気がつけば今日も真夜中。
十何分か前に日付が変わってる筈だから、まあ厳密なことをいえば、今はもう、ついさっきまで『今日』って言ってた日の翌日にあたる。
まーた寝つくのが遅くなるなあ明日早いのに‥‥‥いつもの通り、まるで実効のない反省のお言葉を脳内だけで繰り返しながら、これもいつも通り、左手でズボンのポケットから引っ張り出した家の鍵を鍵穴に差し込み、半周回して解錠。
「たーだーえーり、っと」
僕の右手がその間何をしていたかといえば、言うともなしに呟いた通りの言葉をそのままスマートフォンに入力していた。
『多田絵理』
予測変換結果の先頭には、恐らくは人名なのであろう文字列がひとつ。
ちなみに僕の名字は多田じゃないし、絵理って名前の家族もいない。
住んでる家にはひとり暮らし。
実家に帰っても、家族構成は両親と僕と弟。
「『絵理』ってこの字でよかったんだっけ」
時々そういう根本的なところが不安になるのもやっつけ仕事の醍醐味というか。いやほら、『多田』の方にはそれほどたくさん候補がないので間違いようもないんだけど、読み仮名が『えり』って名前の候補は結構あるわけで。なんせ決めた時にも適当な選び方したもんだから、自分で言っててイマイチ自信がなくなることもしばしば。
それともうひとつ。
「そういや、平仮名でも漢字でも字の数同じなんだな」
それも今、口に出して呟いてみて思ったんだが‥‥‥それは何というか、『ただえり』という読み仮名に見合う漢字を最初に当ててみた、その段階で気づいていないとおかしいようなことだった。
‥‥‥ま、いいか。
『多田絵理』
対外的には、単にそれだけが書かれたメッセージの送信ボタン押下をもって挨拶に代えたので、口に出しては何も言わず、空いた右手でドアノブを捻る。
『おかー』
『また偽残業か』
ネットの向こうからぱらぱらと返信が飛んでくるのに混じって。
「はいよー。今晩も多田絵理さんですよー」
玄関口。
床板の上空‥‥‥というより、天井のすぐ真下くらいのところから、未だに聞き慣れた感のない誰かの声が、いかにも適当な、ぞんざいな挨拶を投げて寄越す。
なんせひとり暮らしだから、『ただいま』も『おかえり』も自分で言わなきゃ音にはならない。
とはいえ‥‥‥『ただいま』は実際そうなんだからともかく、『おかえり』を毎度自分で言うっていうのも、何かトテツもなく寂しい奴みたいでどうかと思う。
それはそれとして、ツイッターやら何やらに『ただいま』とかいうことを書き込むこともよくあることだが、『ただいま』のことを単に『ただいま』と書くのも味気ない、とある時思った。
で、だ。
『ただ』いま、と、おか『えり』。
最初と最後を纏めて『ただえり』。
なんかこんな名前の人いそうだよな、と思ったから、ついでに適当に漢字もあてて『多田絵理』。
考えたの僕だ。
少なくとも僕のつもりとしては、本当に、これで全部だったのだ。
そういう何かが本当にいるだとか。
その何かが、つまり『多田絵理さん』が、それから僕の部屋の中にちょいちょい現れるようになるだとか。
別にそんなこと知ってて思いついたわけじゃない。
何から何まで単なる偶然だったのだ。
いや本当に。
‥‥‥なんでこんなことになってるんだろう?
「今日も遅かったんだね。居残り?」
窓から薄明かりが差すだけの玄関口の中、宙に浮かんだタブレットの液晶パネルが虚空に投げかける光が、半分透き通った多田絵理さんの顔を可視化する。
赤いアンダーフレームの眼鏡が液晶からの光を反射して、そのせいで目元のディテールはわからないが、その他の大部分を透かして天井の模様が見えていること。
その光源も声の音源も僕の目線より上にあること。
そういったあれこれをどう考えるか、というのが当面の問題だ。‥‥‥とはいえ、何をどう言おうと『ある』ものは『ある』んだし、『いる』ものを『いない』ことにはできないし、つまり、僕が何かを考えたからって、それで何かがどうにかなるというものでもない。
「残業です。『居残り』って何かイメージ悪い」
「はいはい残業残業。大丈夫ですよー、わかってますからねー。ほい」
胡散臭げな声色を作ってわざとらしく繰り返しながら、多田絵理さんは片手をタブレットから離し、すぐ脇にぶら下がった照明の紐をかちんと引っ張る。
古くなった蛍光灯が何だか断末魔みたいな明滅を繰り返し、暫く粘った挙げ句にちゃんと点灯すると、ようやく、空中で胡坐をかいた多田絵理さんの全体像が目に見えるようになった。
「あ、どうも」
明かりを見上げると、多田絵理さんも視界に入る。
相変わらず半透明だが、茶色いワンピースの裾から足首はちゃんと覗いている。とはいえ、それをもって『多田絵理さんは幽霊ではない』という理解でいいのかどうか、に関しては保留中だけど。
「こらスカート覗くな」
手に持っていたタブレット端末を腕に抱え、その上に頤を乗っけるようにして、こっちを睨んだ多田絵理さんが、べ、と舌を出してみせるものの、本気で気にしてるわけじゃないことはその表情を見れば明らかだ。
「それだけスカート長ければ別に危なくないでしょ。大体覗けたところで半透明」
廊下も明るくなったところで、僕は上がり込んだ廊下をちょいと脇に逸れ、風呂場の扉だけ開けて元の位置へ。
「‥‥‥また動画ですか?」
「あ、うん。今日はニコ動」
多田絵理さん、次にはこっちに液晶を向けて、何やら自慢でもするかのようにひらひら振ってみせるのだが、何を隠そう、そのタブレット端末は僕のだし、ニコ動のアカウントも僕のだ。というかそもそも、この家の中に多田絵理さんの持ち物はひとつもない。
「そうだ。ねえ主くん、さっき知ったんだけどさ」
僕の名前を知らないわけではない筈なんだけど、多田絵理さんはいつも僕を『あるじくん』と呼ぶ。偉いんだか偉くないんだかよくわからない。
「はい?」
「ファミコンのウィザードリィIが味方のアーマークラス無視してるって、主くん知ってた?」
のっけからハイブローにも程があった。
「二年だか前に発覚するまで、発売から二十年ずっとバレなかったバグなんだって」
これでも一応本職がシステムエンジニアであるところの僕に言わせれば、ハイブローな上に眉唾な話だった。そんなことって本当にあるんだろうか。俄には信じ難いし、エンジニアの心情的に、積極的に信じたくはない。
「今日ずーっと追っかけて観てた実況動画がそういうのいろいろ言っててさ。興味あるでしょ?」
それはまあ、確かに『ない』とは言わないけど。
「だから主くん、ウィザードリィIどっかから手に入れない? 今からでも遅くない!」
流石にそれは相当遅きに失してると思う。
「自分ちでやってくださいよ。自分のお小遣いで」
「多田絵理さんに自分の家などないっ!」
そこをそうやって言い切っちゃうのは全国の同姓同名さんの何割かが気を悪くするんじゃなかろうか、とかいうことをぼんやり思う。
自称がすべて正しいとするなら、本当に『多田絵理さんに自分の家などないっ』んだそうである。
「‥‥‥そこだけ疑ったところでなあ」
未だふよふよ浮かんだままの多田絵理さんを眺めやって、言うとも言わないともなく、僕は呟いた。
「ん? 何が?」
「『多田絵理さんに自分の家などない』」
「あー、それか」
そう。多田絵理さんは、実際浮かんでいて、実際半透明で、玄関口に直結の空間以外には侵入できない代わりに、玄関口と直結でありさえすればどこのお宅のどの地点にでも瞬時に出没可能で、飲み食いも眠りもせず、それで何をしてるかっていえば、どこかの誰かがひとりで帰宅して『ただいま』と言うのを聞きつけて『おかえりなさい』を言いに行ったり行かなかったりする他は、僕のデジタル機器を勝手に弄っちゃ動画観るだのゲームやるだのと、ニートの暇つぶしみたいな遊びに興じている‥‥‥という荒唐無稽を、真偽だ是非だのレイヤじゃないところで、事実として呑み込まざるを得ないのだ。
そこは呑み込んどいて、出自や正体に関する自称の怪しさは疑う、ってとこに何か意味はあるだろうか。
「まあほら、実際ないし。というより『住む』とか『生活する』って概念からしてないんだな。屋根がなきゃ生きていけない種類のもんでもないし」
別に悲しくも寂しくもなさそうな顔で、
「‥‥‥じゃ、なんで『おかえりなさい』なんです?」
「『私』っていうのが、そういうシステムだからだよ」
何だか楽しそうに、多田絵理さんはからからと笑う。
「このところは特にさ、みんな留守宅だからって退屈もしないしね。自分ちなんかなくたって、主くんみたいな物好きが、居間の襖開けっ放しにしといてくれるし」
多田絵理さんは、自分で扉や襖を開けることや、玄関口に続く空間と別のどこかを隔てる壁を通過することができない。『そういう機能がない』からだという。
割と頻繁に多田絵理さんが出没するようになって以来、少なくとも自宅を空ける時は、玄関口から続く廊下と居間を仕切った襖は開けっ放しだ。だから居間に置いてるタブレット端末を持ち出すことができるわけで。
「他にもこんな人いるんでしょ?」
「うん、いるいる。おかげ様でお姉さんときたらもうモテモテでウハウハ」
にひひと笑いながら、どこか照れたように頬を掻く。
「そんなにウハウハなんだったら、別の家にも行ってあげればいいのに」
それはつまり‥‥‥そんなに何人も心当たりがあるわけじゃない、ってことなんだろうなあと僕は思う。
「あー。そうそう、主くんたちがそれを言い始めると、大体の家で危険信号っぽい感じになってくんだよねー」
一転、深刻そうな顰め面を作ってそんなことを言う。
「危険信号?」
「多かったのは彼女ができたり彼氏ができたり。そういう家にずっとは居られないじゃん、それはやっぱり」
「つまりそれは何ですか、そろそろ僕にも彼女ができそうな兆候が」
「それはないない」
否定完了までのトータルタイムが一秒未満。
しかも右の手をひらひら振る仕草付き。
「襖閉めたろかこいつ‥‥‥」
「ぇー?」
今更シナ作っても遅いわ。
それで本当にぴしゃんと襖を閉めちゃったのは、基本的には僕がスーツから部屋着に着替えるためだった。
そういう事情は多田絵理さんも把握してるし、その多田絵理さんの方に独身男性の着替えを覗く趣味はないようなので、話の流れがこんな風だからって、別に閉め出されて大騒ぎするでもない。
なので、
「お、終わったか。お邪魔しまーす」
何もない空間を伝い、つい何秒か前に僕が開けた襖を通過して、多田絵理さんはしれっと居間に流れ込んできて‥‥‥こう、まあ、みんな見透かされてるみたいで若干悔しくはあるんだけど。
そんな心情を知ってか知らずか、居間に入るなりテレビの脇へ直行した多田絵理さんは、ずっと持ったままでいたタブレット端末をクレイドルに戻す。
即座に点灯を開始した赤いLEDが、端末は充電中であることを知らせている。束の間、液晶にでかでかと表示された電池のアイコンが、もうちょっと減ったら残量警告が出ますよ、くらいの低い位置を指しているところからして、結構長いこと使っていたらしい。玄関口で。
「あ、お風呂。水張って火ぃ点けといたよ。文字通り」
多田絵理さんは飲みも食いもしない上に自在に空が飛べてしかも半透明の不思議な何かであるが、行き来できる範囲の中にあるものを操作することはできるので、そのくらいの家事手伝いをしてくれることもある。『そういう機能はある』からだそうだが、なんで『ある』のかは知らない、とも言っていた。
‥‥‥いや、そこじゃなくて。
「文字通り?」
「風呂釜の下に薪くべて、もう地獄の劫火もかくやって勢いで」
物騒なギャグであった。‥‥‥本当にそんなもんが燃えてればまず音でわかるくらいの安アパートにおいて、それがギャグであることは最初から明白なのであった。
「薪なんか置いてないでしょ家に」
「ふふ。多田絵理さんを舐めてはいけない」
ちっちっちっと舌を鳴らしながら右の人差し指を振る。
「人里離れた檜原の奥地に原始の山小屋的な自宅を構える山際与兵衛さん宅の半分開きっ放しの玄関から出て、薪の小屋から幾つか薪木をくすねるくらい楽勝」
半透明の不思議な何かは、そこの家のデジタル機器を勝手に弄り回す機能以外に、泥棒する機能なども持ち合わせているらしい。高度だ。
「すぐ返してきなさいそんな危ないもの」
「持ってきてないもーん」
そしてこの僅かな間に『風呂釜の下に薪くべて』説はどこか遠くの棚へ移動したらしい。流石、どこのご家庭の玄関口へでも瞬時に出没できる人外ならではの手腕、と言って言えないこともないかも知れない。
「だがしかし、ファミコンとウィザードリィIをこの部屋に出しっ放しにしといてくれるなら、さっきの火計を決行する件については考え直さないこともない!」
「それでこの家燃やしちゃって、多田絵理さんがいっつも勝手に使ってる道具類もゲーム機もみんな纏めて灰になる、と。‥‥‥つまり、ここにあるものは、多田絵理さんにとっては別に燃えちゃっても構わないようなものだ、ってことですよね。それなら、そこの襖は明日から閉めたままにしましょうか。別に問題ないですよね」
「あああ嘘ですごめんなさいごめんなさい」
即座に平謝り。脆い‥‥‥。
「脅迫するならするで、もっと強気で行った方がいいんじゃないですか?」
ふっと相好を崩す。
「だって、それで本当に愛想尽かされても困るでしょ」
えへへと笑いながら、どこか困ったように頬を掻く。
「それはそれとして、ウィザードリィIには前からずっと興味あったのよ。主くんはどういうものだか知ってると思うけど、流石に、カセット本体にセーブデータを記憶させるタイプのゲームは、私たちみたいな他所の子が勝手に遊ぶってわけにいかないじゃない?」
カセットの中に記録保持用の電池を配置することで、幾つかのセーブデータをソフト自体が持っていてくれるようになりました、っていうのが『最新の技術』だった頃の話だ。今はもう、セーブデータを保持するための外部メモリが簡単に手に入ったり、本体そのものがそういう機能を持っていたりするのが普通のことだから、当時を知らない近頃の若人には、多田絵理さんのそういう苦労話は伝わりづらいかも知れないけど。
「ゲームの中断管理がパスワード制だった頃は、それでも結構、何とかする余地あったのよ‥‥‥中途半端な容量のセーブデータ用メモリっていうのがいちばんタチ悪かったと思う」
「‥‥‥あ」
そこまで聞いて、僕はふと膝を叩いた。
そういえば。
「どうしたの?」
「小学校の時、友達が言ってたことがありました。そいつはひとりっ子で、そこの家でドラクエやってたのは絶対自分だけなのに、自分で書いた憶えのない『ふっかつのじゅもん』っぽいのが、その辺のチラシの裏に手書きされてたのを何回か見つけた、っていう話」
「ほほう」
「でも気になって入力してみたら『じゅもんが ちがいます』だったから、どういうデータなのかはわからずじまいだった、って」
「うっわ切ないわそれ‥‥‥」
「そいつ鍵っ子だったから、学校終わりで帰っても自分しかいない家だったんです。学童も行ってなかったし。あと、何度か遊びに行きましたけど、構造もこの家みたいに、居間の襖は大体直通みたいなことでした。ってことは、もしかしてそれも多田絵理さんが」
赤い眼鏡のフレームに人差し指をやって、多田絵理さんは何やら考え込む仕草。
「んむ。私自身じゃないのは確実だけど、『多田絵理さん』のうちの誰か、っていう可能性は確かにあるね」
「多田絵理さんって他にもいっぱいいるんですか?」
「いるよ。基本的にはひとが住んでる建物の数だけ」
それはもしかしたら、『多田絵理さん』の正体に繋がる新情報、のような気もした。
「でもまあ、私は昔からその辺はおくゆかしい子だったから、パスワードが複雑とかカセットにバックアップとか、そういうゲーム遊ぶのは避けてたのね。だから、それがこの私っていうことはない。‥‥‥大体さあ」
そこで多田絵理さんは拳をぐっと握った。
「今はウィザードリィIのこと言ってるけど、ドラクエだってまともに遊んだことないのよ私! あんなバカ長いパスワード憶えてらんないっての!」
‥‥‥まあ、そんなことじゃないかとは思っていた。
「風呂入ってきますね」
「あ、はーい」
「ささ、まずは一献」
「あ、すみません」
とぽとぽとぽ。缶ビールがグラスに注がれる。缶から注ぐの難しいだろうに、多田絵理さん意外と上手い。
「ひとりで住んでるのにお酌してもらうことがあるとは思わなかったですね、そういえば」
「寂しい奴だなあキミは」
人の悪い笑みを浮かべて、多田絵理さんがビール缶を卓袱台に戻す。
「大きなお世話です」
だから反射的にその缶を取り上げてしまい、
「あ」
それから気づくっていうことを既に何度か繰り返している、そのことをまた思い出した。
多田絵理さんが飲み食いしないのはビールに関しても例外じゃないので、僕がこの缶をこうして手に持ったところで、ビールを注いで差し上げるグラスってものは存在しないのだった。
「でもまあ、基本的には優しい人だよね、主くんは」
もう一度、唇が笑うかたちに吊り上がる。
ただし、さっきの名状し難い悪魔的微笑に比べれば、幾分マイルドな印象もないではない。
「‥‥‥大きなお世話です」
無駄に繰り返して、繰り返した唇に蓋をするようにグラスに口をつけて、おもむろに、卓袱台の左に向き直る。
畳の上に据えられたラックの中では、風呂場へ行く前に起動したデスクトップPCが、立ち上がったまま放ったらかされている。
「あ、そうだ。そういや多田絵理さん」
「ほいよ?」
ディスプレイと僕の間に、真っ逆さまの多田絵理さんの顔がひょいと割り込んでくる。
以前は毎回驚いてたけど流石にもう見慣れた。
「PCは弄らないんですね」
「いやいや。弄ってるかも知れないよ?」
この技については最近反応が薄いからか、どこか悔しそうに唇を尖らせている。
それすらも気になっていないことにして、僕はディスプレイ内にウィンドウを開いて、
「ほら、イベントビューアにも起動の記録ないし」
やっぱりだ。日中であればいつでも使える境遇にある筈だけど、前回の起動時刻は昨夜の今ぐらい。その前にも、僕がいない昼間にイベントの記録はない。
「‥‥‥まあ、それは流石にね」
「はい?」
「パソコンって個人情報のカタマリじゃない。人間として実在するかしないかとか関係なく、自分じゃない誰かがその中覗いてたら気持ち悪いって思うでしょ?」
確かにまあ、持ち主の僕は出勤するのに持って行かないという利用状況が示す通り、結構フランクに多田絵理さんが常用しているタブレット端末の方にデータらしいデータはほとんど置いていない。
それはどっちかっていうと『PCとはOSが違うので、同じデータを持たせたからって同じ仕事ができるわけではない』っていう切り分けの話なんだけど、そういう僕の側の事情はさておいて、
「意外と真っ当な言い分ですね」
それ故に、他の誰かから横取りしてもそんなに胸が痛まない、っていうことであるのなら、それはそれで話の辻褄は合っているのかも知れなかった。
「大きなお世話ですー。っていうか『意外』は余計」
今度は多田絵理さんがむっとした顔を作る。
「何でしたら、あっちに余ってるネットブック、OSクリアインストールしましょうか? 特に用途もなくなってるようなもんですし」
「え。いやいやいやいや、幾ら何でもそこまでは甘えらんないでしょー」
表情と動きから類推するに、未だに逆さまの多田絵理さんは慌てた感じで両手を振っているのだろうと思うんだけど‥‥‥元々の位置関係からいうと、そのために伸ばした腕の先は恐らく僕の顔にめり込むくらいの位置にある筈で、だから、僕にはその手や指が視えていない。
「ファミコンとウィザードリィIを今から買うのに比べると、既に持ってるもんの方が難易度低いんですが」
「でも、中古のソフトなんか何百円とかじゃない?」
クレイドルからタブレットを持ってきて、ブラウザを開いてみせるが、
「そろそろその逆さ宙吊り止めません?」
本人が上下逆なので画面表示も上下逆なのだった。
「あ、そっかそっか」
多田絵理さんが空中でぐるんと半回転し、僕とほぼ輪郭が重なるような位置に来たため、大変見やすい位置に据えられたブラウザが表示しているのは、アマゾンの商品詳細ページだ。
「代わりに純正本体は阿呆ほど高いです。互換機は安いけど動かなくても文句言えないですし、その上ソフト自体が骨董品となると、動かないのはどっちのせいとか切り分けるの大変ですよ」
話のついでにウィキペディアのページを開いてみる。
「ファミコン版は‥‥‥えー、一九八七年発売。とっくに二十年越えですね。バックアップ電池も怪しいか」
「むー‥‥‥でもさー。そりゃエミュレータとか探してくればPCでだって遊べるんだろうけど、それは何というかその、風情がないというか、趣に欠けるというか」
「でもエミュならパッチがあるかも知れませんよ? そのアーマークラスが参照されないバグ直すのとか」
「それで直せちゃうっていうのがまた、趣に欠ける気がするんだよねえ‥‥‥」
ふよんと浮かび上がると、また中空に胡坐をかいたまま、多田絵理さんは何やら考え込む仕草。
「『うっわメルカバ戦車並みに堅い私のニンジャがスライムごときの攻撃を! ナンデ!? ニンジャナンデ!?』とかそういう、当時のプレイヤーが本当はみんな感じてた困惑みたいなことが楽しめないわけじゃない、そんなパッチ当てちゃったら」
「物好きな‥‥‥」
好事家っていうのはわからない生き物だと、こういう時にはつくづく思う。何につけてもバグは直った方がいいんじゃないか、っていう僕の発想にも、風情や趣が欠けているんだろうか。
「まっ、まさか主くんに物好き呼ばわりされるとはっ」
「酷い言われようですよ」
言いながら、僕はグラスのビールを飲み干す。
「さて、今日はもう寝ます。ウィザードリィIのことは何か考えますが、あんまり期待はしないでください」
「悪いねいつも。お礼はいずれ精神的に」
「はいはい。それじゃ、お休みなさい」
「お休みー」
再びタブレットをクレイドルに戻して、多田絵理さんがひらひら手を振る。
照明を消すと、気配はすぐに掻き消えて‥‥‥そういえば今日も『おかえり』とは言われてないよな、などと思いながら、僕は布団に潜り込んだ。
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