
まあ、そうだろう。
言いながら彼女が差し出してみせた両手のひらは、ごく健康的な、また一般的な肌色で、自分の目で見ている感じからは、そういう種類の特殊さは感じ取れない。
「そうしますと、ですね」
次には、その両手を顔のところにやって‥‥‥向かって右の目のあたりで何かしているのはわかる。
「‥‥‥え」
次に顔を上げた時には、片目だけ瞳が真っ赤だった。
「アルビノ以外の理由で目の色がこのようになることは、まあ、あまりないことだと思うのです」
何をしたのかはすぐにわかった。
「で、いま外したのがこちらで」
摘んでいるのは濃いブラウンのカラーコンタクトで、
「ん‥‥‥っと、こちらが元々の状態です」
再び目のところでごそごそ何かやって、両目の色がブラウンに戻ると同時に、手の中からは何もなくなる。
瞳の色が変わった理由が『赤いカラーコンタクトを填めたから』なら、今、その手の中には赤いコンタクトが残っている筈だ。つまり、そういうことではない。
「『目が赤い』というのも、フィクションの多くでいわれる特徴の中にありますよね、確か」
そんなことを言って、彼女は笑った。
‥‥‥思えば僕は、笑っている彼女を初めて見たんだけど、だから、ということばかりが理由なのではなく。
「わかりました。信じることにします」
「わかっていただけましたか」
「それで、この後はどうしましょうか」
「え? この、後?」
あのまま普通に悪魔祓いの話を云々しているより、目の前にある事実の方が明らかに楽しそうだったから、
「いや、だって、状況を悪化させる力がフィクションにあるなら、同じ理屈で改善できることだってあるんじゃないんですか? なら、不味いものの芽を摘むばっかりじゃなく、よりよくできるものを世に出していくことも一緒に考えた方がいいんじゃないですか、っていう」
「あ‥‥‥っ! そうです、その手がありました!」
僕は、話をさらに続けてみることにしたのだった。
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