屋上で会いましょう。  


  

 屋上の手摺りの、あまり錆びていないところに凭れ掛かって、すぐ下の大通りを眺めている。
 首元の赤いリボンがゆらゆらと風に靡く。
 もう夕日は沈んだろうか。居並ぶビルに隠れて、そこからでは地平線は見えない。
 だんだん景色も薄暗くなってきてはいるものの、ライトを点けたり点けなかったり、眼下を走り抜ける車の振る舞いにはまだばらつきがある。
「ゴールデンなのは社会人だけだよねえ」
 普段と比べれば明らかに流量の少ない道路に向かって、日向子はぼそっと呟いた。
 四月の三十日。五月の一日と二日。
 週休二日のサラリーマンがこの三日間を有給休暇にすると、今年の場合は十連休になるんだそうだ。‥‥‥という話は方々でよく聞くが、高校生はカレンダーの通りなので、印字が赤くない日は登校する日であり、故に、高校三年生である篠宮日向子は今日もこの屋上にいる。
 かち。かち。かち。かち。かち。かち。かち。かち。
 放り出された鞄の脇で、動かしっ放しの電子式メトロノームの音はまだ鳴り続けている。
 それは、街の真ん中でギリギリと巻かれ、撓みに撓んだゼンマイが、少しずつ弾けて戻る音のようにも聴こえて‥‥‥そういう音のようにも聴こえる、ということが、日向子は前から気に入っていた。



『全日制の生徒は下校してください。半からは定時制の生徒が登校します。繰り返します、全日制の生徒は』
 用務員室からの全校放送が下校を促す頃、
「いいじゃんいいんちょー。五分だけ。五分だけだから。ね? 見逃してよー」
「いいワケないでしょう。すぐに完全下校の時刻です。下校してください」
 加枝は三階の廊下を行ったり来たりしながら、こんな時間に屋上へ向かおうとする生徒たちを追い払い、下校させる作業を続けている。
「ケチー」
 赤いリボンを結んだ少女たちは食い下がったが、対峙する相手の、学年を表現するリボンの色が青であることを‥‥‥つまり、自分たちが上級生であること笠に着ようとしないのは、立派なことであったかも知れない。
「ケチとか何とかいう問題ではありません。それと私は副委員長です」
 無論加枝の方には、そんなことを理由に相手の言い分を容れるつもりなどさらさらない。
 ‥‥‥風紀の『いいんちょー』はそういう奴である、ということは、最早常識のようなこととして、学校中に知れ渡っている。忌々しいやら助かるやら。
「むー‥‥‥仕方ないか。今日のところは退却ーっ」
 それでも頑張ってみよううとはしたようだったが、加枝の剣幕に圧されたか、少女たちは結局踵を返し、階下へと向かっていった。
 こんな調子で、今日、この十数分の間だけで三グループばかりを校外へ追い返したが、これで全部かどうかはわからない。
「っとにもう」
 なんでこんなに話題になっちゃうのだろう。
 ‥‥‥息を吐いたのは溜め息のせいで、廊下の往復で息が上がったからだとは思いたくなかった。



「何よ肩で息なんか吐いて。トシなの?」
 まるで内心を見透かしたように、背後から急に聞こえた言葉に、
「なんで私が中村先輩にトシ呼ばわりされなきゃいけないんですか」
 そのように応じてしまってから、加枝は少し慌てた。
「あ‥‥‥っ、その」
 二年の野寺加枝よりも、三年の中村心子が年上であるのは当然だ。
 のみならず‥‥‥二年の時に体調を崩して半年登校できず、留年したため二年生を都合二度経験した心子は、現在二年の加枝よりふたつ上、他の三年よりもさらにひとつ上の世代にあたる。
 つまり、うっかり加枝が発したそれは、売り言葉に対する買い言葉としては最悪の部類だった。
 少なくとも加枝の方ではそう思っていた。
「気にすんな。って何度も言わすなめんどくさいから」
 だが、仏頂面をほんの僅かに緩めて、心子はひらひらと手を振ったに留まる。
 本当に気にしていないのかどうかはわからない。
 もしかしたら、こんなことが多すぎて、気にすることに疲れてしまったのかも知れない。
 ‥‥‥縮こまった加枝の肩をぽんと心子が叩いて、
「それよりそこちょっと通してくんない? 一服してきたいんだけど」
 それから、加枝の方に手の甲を向けた。
 伸ばされた人差し指と中指。
「私を風紀委員と知っての狼藉ですか」
 ふたつ年上の心子をきっと睨み据える加枝。
 最早そこに、先程のような気後れはない。
「やっぱダメ?」
「答えるまでもない筈です」
「そか。残念」
 自分で言い出した割には、ごくあっさりと矛を収める。本当に『一服してきたい』と思っていたのかどうかも、この様子ではよくわからない。
「それで何、今日は真面目ちゃんも屋上の幽霊見」
「何を益体もない」
 今度は言い終わるのを待たずに、加枝は心子の言葉を切り捨てた。
「いるワケないじゃないですかそんなもの」
「に‥‥‥ってことじゃないのか」
「何が幽霊ですかまったく」
 意地悪そうな光に彩られた心子の瞳から視線を外し、背後、昇る階段にちらりと目をやった。
 ここ、教室棟には、下から順に一年・二年・三年の普通教室が入っている。ふたりが今いる三階が最上階で、さらに上には、生徒は立ち入り禁止の屋上しかない。
「大体、もう完全下校の時刻です。中村先輩も校舎から出てください。すぐに定時の人たちが来ちゃいますよ」
「そりゃ大変だー」
 加枝と同じように昇る階段を一瞥して、
「だけどさ、別に休んでない筈だけど、今日ずっと見てないんだわ。あんたんとこの委員長殿」
 心子はぽつりと、そんなことを言った。
「もしかして、いるんじゃないの? まだ」
「え‥‥‥」
 苦虫を纏めて齧ったような顔を、加枝はさらに顰めた。




 現在、この高校において、正式に風紀委員会の委員長を仰せつかっているのは、篠宮日向子、という名の女生徒であるが‥‥‥何故か、彼女はしばしば、生徒は立ち入り禁止の屋上に寝転がっている。
 彼女の属する吹奏楽部の部室に用がある時を除けば、放課後は大体ずっと。
 時には受けるべき授業をすっぽかしてまでも。
 ところがテストの成績だけは毎度きっちり学年主席なので、教師としてもなかなか強くは言いづらく、手は掛からないが手を焼いている、らしい。
 『始末に負えない』とはこのことかも知れなかった。
 彼女が風紀委員長に就任した理由がそもそも、そうした普段の行状に対するペナルティとして、教師側から特別に押しつけられたから、であったという。
 この学校の諸委員会は十月に人員の更新が行われる。彼女が渋々委員長職を拝命したのは、二年生だった去年の十月のことだ。
 経緯はともかく、一旦彼女はそれを拝命し‥‥‥途端、『来期以降の予行演習』と称して、当時一年生の、珍しく自ら望んで風紀委員に名を連ねた女生徒に、職務のほとんどを丸投げしてしまった。
 その丸投げの相手が野寺加枝である。
 だから加枝は、正式な肩書きの上では風紀委員会の副委員長であり、同時に、当代委員長の全権代理人、という勝手なお墨付きに基づく『いいんちょー』である。
 どちらも正しいのだ。
 無論、生来の生真面目さを指して『絶滅危惧種』とすらいわれる加枝が、そんな話を承服する筈もない。
 が、加枝が承服しているかどうかなど、日向子にとってはどちらでもよいことであるらしい。
『このまま委員会やってれば、どっちみち似たような感じになるんだって。あたしのやる気のあるなしなんて、この話の成り行きとあんまし関係ないと思うよ、結局』
 そんなことを言って、日向子はけらけらと笑った。
 そんな日向子に馬鹿負けしたように、加枝はがっくりと項垂れた。
 それは、よく晴れた秋の日の、屋上の出来事であった。




 日向子はまだ屋上にいるかも知れない。
「‥‥‥まさか。いくら何でも」
 笑い飛ばそうとして、加枝はやや失敗した。ぎこちなく歪められた頬のあたりが引き攣る。
 委員長は、やりかねない。
 代わって心に去来するのはそういう疑念だ。
「しかも最近、屋上は幽霊の噂なんかもあるし」
 加枝の疑念に、心子が薄闇を注ぎ入れる。
「でも、でもですよ? 幽霊の噂については、一応私にも思うところがありまして」
「どんな」
「ですからその、幽霊の正体も委員長、という可能性が高いのではないかと」
 のべつ幕なしに屋上にいるのだから、そのように見間違われてもおかしいことはない。
「セーラー服だ、っていう証言のことは?」
 だがその説には、
「み‥‥‥見間違、い」
「やっぱちょっと弱いな。この、どう見てもブレザー以外の何物でもないこの紺ブレを、白のセーラーと見間違えるのは難しいでしょ」
 心子の指摘通り、目撃証言との整合にやや難がある、と言わざるを得なかった。
「いやでも、ほら、ブレザーは脱げば白のブラウス」
「だから、こんな普通のブラウスのどこをセーラーのカラーと見間違えんの? しかもご丁寧に紺のラインまで入った奴と」
「‥‥‥はう」



 日中の校舎内を駆け回っている噂の内容。
 階段前から加枝が追い返した生徒たちの言葉。
 幾つかのルートから得た情報を総合すると‥‥‥噂の幽霊は白のセーラー服姿で、屋上の縁、時には金網の外側を徘徊する姿が、何人かの生徒に目撃されている。
 黒髪も一緒ではあるものの、一緒なのは色だけのようだ。幽霊は肩まであるかないかくらいのショートヘア、という話も、ポニーテールを降ろしたら毛先が腰に届くかも知れない、委員長の長い髪とは似ても似つかない。
 『足がないように見えた』という情報も幾つかはあったが、それは、やや遠い地面から見上げているせいなのか、本当に足がないからそう見えたのか、実際のところは誰にも確認できていなかった。



「その幽霊と、あんたんとこの委員長殿が、今、そこに一緒にいるかも知れないわけだ。まあ個人的には、幽霊なんかどっちでも構わないんだけど」
 本当に興味なさそうに心子は言った。
「もし本当に、完全下校の時間を過ぎても委員長が屋上に残ってたりすれば、風紀委員会の不祥事、ってことにはなんないの?」
 確認するまでもなく、それは不祥事そのものである。
 しかも対象はよりによって風紀委員会の委員長だ。
 会長個人のイメージに引っ張られてか、一部生徒の間では『働いたら負ける会』などと陰口を叩かれることさえある風紀委員会にとって、これ以上のイメージダウンは組織の沽券にかかわる。
「‥‥‥あンの、スチャラカ委員長が‥‥‥ッ!」
 人が殺せそうな憎しみの籠もった視線が階段を射る。
 握られた拳からぎりぎりと音がしそうな勢いだ。
「うっわあ‥‥‥」
 思わず心子が半歩退いた。
「中村先輩はもう帰ってください。完全下校過ぎてますからね。‥‥‥本当に帰ってくださいよ!」
 言いっ放しのまま、加枝は屋上へ続く唯一の階段を駆け昇っていく。




 『立ち入り禁止』と書かれた看板を鉄扉の前からずらし、実は開きっ放しの南京錠を外した閂に引っ掛けて。
 ぎしぎしと軋みを上げさせながら、加枝は屋上に続く唯一の鉄扉を開ける。
 眼前に広がるものは、桜ヶ丘という街の名前の通り、丘に沿ってなだらかにうねる街を見渡すパノラマ。
 日暮れ前の澄み渡った青い空。
 ところどころが錆びかけた手摺り。
 それと。
「あれ?」
 自分が看板を退かして屋上に出たのだから、そこに先客がいる筈はなくて‥‥‥どうせまたここで昼寝でもしているに違いないと思っていた委員長は、今日は珍しく、ここには来ていないらしかった。
 その代わりに、いちばん向こうの手摺りに凭れかかって街の方を見ていたらしい、紺色のラインが入った白いセーラー服の背中があって。
「あらあら、ご機嫌よう。こんなところで他の方とお会いするなんて、奇遇ですねえ」
 その見慣れない背中は、やけにおっとりとそう言いながら、加枝の方に振り返る。
 制服同様、顔も見たことがない。
 初めて会う筈の女生徒だった。



「奇遇とか言ってる場合じゃないでしょ。入口の看板見なかったの? ここは立ち入り禁止よ? っていうか、その前にあなた、一体どこの高校?」
 機先を制するように言い募る。
「どこって、ここですよ?」
「うちの学校は女子ブレザーじゃない」
 自分のブレザーの襟を摘んでぴらぴらと振った。
 加枝の服装がこの高校の女子制服であり、またパンフに載っている通りの模範的な着こなしである。
 風紀委員会副委員長は伊達ではない。
「ああ、そういえばそうでしたねえ」
 しかし目の前の女生徒は、まるでたった今そのことに気づいたような驚いた顔をして、
「でもわたくし、これしか持っていないものですから。ごめんなさいねえ」
 それから、ゆったりと丁寧にお辞儀などしてみせる。
 ひょっとして、転校生だろうか。
「そりゃまあ‥‥‥制服なんて、そんなに種類持ってるもんでもないでしょうけどね」
 そう言っているうちにも、その子はまたこちらに背中を向けてしまう。
 どうも街並みを眺めることにご執心らしい。
 ‥‥‥聞いてるんでしょうね人の話を。
 後ろ頭をひっぱたいてやりたい衝動に駆られたが、素性もわからない子を相手にそこまではできない。
 我慢我慢、と口の中でだけ呟く。



 放っておくわけにもいかないので、女生徒のすぐ横に陣取って、女生徒と同じように、寄りかかった手摺りの向こうを眺めた。
「随分と、様変わりしましたねえ」
 呟く言葉に、懐かしさのようなものが混じる。
「私はその頃まだ小さかったからよく知らないけど、の住宅地の方とか、この十年くらいで急に開発が進んだって聞いてるわ。桜ヶ丘公園のあたりかな」
 左手でいい加減に遠くを指差してみせた。
「ええ、ええ。そうでしたねえ」
 半分聞き齧りの加枝の話を、女生徒はこくこく頷きながら聞いている。
「見ない制服着てる割にはこの辺のことに詳しそうね。誰か、お母さんとかが、転校前にここに住んでたの?」
「ええ、ええ。わたくしの母も、この丘から見る景色は好きだと申しておりましたねえ。それでわたくしも、随分と前からこのあたりにいるのですけれども」
「随分前って‥‥‥あなた何時間授業サボってるのよ」
 横からぎろっと睨んでみたが、やはり女生徒は、穏やかに微笑むばかりで。
「もう。今日はいいけど、あなた明日はちゃんと授業出なさいね?」
 何だか毒気を抜かれてしまった加枝は、言うだけ言って手摺りを後にする。
「はい。ご丁寧に、ありがとうございます。それでは、ご機嫌よう」
 ご機嫌ようって、あなたどこのお嬢様‥‥‥どうも何だか調子が狂う。
 振り返っていい加減に会釈して顔を上げると、見慣れないセーラー服の背中はまだそこにあって、やっぱり、遠いどこかを見つめていた。



 校舎の中から鉄扉を閉じようとして、加枝はふと、閂に引っ掛けられた南京錠に目を落とす。
 鉄扉を塞ぐ位置から傍らに押しやられた、立ち入り禁止の看板を見つめる。
 そういえばこの看板、さっき退かしたのは自分だ。
 南京錠も閂も、外したのは自分だ。
 そんな簡単なことを、いつから忘れていたんだろう?
 唐突に、冷たい何かが背中を撫で下ろした。



 待って。‥‥‥落ち着いてよく考えなさい、私。
 内鍵が外から開けられるわけもない。
 看板が外から退かせる筈もない。
 だからここは、だから、私が開けるまで、閉められたままだった、筈?
 ‥‥‥私がこれを開けた時には、あの子はもう外に、屋上の手摺りに寄り掛かっていたのに?
『それでわたくしも、随分と前から、このあたりにいるのですけれども』
 嬉しそうに話していた横顔が脳裏を過ぎる。
『随分と前から』
 随分って、どれくらい、随分?



 ぎいいいいいっ!
 けたたましく軋みを上げさせながら、加枝は屋上に続く唯一の鉄扉を再び開ける。
 眼前に広がるものは、桜ヶ丘の名の通り、丘に沿ってなだらかにうねる街を見渡すパノラマ。
 暮れ始めの透き通る赤と青が混ざり合った、不思議な色の空。
 ところどころが錆びかけた手摺り。
 それと。
「あれ?」
 それと‥‥‥いや、それで全部、だった。




 今、『立ち入り禁止』と書かれた看板は鉄扉の前になく、南京錠も外れた閂に引っ掛かっている。
 誰かが屋上に出ているのは明らかだ。
 いつものようにぎしぎしと軋みを上げて、屋上に続く唯一の鉄扉が押し開かれた。
 外の世界は既に夕闇の中にあった。
 そこかしこで灯された明かりが、人がいる場所の輪郭を闇の中に浮かび上がらせる。
 すぐ下の道路を車のヘッドライトが流れていく。いつもより流量が少ないように見えるのは、世間がゴールデンウィークの真っ直中だから、かも知れない。
 自らの足元に視線を戻せば、定位置に転がった鞄。
 かちかちと音を鳴らし続けるメトロノーム。
 そして、
「お、いいんちょーじゃん。こんな時間にどしたの?」
 手摺りに凭れてにこやかに手を振る日向子の姿。



「‥‥‥どしたの、じゃないでしょう! もうとっくに完全下校の時間過ぎてるんですよ!」
 ものすごい剣幕で加枝が詰め寄る。
「風紀委員会の委員長ともあろう者がそんなことで」
「だーから、野寺ちゃんが実質いいんちょーってことになってるでしょ? あたしなんかお飾りお飾り」
「そんなワケにいきますかっ!」
「怖いなあいいんちょーは。ほらスマイルスマイル」
「ふ・く・い・い・ん・ちょ・う!」
 こんなやりとりが、今までに何度繰り返されたやら。
「ねえ。見る度に思ってるんだけど、あんたこのメトロノームでいっつも何してんの?」
 いつもと違う三人目の声が日向子に尋ねた。
「って中村先輩! 帰ってくださいってさっき」
「何してんのは酷いなあ」
 口先だけ尖らせて日向子が答える。
 それによって加枝の糾弾は有耶無耶になる。
「あたし指揮やってるんだからさ、リズム感鍛える練習とか、一定のペースをキープし続ける練習とか、いろいろ便利だってわかりそうなもんじゃ」
 確かに日向子は吹奏楽部員で、パートは指揮者だ。
「でも委員長、指揮者だから屋上にいてもいい、ってことにはならないと思いますけど。楽器の人と一緒に練習とかしなくていいんですか?」
「合わせる時はあたしが降りてくよ、当然」
 例えばパート毎に校舎内の空き教室に散って練習している場に、日向子が居合わせることはほとんどない、という話を、加枝は他の部員から聞いたことがあった。
 それは当然、ずっと屋上にいるからであろう。
 だがそのくせ、どこのパートはどのくらい出来ているとか、あっちのパートはこういう弱点がとか、そうした事情には妙に通じているとも、その部員は言っていた。
 不思議な話だと加枝は思う。
 何をどうしているのかはわからないが、日向子ならそのくらいはやるかも知れない、とも思う。
 この人は実際、すごい人ではあるのだ。
 ‥‥‥すごくいい加減な人でもあるが。



「ほら、とにかく帰りますよ。もう定時制の授業が」
「それで委員長殿、幽霊は?」
 またも加枝の言葉を遮って、心子が訊ねる。
「幽霊?」
 日向子は不思議そうに首を傾げた。
「そういう噂があるじゃん、最近」
「ん、そりゃ話は聞いたことあるけど」
 答えながら、日向子はぐるっと屋上を見回す。
 手摺りの脇には日向子。
 やや鉄扉に近いところに加枝と心子。
「いるように見える?」
 三人以外には誰もいない、ようにしか見えない。
「見えないから訊いてるんでしょ」
「そう藪から棒に訊かれてもなあ」
 心子に向かって、日向子は肩を竦めてみせる。
「どの幽霊の話をされてるんだか」
「え‥‥‥」
 何だかとてもすごいことをさらっと言た、ように加枝には聞こえた。
「そそ、そんなにたくさん心当たりが!?」
「いや別にたくさんはないけど」
「つまり少しならある?」
「どうだろ。厳密に『幽霊』なのかどうかは、あたしにもちょっとわかんない、かな。ちゃんと訊いてないし」
「え、ですから、ああいうのってどういう」
「うん。例えば、こういう」
 す、と日向子が位置をずらすと。
「あらあら。またお会いしましたねえ」
 いつからそこにいたのか‥‥‥加枝には見憶えのある女生徒が、ゆったりと丁寧にお辞儀などしてみせる。
「ごめんね。あたしと見間違えてる、ってことにしとけば、もうちょっと誤魔化せると思ったんだけどなあ」
「いえいえ。そちらの方も、何日か前に一度」
 女生徒が加枝に笑いかける。
「なんだ真面目ちゃん、会ったことあるんだ」
 意外そうな心子の視線が加枝に向けられる。
「いや、その、あの」
 だが、加枝が探していたのは日向子だ。
 幽霊騒ぎも、そこにいた女生徒も、あの日の加枝が屋上へ行った理由とは関係がない。
 だから少なくとも、面と向かって話をしている間は、その女生徒が生きた人間でない可能性についてなど、考えるどころか、思いつきさえしなかった。
「あなた、幽霊だったの?」
「はい。そういうことになります」
 屋上を後にした時の‥‥‥何かに気づいてしまったかも知れない、と思った時の気持ちのざわつきが、再び、加枝の胸の中に去来した。



「用務のおっちゃんから聞いたことあったんだけど、ここの女子の制服、ずっと昔はこういう白のセーラーだったんだってさ。今のブレザーにいつ変わったのかはまだわかんないんだけど」
 女生徒のセーラーカラーの端を摘んで、日向子がひらひら振ってみせる。
『それでわたくしも、随分と前から、このあたりにいるのですけれども』
 前に会った時に聞いた言葉を加枝は思い出す。
 ‥‥‥随分。
「それってつまり、この方は」
「そうだね。すっごい昔の先輩。‥‥‥だった人」
「え」
 その次に加枝は、
「そんな、私あんな失礼なこと言って」
 その女生徒相手に、数日前の自分がどういう口を利いていたか、思い出したようだった。
『その前にあなた、一体どこの高校?』
『どこって、ここですよ?』
 例えば加枝は、その言葉を信じようとはしなかった。
 だが、それは単なる事実であったのだ。
「あの、す、すみませんでした! 私、てっきり転校生か何かだろうと‥‥‥ごめんなさい!」
 事情を呑み込むや、顔色を赤くしたり青くしたりしながら、女生徒に向かって勢いよく頭を下げる。
「あらあら。いいんですよ、頭を上げてくださいな」
 相変わらず、女生徒は穏やかに笑っている。
「真面目だっていうかカタいっていうか」
「でもいい子でしょ? いいんちょー向きで」
「本当だよ。こんな真面目ちゃん差し置いて、なんであんたが委員長なんだ」
「んー。‥‥‥人徳?」
 日向子と心子は、それぞれに意地悪そうなにやにや笑いの顔を見合わせる。



「でも‥‥‥あの、なんで今」
 不意に加枝は何か訊ねようとして、
「はい?」
「あ、いや、先にお名前を伺っ‥‥‥じゃなくて」
 多分、それとは違うことを訊ねかけて、
「すみません、申し遅れました。野寺加枝と申します。この学校の二年生です。‥‥‥あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか、先輩」
 最終的には、さらに別の言い回しを選択したらしい。
「これはご丁寧にどうも。山口のり子と申します」
「それで山口先輩‥‥‥んー」
 きっかけは得たものの、やはり言い切れないらしい。
「どうして、今になって化けて出たか、ですか?」
 恐らく加枝が言い淀んでいたことに、のり子と名乗った女生徒はあっさり言及した。
「え。あ‥‥‥その、はい」
 頷かざるを得ない。
「本当に、特に理由はないのですけれど、それで答えになっていますでしょうか? 随分前からここにおりますから、今になって、というのも少し違いますし」
 前にもそんなことを言っていた気がする。
「それじゃ、誰かを恨んでるとか、呪い殺しに来たとか、そういうのとは」
「そういうことは何もありませんねえ」
 あっけらかんとのり子は笑う。
 ‥‥‥悪霊、とかの類ではない、のだろうか。
「まあ、心残りは少しありますから、それが理由でよいのかも知れませんけれども」
 笑い顔のままで、のり子はそんな風に話を続けた。
「心残り?」
「卒業できなかったことです。実はわたくし、身体が弱くて、通っている途中で病に伏せってしまいまして」
「え‥‥‥」
 四年目の三年生が、一瞬、泣きそうな表情を閃かせた。
 快復はしたし、来年には卒業もできるだろう。
 それでも、本来のクラスメイト全員に置いて行かれた心子には、今よりもはっきりと、そのことを『不幸だ』と感じていた時期があった。
 では、このひとは、一体何度置いて行かれたのか?
 ‥‥‥自分の身の上が『不幸でない』とは、それでも心子は思わない。
 だが、それが、卒業すらできなかった人を前にして、なお自らの不幸だけを嘆いてみせられるほどの不幸だとは、心子自身にも思えなかった。



「自分が通っていた時から、ここの景色は大好きでした。ですから‥‥‥本当に、それだけなのですけれども」
 言い終えて、のり子はひとつ頷いた。
 確かに彼女は幽霊だが、どうやら、だから何だということも別にないらしい。
「あ。それって」
 何か思いついたらしい日向子が口を挟んだ。
「昔は、ここの屋上が立ち入り禁止じゃなかった、っていうこと?」
 口振りはフランクなままだ。
「ちょ、委員長! 失礼ですよ!」
 加枝に横目で睨まれて、ぺろっと小さく舌を出す。
「ふふっ」
 そんなふたりを見て、のり子はまた笑った。
「いいんですよ、野寺さん。‥‥‥ああ、それで、この屋上なんですが」
「うんうん」
 今度はのり子が、にやり、と口元を歪めてみせた。
「もちろん、生徒は立ち入り禁止でしたよ。ええ」
 ‥‥‥どうやら、『日向子の先輩である』ということに関しては、疑う余地のない人であるらしい。



「さて、じゃそろそろ帰ろうか」
 そう言って日向子は、まだ鳴っていたメトロノームを拾い上げて電源を切り、鞄の中に放り込んだ。
「いや帰ろうかって委員長、もうとっくに定時の授業が始まっちゃってますよ。帰るってどこから」
 そもそも加枝がここに来たのは、こういう事態を阻止するためではなかったろうか。
「へ? どこって、裏口から普通に出るけど。授業中は廊下に誰もいないから中通っても問題になんないし、門は横の通用口を用務のおっちゃんに開けてもらって」
「だからその用務員さんに、こんな時間まで残ってることをどう言い訳するんですか」
「屋上にいた、っていっつも言って通ってるけど、おっちゃんに怒られたこと一度もないよ?」
「な‥‥‥」
 なんとこのスチャラカ委員長は、最初から用務員とグルなのであった。
「まあ。そんなことまで、わたくしの時と同じ」
 何やら愉快そうにのり子が笑う。
「完全下校ってルールは一体‥‥‥」
 頭を抱える加枝の背中を小突いて鉄扉に向かいながら、
「んじゃのりちゃん、また明日ねー」
 そう言って、日向子はのり子に手を振った。
「そんなこと言って、また明日もここに来る気ですか」
「だって学校来る日だもん。本当、ゴールデンウィークがゴールデンなのは社会人だけだよねえ‥‥‥」
「だからなんで学校と屋上がイコールなんですか!」
 のり子がくすくす笑っている。
「また明日」
 鉄扉を閉める前に、もう一度、日向子は声を掛け、
「ええ。ご機嫌よう」
 やがて、再び鉄扉が閉めきられるまでは、のり子はそこでお辞儀をしていたようだった。

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