パスタだ.パスタである.そう,あのとき私はパスタが食いたかったのだ.
パスタでないのはまあいいとしても、炎天下に一時間の待ち行列を乗り越えてでもあの塩とんこつラーメンを、とかそういう熱意は、実際私の方には全然なかった。例えばこの季節なら、そういうのよりは冷製パスタの冷えたトマトの方がずーっとずーっと好きだ。でもあちらさんは狭くて蒸し暑いお店の中で大汗かきながら油っぽいラーメンの方がいいという‥‥‥別にそれがすべてじゃなかったけど、まあそういうような細かいことが積もり積もって、ぱーんと弾けて、さようなら。
そんなよくある話だったんだけど、それについて今思い出したことは、嬉しそうにラーメンを啜っていたあの男じゃなく、そう考えると食いそびれたのが妙に残念な気もしてくるパスタのことだった。
「今にして思えば、あの時だって無理して相手に合わせる意味もなかったワケだよなー」
腕組みなんかしている自分の顰めつらしい顔が実は結構キュートなんではなかろうか、なんて埒もないことを思ってみたりしながら、自分の言葉に自分でうんうんと頷く。
「何回目だよその台詞? どーせ最後までそんな我慢なんかしてらんないんだから、相手に合わせようなんて殊勝なコト企んだってしょうがないだろうに。懲りないな」
目の前のヒロはぶっきらぼうに言いながらメンソールの煙草をふかす。煙草はあまり好きじゃないけど、愚痴を言うために呼び出した相手に煙草も吸うなだなんて流石に言えない。
「今日だってそうだろ?」
溜め息のかたちを示すように、ヒロの唇から煙が零れた。
「パスタが食べたいって話なら店に入る前に聞きたかったし、振られたって話ならもう聞き飽きた」
「いいだろそんなの別に。今更ヒロが私とデートってガラでもなし」
そこで。
突然、ものすごく何か言いたそうな顔で、ヒロが私を見つめた、ような気がした。
ヒロとは二十年近くも幼馴染みやってたけど、未だかつてそんな顔は見たことがなかったから私もちょっと驚いた。またそういう微妙な時に思わず目が合っちゃったりして、何か言うのも目を逸らすのも何だか気まずい私たちは、せっかくウェイトレスさんが山菜うどんを運んできてくれたのに返事もできず、さらに気まずい雰囲気になってしまう。
「‥‥‥いいんだぜ?」
長い長い沈黙に根負けしたように。
目を逸らすついでに、ヒロはもう一度、ふーっと煙を吐き出した。
「何が?」
「今からパスタ食いに行っても」
乱暴に煙草を揉み消す。まだ半分くらい残っていた煙草はヒロの左手によって散々な目に遭わされた揚げ句、灰皿の上で無残なバラバラ死体と化した。
「このうどんは?」
「両方食いたいってんなら食えばいいし、要らないなら置いて出りゃいい」
割り箸が立てられた筒の上を横切りかけたヒロの右手は、でも箸を取らずに戻っていく。
「そんな我儘な」
「つきあう、っつってるんだよ」
そういえば、ヒロはどうして、聞き飽きたような私の話につきあうために、また懲りもせず私に呼び出されてくれるのだろう? ‥‥‥別に気づくのが今でなくてもいいような、むしろもうとっくに気づいていなきゃいけなかったようなことに、ようやく私は気づいた。
つきあう、っつってるんだよ。
その不器用な言葉には、パスタにつきあう、の他にも特別な意味が込められている。
こんな鈍い私でも今はそれがわかる。
「いいの?」
「何が」
「私、我儘なんだよ?」
「知ってる」
「パスタ屋さんに入ったら、やっぱりカレー、とか言い出すかも知れないよ?」
「わかってるけど嫌な女だな」
「何かほら、言葉遣いも男っぽくて乱暴だし」
「だから知ってる。他はないのか?」
「それと、それと」
「それと?」
だから私も、
「なあ、パスタにしよう、やっぱり」
パスタにしよう、の言葉には、その言葉以上の特別な意味を込めたつもりだ。
もう冷めかけていた山菜うどんには結局手もつけず、ヒロと私はうどん屋さんを後にした。
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