多分、そこで僕が目を覚ましたのは、見てたかどうかも思い出せない夢のせいとかじゃなくて、寝返りを打ち損なったからだ、と僕は思った。
頭の中はもう寝てるのに、何か生温かい感触が自分の左半分にぺたっと貼りついてることもずーっと気になってて、そっちに向かって寝返りを打っちゃいけないことを身体が勝手に時々思い出して、だから時々身動きが取れないことが苦しくなるような、なんか、そういう感じのせいで。
「んー‥‥‥」
呻きながら、僕はそこに上半身を起こした。
「ん?」
何となく、Tシャツの襟に指を引っ掛けてぱたぱたしようとして、首にやった指が引っ掛かる筈のTシャツの襟、がそこにないって気づいた。
「あれ?」
っていうか僕は、いつもなら着てる筈のTシャツを着ていなかった。
「あれ? あれ?」
いや、っていうか、大体僕は、Tシャツどころか上も下も全部、とにかく素っ裸だった。
信じられなかった。そんな変な格好で僕が寝てるわけがなかった。‥‥‥わたわたと自分の身体のあちこちをまさぐる僕のすぐ左で、何かがぐずぐずと崩れて、どさっとベッドの上に落ちた。
左の何かがわからない。電気の紐に手を伸ばして、正体を知るのが少し恐くなって、でもやっぱり、僕は紐に手を伸ばす。
かちっと小さな音がして部屋は一気に明るくなる。
眩しさに目をぎゅっと瞑った僕の左で。
「うあ‥‥‥まぶし‥‥‥」
その何かが、何だか寝惚けた妙姉ぇみたいな変な声で、やっぱりさっきの僕みたいに、小さく呻いた。
「ご、ごめんっ」
一気に眠気が醒めた僕は、わけもわからないまま妙姉ぇに謝って、まだ絡まっている足の間から自分の左足を引き抜こうとした。
「ぅん‥‥‥乱暴にしないで‥‥‥やだ、当たるよ、しーくん」
なのに、足を抜くどころか、妙姉ぇは何かぶつぶつ言いながら僕の左足を太股で捕まえて、離してくれない。
何も着てないみたいな妙姉ぇの上半分が、僕の腰から胸のあたりへずりずりと這い上がって、僕の顔と妙姉ぇの顔の高さが同じになった時、寝ている間中自分に貼りついていたものがもう一回貼りついたような、ああいう感じがした。
「どうして謝るの?」
「え、だって、だって、僕、妙姉ぇのハダカ見ちゃったし、あの、なんか、その」
なんか気がついたら素っ裸で妙姉ぇと一緒に寝てた。急に起きたから妙姉ぇが落ちた。妙姉ぇも素っ裸だった。足が抜けなかった。もう、何が自分のせいで、どれから謝ったらいいのか、謝ってる僕が自分でちっともわかってなくて、わかってないってわかってるから、僕はあたふたするしかなかった。
「なによ裸くらい。もっとすごい‥‥‥ふあ、すっごいことしたくせに」
しかも、すぐ前で小さく欠伸しながら、「すっごい」のところをものすごく強調するようにして、妙姉ぇは当たり前みたいにそんなことを言う。
「えええええっ!?」
耳元で騒ぐ僕から耳を遠ざけるように、その場で妙姉ぇは軽くのけぞった。そして、今度は僕を押し倒すように体重を掛けてきた。足を押さえられている僕は逃げることも躱すこともできなくて、だからそのまま、僕は妙姉ぇに押し倒された。
一気に血が昇って沸騰しそうな頭の両脇に妙姉ぇは腕を突く。合わさっていた身体が離れて、壊れたみたいにがんがん脈打つ心臓の音が半分だけ遠くなる。妙姉ぇの顔の代わりに、今度は目の前で妙姉ぇのおっぱいが小さく揺れる。
「責任とってくれるんだよね?」
「せ、き、にん?」
「あー‥‥‥民法第四編親族第二章婚姻第一節婚姻の成立第一款婚姻の要件っ」
いきなり、そういう何だかわけのわからないことを一気に言い切って、妙姉ぇは大きく息を吐いた。
その一繋がりの長い台詞の最初の方がどんなだったか、ほんの何秒か前に聞いたことが、妙姉ぇが全部言い切った頃にはもう思い出せなくなっていて。
「の、第七百三十一条。男は、満十八歳に」
憶えているのはもう、最後のところの、『かんこんいんのようけんっ』の辺りだけで。
「かんこんいん、って何?」
「女は、満十六歳にならなければ、婚姻をすることができない‥‥‥っと。で、何だっけ、しーくん?」
僕が訊くのも構わずに、やっぱり妙姉ぇはそこまで一息に言い切る。早口言葉の練習してるみたいだ。
「だから、かんこんいん、って」
「あのね‥‥‥」
妙姉ぇの肘がかくっと折れた。
「うあっ」
急にアップになった両方のおっぱいの間で僕は声をあげた。ひんっ、と小さく息を吐いて、妙姉ぇは何だかもぞもぞと身体を捩りながら、元の姿勢に戻る。だから僕も妙姉ぇも、さっき妙姉ぇに押し倒された時のままだ。‥‥‥ちょうど真ん中にほくろがあるとか、こんな時に気づいたらいけなかったのかな、やっぱり。何だか妙に冷静に、頭のどこかがそんなことを思っていたりもする。
「それ、点の場所違う。だいいっかん、こんいんのようけん。‥‥‥婚姻。結婚の話だよ」
「けっこん、って、どのけっこん?」
思わず、訊き返したら。
「だーかーらー。二人で一緒にずーっと暮らして、赤ちゃんができちゃうようなことなんかもしちゃって、赤ちゃんができたら赤ちゃんも一緒に暮らして、病める時も健やかなる時も、今からずーっとずーっとそうなりますーって二人で約束する、の結婚」
大体思った通りの‥‥‥それが返ってきていいのかどうかわからない答えが、やっぱり、返ってきてしまった。
「ね、あたしと結婚しよ、しーくん。あたし昨日で十六になったし、もう結婚してもいいよって法律には書いてあるから、あたしたち、これで大丈夫だよね」
それ、そういう意味なのかなあ? 妙姉ぇは十六だからもう結婚してもいい、赤ちゃんができちゃうようなことなんかもしちゃっていい、ってことでいいのかなあ?
「でも、僕まだ十四だし」
一つ違いの妙姉ぇは確かに十六になったかも知れないけど、今年の誕生日が来て、それでやっと僕は十五だ。‥‥‥男は十八歳、って言ってなかったっけ?
「だったら、しーくんが十八になったら、あたしたち、もう一回結婚式しようよ。それでオッケーでしょ?」
本当に、それでオッケー、なのかなあ?
「‥‥‥何よー、煮え切らないわねー。しーくん、あたしのこと嫌い?」
不意に、妙姉ぇの右手が僕のほっぺたを抓った。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「嫌いって言っても怒らないから、おねーさんに正直に答えなさい。しーくんは‥‥‥遠藤椎弥くんは、阪井妙子さんが嫌いですか?」
嘘だ絶対嘘だ嫌いって言ったら絶対怒ってもっとぎゅって抓るに決まってる。
本当はずっと好きだった。妙姉ぇが嫌いだなんて、嘘でもそんなこと言う気なんかなかった。けど、でもいつもの癖で、そう来られるとどうしても「嘘だ」が先に出てしまいそうになる。
「あ、嘘だ、嫌いって言ったら絶対怒る、とか思ったでしょ」
だからいつものように、僕が思ってることも全部筒抜けだった。
僕は思わず、奥歯をぎっと噛み締める。
「怒るわよ。だって怒るわよ。怒るに決まってるじゃない。好きだもん。あたし好きだもん」
抓くられてる左のほっぺたが今からもっと抓くられる。
「ちっちゃい頃からただのお隣同士ってしーくんは思ってたかも知れないけど、でもあたしはずっと、いつからかもうわかんないくらい前からずっと、しーくんのお嫁さんになれる日が来るの、待ってたんだよ?」
筈だった。
「わっ」
でも、そうする代わりに、妙姉ぇはがばっと僕に抱きついてきた。
「ねえ、しーくん、こんな‥‥‥しーくんの部屋に窓から内緒で忍び込んで、ぱんつまで全部脱がせて、あたしも裸でお布団に潜り込んで、自分から、あたしからこんな抱きついたりまでしちゃって、あたしは平気って本当に思ってる? そんなわけないでしょ? 恥ずかしくて死にそうだよ? どきどきだけで死んじゃいそうなんだよ?」
喋る声に時々、ぐすっとしゃくりあげる音が混じる。
さっきよりもっと速くて強くて、わがままで不揃いなふたつの鼓動が、ぴったりと合わさった胸を伝って、僕と妙姉ぇの間を行ったり来たりしている。
「妙姉ぇ‥‥‥ごめん‥‥‥」
「だからどうして謝るのよ」
泣かしちゃったから。
「謝らなくていいから、喜んでよ、しーくん。もっとえっちなふつーの男の子みたいに、びろーんって鼻の下伸ばしてよ」
また、妙姉ぇのこと泣かしちゃったのに。
「いいの? 僕、妙姉ぇのこと好きでいいの? 喜んでもいいの?」
「なによ今頃。もっとすっごいことしたくせに‥‥‥ね、だからちゃんと言って、この口で」
探るようにとことこと僕のほっぺたの上を歩いた妙姉ぇの指が、僕の唇に押し当てられた。
「椎弥くんは、妙子さんが?」
「‥‥‥妙子さんが‥‥‥妙子さんのことが‥‥‥遠藤椎弥はずっと、阪井妙子さんが好きですっ!」
「よくできましたっ!」
くっと顔を上げて、妙姉ぇは笑った。それは昔、一緒に転んで一緒に膝を擦り剥いて、でも「痛くない」って言って笑った時の顔、に少し似てる気がした。
目尻のところから涙の粒がぽたぽた落ちて、僕の胸に水溜まりができた。
「だからしーくんもカクゴしてよね。あたしたち、これから本当に結婚しちゃうんだからっ」
さっきは僕が引っ張った電気の紐を今度は妙姉ぇが引っ張る。急に真っ暗になった部屋の中で、また僕に覆い被さってきた妙姉ぇを、今度はちゃんと、力一杯、僕はぎゅって抱きしめた。
そのすぐ後に、ひとつだけ、妙姉ぇが嘘をついていたことがわかった。
それからのことが、僕にも妙姉ぇにも初めての「すっごいこと」で‥‥‥だから本当は、その前にはまだ、僕は妙姉ぇに「すっごいこと」なんて何もしてなかった、ということが。
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