やきそばパン。  


  

 あと十分ばかりで四限が終わる頃。
「よーし終了ー。整列ー」
 体育館では、教師の声を合図に、バレーボールのコートに散っていた男子生徒が集まってきたが、
「あれ、宮田はどうした?」
「え‥‥‥冬樹?」
「いや、だって、ついさっきまで一緒に、あれ?」
 どうやら早速、生徒がひとり消えているらしい。
「なんだ、ジャージのまま買いに行ったのか。誰でもいいから『パン屋行くのは授業終わってからにしろ』って宮田に言っといてくれ」
 教師は渋面を作るものの‥‥‥事情がわかっているからか、それ以上くどくど言うことはせずに、
「じゃ、ネット片付けて、終わったら解散な」
「はーい」
「‥‥‥そんなに美味いかな、あのやきそばパン」
 指示を出す傍ら、校舎の方へ目をやって、小さく首を傾げただけだった。



 三階建ての教室棟。
 同じく三階建ての特別教室棟。
 細長いふたつの校舎と、両端で校舎同士を結ぶ渡り廊下が、中庭をぐるりと取り囲んでいる。
 片側の渡り廊下には、真ん中に建物が設えられていて、そこが生徒たちにとっては学校の玄関口であり‥‥‥昼時になると、奥の方の空いたスペースに『福屋製パン』という屋号のパン屋が出張店舗を出す場所である。
 この高校に食堂の類はない。
 抜け出したところでまずバレはしないが、それはそれとして、昼休みに校外へ出るには担任の許可が要る。
 つまり、弁当を持たない生徒、弁当だけでは足らない生徒、あるいは昼時を待たずに弁当を平らげてしまった生徒にとって、校内で昼食を調達する方法はといえば、基本的にはそのパン屋だけだ。
 そして今日、折しも五月二日の金曜日。
 毎月、第一週の金曜日にだけ、ひとつだけ入荷することがあると、生徒たちの多くは人伝にそう聞いたことがあるだけの‥‥‥希少価値の高さ、入手の困難さ故に、存在そのものが半ば伝説と化している感さえある『やきそばパン』の販売日、とされる日であった。



 ジャージに体育館履きのまま、同じクラスの女子がソフトボールの後片付けをしているらしい校庭の片隅を横切り、玄関口に向かって冬樹は走る。
「あれ、宮田君じゃない?」
「何やってんの?」
 冬樹に気づいた何人かが何か言っていたようではあったが、なりふり構っている余裕は冬樹にはない。
 見たところ、冬樹のように体育館から抜け出してきたライバルはいないようだ。
 本当はどうだかわからないが、横目にちらっと見た限りでは、校庭の女子も大体揃っているように思えた。
 あとは、幾つか足音が響いているらしい教室棟の中から、いつ頃、何人ぐらいが飛び出してくるか。
 それと、
「こら止まりなさい、そこの男子! まだ授業は終わってません!」
 ‥‥‥風紀委員会有志、とやらの包囲網をどうやって掻い潜り、問題のやきそばパンに辿り着くか。
「止まりなさいって言ってるでしょ!」
 流石に突き飛ばして走り続けるわけにもいかず、渋々足を止めた冬樹の前に、『風紀』と大きく書かれた腕章をブレザーの腕に巻いた女生徒が立ちはだかる。
 首元のリボンが青だ。二年生らしい。
「どいてください、先輩」
 そこがちょうど、校舎から少し離れた位置にある体育館と玄関口の中間地点くらい。全力でダッシュすれば数十秒の距離ではあるものの、焦っているからといって目の前の風紀委員を突き飛ばすわけにもいかない。
「教室とかから出てきた奴に、買われちゃったら、どうしてくれるんですか」
 ついでに息を整えながら、冬樹がそう言っている間にも、校舎内の足音がだんだん大きくなっているような気がしてくる。
 ひょっとしたらそれは気のせいなのかも知れない。
 だが、もしも気のせいでなかったとしたら、その時は冬樹の負けだ。そういう意味で、真偽がどちらだろうと冬樹のするべきことは変わらなかった。
「あっちはあっちで別の委員が塞いでます。それに、万一そちらの委員が抜かれて、そのせいであなたが何か買えなかったとしても」
 対して風紀委員は、いかにもカタそうな黒縁眼鏡の奥から、冬樹の動きに目を光らせる。
「そんなことは知ったことではありません。私たちの仕事は、あなたを授業に戻すこと」
「や、授業って言われても、今日はもうバレーのネット片付けるだけですから。片付け始める寸前までは俺も授業受けてましたし」
「片付けるのも授業のうちです! あなた以外は全員が、今でも片付けやってるんでしょうに!」
 通り一遍の言い訳はどうやら通用しそうにもない。
「大体あなた一年でしょ? 入学した翌月から早速授業を抜け出すなんて、まったく」
 ジャージの緑色を見てか、風紀委員は溜め息を吐きながらこめかみを揉む。
「って、先輩だって授業はどうしたんですか」
「一緒にしないでください。私たちは委員会活動で先生の許可もらってるんですから」
「ってことは、風紀委員会に入れば、委員会活動って名目でやきそばパンが買えるんですね?」
 それは何だかとてもいいアイデアのようにも思えたが、
「あなた一体、風紀委員を何だと思ってるんですかっ!」
 途轍もなく嫌そうな顔で風紀委員に一喝されたので、多分そんなことはないんだろう、と思い直す。
「とにかく、四限のチャイムが鳴るまでは体育館に戻っていてください。あと何分もないでしょう?」
 それ以上話すことはない、とでも言いたげに、風紀委員は腕など組んでみせた。
 ‥‥‥その隙を、冬樹は見逃さなかった。
「悪いですけど」
 腕など組んでみせるものだから、突如ダッシュを再開した冬樹の動きに対する反応が遅れ、
「あ、こら!」
「授業抜け出すような真似までして、買えなかったらガッカリじゃないですか!」
 慌てて伸ばした風紀委員の腕は、惜しくも、すぐ脇を擦り抜ける冬樹のジャージを軽く掠めただけに終わる。
「ちょっと! 待ちなさい!」
「お先! ‥‥‥って」



 ごとん。
 つられて玄関口へ向かいかけた風紀委員の足元で、何かが転がる音がした。



「わっ」
 想像の範囲外から突然聞こえてきた音に、風紀委員は思わず身を竦ませる。
「やべっ!」
 そして、その音を合図に、冬樹は慌てて踵を返す。
「え? ‥‥‥何? え?」
 やや浮き足立ってしまった風紀委員は、次にとるべき行動が咄嗟に判断できずにいる様子だ。
 そんな風にぼんやりしているのを見て取った冬樹は、さらにスピードを上げて風紀委員に迫る。
 その剣幕に圧されでもしたのか、ずるずると数歩後ずさった風紀委員の視界の中に、ようやく『さっき音をたてた何か』である筈のものが入ったらしい。
 ‥‥‥その次の行動の速さは、冬樹の予想を大きく超えるものであった。
「痛っ! ごほっ、ごほっ!」
 突然、風紀委員はその場でうつ伏せに倒れこむ。
 衝撃で眼鏡の弦を片方だけ耳から落とし、自分がたてた土埃で盛大にむせ返りながら‥‥‥それでもとにかく、そのお腹の下に冬樹の財布を隠すように。
「あ、うわちょっと、先輩」
「けほっ‥‥‥うう、渡しませんよ。渡しませんからね」
 地面の高さから、泣きそうな顔が冬樹を睨みつける。
「渡しませんって、それ俺の財布」
「言われなくてもすぐに返します。私だって、他人のお財布の中身になんて興味ない」
「だったら早く」
「駄目です」
「駄目って先輩、俺が落としたの見てたでしょ!」
 もう時間がない。焦る冬樹の声が大きくなるが、
「見てました。‥‥‥多分。それに、あなたが来るまでここに何も落ちてなかったのも、私が降りてきてから今まで、あなた以外にここを通った生徒がいなかったのも知ってます。間違いなく、これはあなたのお財布」
「だったら!」
「四限が終わったら返します。それまでは駄目です」
 それでも風紀委員は、うつ伏せのまま、そこを動こうとはしない。
 無理矢理引き剥がして財布を奪還するか。
 やきそばパンを諦めるか。
 今度は冬樹が選択を迫られ‥‥‥そこにいる風紀委員の埃まみれの顔と、すぐ側の玄関口を何度か交互に見やって、
「それなら、ちゃんといてくださいね。ここに」
「‥‥‥え? あ、ちょっと、どこへ」
 再び踵を返した冬樹は、手ぶらのままで玄関口へ踏み込んでいった。






 玄関口の奥で、ふたりの売り子のおばさんが開店準備を進めている。
 開店準備とはいっても、軽自動車に積んできたケースを引っ張り出して、幾つか並べた長机の上にそのまま置いていくだけだが。
「おばちゃーん! やきそばパンある?」
「はいはい慌てない慌てない。今日は‥‥‥ええと、あれ矢野さん、今日はあったかね、そば」
「え? 見てないけど、ケースに入ってればあるんじゃない? ロールはそっちの籠の、ほら」
 無責任な言いようだが、そこまでを聞いて取り敢えず冬樹は安心する。
 入荷しているかどうか、売り子のおばちゃんたちがまだよく知らない。ということは、それを調べて欲しいと言ってきた奴は今日はまだいない、ということになる。
「‥‥‥あー、ふたつ入ってるね」
 やっぱりだ。
「教室に財布置いてきちゃったんで、できればとっといて欲しいんですけど」
 だが、喜んだのも束の間のこと。
「今ないんじゃ駄目よ。昼時は忙しいから、誰に売ったとか何売ったとか、いちいち憶えてられないし。だから誰のわがままも聞きません」
「まだチャイム鳴ってないんだから、取りに戻ったらいいんじゃないの? あ、でも廊下走っちゃいけないのか、あんたたちは」
 おばちゃんたちの言うことはいちいち正しい。
 四限終了を告げるチャイムはもう、いつ鳴り出してもおかしくはない頃合いだ。
 体育館まで戻って誰かにお金を借りるような時間もなければ、外の風紀委員から財布を奪還する妙案もない。
 がくり、と冬樹が項垂れた、まさにその時。
「だったらおばちゃん、今お金持ってたらいい?」
 いつから背後にいたのか、見知らぬ少女の声が玄関口に響き渡る。
「うわっ!」
 振り返ると、長い髪をポニーテールに纏めた女生徒が、妙に嬉しそうに笑いながら立っていた。
 多分まだ外に伏せているあの風紀委員と同じように、腕に巻かれた『風紀』の腕章。
 首元のリボンは赤。‥‥‥よりにもよって、三年生。
「おーおー、委員長さんかい。いいよ、もうチャイム鳴る頃だろうし」
 おばさんの愛想が妙にいい。人気者なのだろうか。
「だったら、ほい」
 有無を言わさず、その女生徒は冬樹に何かを握らせた。
「キミはこの五百円玉をあたしから借りる。これを使って、キミはこれから、そこの箱にふたつ入ってるやきそばパンを買い占める」
「‥‥‥へ?」
「で、ウチの子から財布返してもらった後で、その中から出した五百円と、買い占めたやきそばパンの片方を持って、教室棟の屋上に来る。おっけー?」
「いや待ってください。俺が両方食べたら駄目なんですか? それに屋上って、屋上は立ち入り禁止って先生に」
 どう考えても、やきそばパンひとつ分だけ冬樹が損をする計算のように思えたが、
「さあ、チャイムが鳴る前に決めようね。話に乗ってやきそばパンをひとつ食べるか、話を蹴って手ぶらで帰るか」
 その三年生は、やけに楽しそうに笑うばかりだ。



 かくして、今月のやきそばパンも、四限のチャイムが鳴り始めると同時に売り切れることとなった。



 ちょうどチャイムが鳴り終わった頃、
「ちょ、ちょっと! あなた一体どうやってそれ」
 玄関口から出てきた冬樹がビニール袋をぶら提げているところを見て、風紀委員は驚いたような声をあげた。
「まさか、お財布ふたつ持ってたとか」
 今はもう寝転がってはいないが、さっきの場所にぺたんと座り込んだ風紀委員は、冬樹の財布を大事そうに胸に抱いたままだ。
「違いますよ。たまたま貸してくれた人がいたんです」
「って、それじゃ他にも生徒が」
「いえ」
 制服といわず顔といわず、およそ身体の前半分に該当する箇所が満遍なく汚れてしまっている風紀委員の悲惨な姿を見やって、冬樹はそれだけを答える。
 この先輩はこんなになるまで頑張って活動しているのに、風紀委員会の中に裏切り者がいる、だなんてとても言えなかった。
 しかもそれが、この先輩のさらに先輩、ということになると‥‥‥この人が俺を授業に戻すために頑張ったことは、一体誰が認めてくれるというのだろう?
「それから、これ、お詫びです」
 暫く考えて、手元のビニール袋から、ふたつしかないやきそばパンの片方を取り出した。
「え、でもそれ」
 風紀委員は束の間、惚けたようにそのパンを見つめ、
「って、ば、馬鹿なこと言わないでください! そんな、そんなの、私たちが受け取れるわけ」
 そこまで言ったところで、誰かのお腹がくうと鳴いた。
「‥‥‥い、今のは、違っ」
 今度は真っ赤になった顔を俯かせて、目の前の風紀委員が首をぶんぶん振った。
 さっきまでは穏やかな五月の風にさらさら揺れていたショートカットの髪から、倒れ込んだ時の砂が僅かに零れて、彼女はまた少し咳き込む。
「これ食べたから風紀が何だとか、俺、そんなこと言う気は全然ないです。だから、気にしないで食べてください」
「あ、はい‥‥‥ありがとう、ございます」
 いまひとつ状況がわかっていない風ではあったが、ともかく、そこに立ち上がった風紀委員は、冬樹に財布を渡した手で、冬樹からやきそばパンを受け取った。
「じゃ俺、体育館で着替えないといけないんで」
「でも、もう授業抜け出しちゃ駄目ですからね?」
「善処します」
「だから善処じゃなくって! ‥‥‥あああもうっ!」
 ようやく少し勢いが戻ってきた声を聞き流しながら、冬樹は後ろに手を振って、体育館へ向かう。






 屋上に続く唯一の鉄扉が冬樹の目の前にある。
 立ち入り禁止の看板は脇に除けられ、南京錠は外れた閂にただ引っ掛けられているだけだ。
 ノブを回して少し押すと、重い扉はぎしぎしと軋んだ音をたてる。
「本当に開きそうだな」
 ひとり分くらいの隙間を作って、屋外へと身体を滑り込ませた。
 眼前に広がるものは、桜ヶ丘の名の通り、丘に沿ってなだらかにうねる街を見渡すパノラマ。
 昼時の高い高い空。
 ところどころが錆びかけた手摺り。
 それと、
「おー。意外と遅かったね」
 少し離れた向こうの端から冬樹に向かって手を振っている、さっきの三年生の姿。
「それでどうだった、幻のやきそばパンの味は?」
 歩み寄るうちにだんだん大きくなる三年生の顔には、興味津々、と大きく書いてあった。
「知りません」
「え‥‥‥知らないって、まだ食べてないの?」



『で、ウチの子から財布返してもらった後で、その中から出した五百円と、買い占めたやきそばパンの片方を持って、教室棟の屋上に来る。おっけー?』
 さっき、この三年生がそんなことを言っていたのを思い出す。‥‥‥それなら、その『ウチの子』が外で転んだことも、そんなにまでして冬樹を授業に引き戻そうとしたことも、この三年生は知っている筈だ。
 どこかから全部見ていたのだろう。
 きっとその時にも、こんな風ににやにや笑いながら。
「先輩も風紀委員なんでしょ? 二年の先輩があんなに頑張ってやってるのに、先輩はそんな風でいいんですか」
 自分のことではない筈なのに、思ったように口に出しているうちに何だか悔しくなってきて、
「はい。さっき借りた五百円とやきそばパンです。返しましたからね」
 三年生の足元にビニール袋と硬貨を置いた頃には、冬樹の顔は相当にぶすくれた表情になっていた。
「もう片方はどうしたの?」
 それでも動じた風でもなく、三年生は再び訊ねる。
「さっきの先輩にあげました。‥‥‥本当は、今先輩に渡した分をさっきの先輩に渡して、もう片方は自分で食っちゃえばよかった、って思ってます。お金借りといて何ですけど、先輩にこれ渡すのは、何か、悔しい」
 と。
「そっか。それはちょっと助かった」
 突然、三年生はそんなことを言い、
「だったら、こっちはキミのってことで」
「え‥‥‥うわっ」
 その場に座り込んで手に取った、ビニール袋に包まったやきそばパンを、そのまま冬樹の手元に放った。



「元々それは、あの子に食べてもらおうと思って買ってもらったんだ。だから、キミから渡してくれたんなら、こっちはキミので帳尻合うんだよ‥‥‥それにしても、よく受け取ってもらえたね。結構手強かったでしょ」
 次には五百円玉を拾って自分の財布に放り込み、置いていたオレンジジュースの紙パックを摘み上げる。
「手強かった、って?」
「だって、そのやきそばパン買うために授業抜け出す子を取り締まってるのに、よりによって取り締まってる相手からやきそばパンとか受け取っちゃったら本末転倒じゃない。んー、捕まえた強盗の上前撥ねてる警官」
 確かに、それはそうだった。
 ‥‥‥別のパン買って渡した方がよかったのかな。
 今更ながらに冬樹は思う。
「そういうの嫌がるっていうか、生真面目なとこはもう本当に筋金入りでさ。自慢じゃないけど‥‥‥あの子にひとつ食べといて欲しいっていうのは本当に思ってたことなんだけど、でも、あたしが渡したとしても、あの子は絶対受け取らないって思うんだ。そこはどうしようか、結構、考え込んでたとこで」
「本当に自慢じゃないですね」
 厭味のつもりで肩など竦めてみせる。
「何だよー。失礼な奴だなあもう」
 笑いながら、口先だけ尖らせる真似で返す。
「でも、食べといて欲しいって、それはどうしてなんですか? もしかして、そんなに薦めたくなるくらいおいしいんですか、このパンって」
「自分で食べりゃわかるでしょ。それキミのなんだからさ。ほら、食べてみて? キミの感想も聞きたいな」
 催促しながら、三年生はオレンジジュースのストローを口の端に咥えた。



 何とはなしに、その三年生の脇に座り込んで、冬樹は手のひらの上のパンを見つめる。
 白いビニール袋でぐるぐる巻きで中身はまったく見えない。どちらかといえば、大きな蛹のような、あるいはやきそばパンのミイラのような。
「いただきます」
 袋を解いて、中からやきそばパンを取り出した。
 前後がやたらとドタバタしていたせいで、せっかくの逸品をじっと眺めてみるのもこれが初めてだったが、どう見てもそれは、その辺のパン屋でも普通に売られているようなもので、普通のやきそばパン以外の何かでも、普通のやきそばパン以上の何かでもないように思えた。
「意外と普通ですね」
「ん」
 どこか残念そうに、僅かに眉根を寄せつつも、今度はパンに直に巻かれたラップを解いて、片方の端から齧りついてみる。
 時間が経ったせいでやや湿気ていることの他にはあまり特徴のないロールパンと、もう冷めてしまっていることを除けば何の変哲もないやきそばの、極めて当たり前なコラボレーション。
「‥‥‥意外と、普通ですね」
「あはははっ! 素直でいいなキミは!」
 三年生は声をあげて笑ったが、冬樹の反応の何がそんなに愉快なのか、冬樹自身にはよくわからなかった。



「はー‥‥‥どう? 普通でしょ?」
 ひと頻り笑い終えたのか、軽く目尻の涙を払いながら、三年生は冬樹に向き直る。
「そうですね」
「もう一回授業抜け出して、ウチの子と校庭で戦ってでも、また食べたいってキミは思う?」
「いえ、それほどのもんじゃ」
 別に殊更不味いわけではないが、あんなに苦労して手に入れたにしてはあまりにも平々凡々な、本当に単なるやきそばパンだった。
 正直に言って、冬樹が経験した入手の労苦に見合うシロモノだった、とはとても言えない。
「あっちの先輩も、今頃ガッカリしてるかも」
 さっきの風紀委員がやきそばパンを食べているところを思い浮かべてみる。
 想像上の風紀委員は、えもいわれぬ複雑な表情を浮かべ、時折小さく首など傾げたりしつつ、無言でもそもそと齧り続ける。
 例えば、木の実を齧る栗鼠か何かのような。
「ガッカリしてくれてたらいいんだけどねー」
 同じ何かが見えてでもいるかのように、三年生は笑いながらうんうんと頷いた。
「大抵さ、本当に授業抜け出したりして大騒ぎするのは一年生だけなんだ。ちなみに今日もキミしかいなかった。それがどういう意味のことだか、わかるかな?」
「‥‥‥ああ、そういうことですか」
 何となく、冬樹は何かを把握した気がした。
 自分で食べたか他人から聞いたかはともかく、大概の上級生は既にそのガッカリをどこかで経験しているんじゃないか、ということ。
 それは結局、実は『なかなか入荷しない』という理由のみによって珍しがられているだけだ、ということ。
 そうした推測や事実から導き出される、結論としての‥‥‥『やきそばパン伝説』の正体、のようなこと。
「用もないのにそれに託けて、便乗したいだけの奴とかだって、まあウチの校風的にはあんまりいないし。だから、あの子が風紀委員有志による監視活動なんて大仰なことを始める前だって、放っておかれてたのに騒動が大きくならなかった理由とか」
 ずずー、と派手な空気音に続いて、三年生の胸元で紙パックが大きく凹む。
 数秒、名残惜しそうに紙パックを見つめてから、三年生はそれを足元に置いた。
「取り敢えずいっぺん自分で食べてみりゃ、どれくらい大したことないパンかなんて、大した騒ぎにならない理由なんてすぐわかるよ、ってのは言ったんだけど」
「え? ‥‥‥待ってください。先輩じゃなくて、あっちの先輩が始めたんですか、風紀委員会有志って?」
「あっちの先輩が始めたっていうか、『有志』って要するにその先輩ひとりのことだよ。あたしは風紀委員長とかやってるから、立ち上げのためにちょっと動いた縁もあったりだけど、他の委員はついて来なかった。そりゃそうだって正直あたしも思う」
「うわー、本当に筋金入りだー‥‥‥」
 『有志』だなんていうから、他に四人か五人くらいはメンバーがいるのだろう、と漠然と考えていた冬樹にしてみれば、それは意外な話だった。
 だが‥‥‥本当にそうして数が揃っているなら、冬樹と風紀委員があれだけ大騒ぎしていた間に応援がひとりも来なかったのは不思議なことで、だから、『その先輩ひとりのこと』で辻褄は合っているのかも知れない。
「でも、じゃあ、『あっちはあっちで別の委員が塞いでます』って言ってたのは」
「ハッタリ」
 こともなげに言ってのけて、三年生は、今度はグレープフルーツジュースの紙パックにストローを挿す。
「いい悪いはともかく、やりたいって思うことはやらせてあげたいじゃない。買いに行きたい方も、それを邪魔したい方にもさ。鉢合わせたら仲良くケンカすりゃいい、ってだけの話でしょ?」
 それは、風紀委員長の発言、とはとても思えなかった。
「それは駄目、あれも駄目ってどんどん潰せばラクチンだけど、やりたいようにやってみるためにはどうしたらいいのかな、っていう工夫の方が絶対楽しいよ。だから、私はひとりでもやるってあの子が決めたなら、それは意味ないから止しなさいなんて、思ってたってあたしは言わない。そういうこと」
 ‥‥‥もしかしたら、意外とそうでもないのかも知れなかった。



「最後に、ひとつ教えてください」
 もうじき昼休みも終わる。
 五限の予鈴を聞きながら、冬樹はひとつ訊ねた。
「ん?」
「二年前、先輩が入学してきた時」
「ん。そうだよ」
 三年生はにこにこ笑いながら、何か誇らしいことを話すように胸を張った。
「いや、まだ言い終わってませんよ」
「あたしが一年の時、あたしもやきそばパン買いに走ったんじゃないのか。違う?」
 その通りだった。
「今日のキミと同じだよ。同学年ではあたしがトップバッターだった」
「やっぱり、そうだったんですか」
「ん。いやー、それで初めて食べたやきそばパンの、あのフツーっぷりっていったらもうさー‥‥‥いっそ不味い方にでも構わないから、何かものっすごい特長とか欲しかったよねー」
「ぷっ‥‥‥そうですね」
 ちょっと吹き出しながら立ち上がって、冬樹は背伸びをひとつ。空の高くを漂う雲に、ぐっと伸ばした指先が触れたような気がした。
「って先輩、授業はいいんですか?」
「いいの。三年の授業はそんなに詰まってないし」
 三年生はそう言うが、本当かどうかは疑わしい、と冬樹は思う。大体、立ち入り禁止の屋上にわざわざ潜り込んでいるあたり、まともに授業を受ける気で学校に来ているようには思えなかった。
「じゃ、戻ります」
「ん。お勤めご苦労っ」
 軽く会釈して、冬樹は校舎に戻る。
「時々でいいからさー、あたしたちともまた遊んでねー」
 立ち去る背中の向こうで、楽しそうな三年生の声が何かいろいろ告げていた。
「それから、ここの屋上はあんまり頻繁に立ち入っちゃ駄目だよー」






 きーんこーんかーんこーん。
「あ」
 そうこうしているうちに五限開始のチャイムも聞こえてきて、慌てた冬樹はばたばたと階段を駆け降りる。
 と、
「廊下は走っちゃいけませんっ!」
「うわっ!」
 階段の上から投げ落とされた誰かの声が耳に突き刺さってきて、慌てて速度を落とす破目に陥った。
「って」
 ‥‥‥何となく、その声に聞き憶えがあったような気がして、階段の上を見上げてみると、
「また先輩ですか。何か今日はよく会いますね」
「それはこっちの台詞です」
 問題の『風紀委員会有志』が、カタそうな黒縁眼鏡を指で直しながら、ひとつ上の踊り場に仁王立ちで、
「それに、あなた今、屋上から降りてきたでしょう?」
 呆れたような、でもどこか嬉しそうな、
「今回は見逃しますけど、次に会ったら覚悟しなさい」
 何ともいえない複雑な笑みを、口の端にだけ、微かに浮かべている‥‥‥ように、冬樹には見えた。

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