しなやかな腕の祈り  


  

「やたら深いなあ」
 あたしのすぐ側でアルが呟いた。何やらうんざりした様子だった。気持ちはわかるけど。
「それだけ危険なイキモノだったってコトでしょ。こーんなに深い穴掘って埋めないと安心できないような。っていうか、話が確かならコレ掘ったのサルーインよ? サルーインが手に負えなかったものを殺しに行くなんて人間の仕事じゃないわ。嫌んなっちゃう」
 言うほど嫌でもなさそうにミリアムが答える。
 ‥‥‥そういえばもう、ここが地下何階だったかよく憶えていない。ほとんど一本道だからこういう風に歩くしかないんだが、全体の造りがよくわからなくなるように、わざわざ道順が面倒になるように歩かされているような感じもする。嫌がらせみたいな造りだ。
「クローディアー、大丈夫かー」
 声を掛けると、小さな声で返事があった。クローディアは大体そうだ。もうあたしたちが四人で一緒に旅するようになって随分経った気がするが、話し下手と引っ込み思案は直る気配がない。
「もうちょっと大丈夫そうに返事して欲しいよね」
 小さく呟いたミリアムは、多分あたしと同じようなことを想っていたのだろう。
「大丈夫かどうか、わからなくなっちゃった子だっているんだしさ」
 溜め息が漏れる。
 そう。もうひとりいたのにな。あたしは思う。



 もうひとり。
 あの子は、アイシャは今頃どうしているのか。
 ‥‥‥モンスターが我が物顔でのし歩くガトの村。
 誰もいなくなったガトの村。
 そんなことになったらあたしはどうするだろう。
 アルが暮らしていたイスマスの城は戻ってみたら魔物の巣窟だった。父親も母親も姉も、生き死にもはっきりしない。だから特にアルは、アイシャを護ってやりたかった筈だ。アイシャもアルと同じように、故郷の村に戻ってみたらひとり残らず人が消えていたんだから。もうアイシャにはアルとあたしたちしかいなかったから。
 なのに、目を離した隙にアイシャ本人までどこかへ消えてしまった。あれから一度も会っていない。
 歳の近い兄妹みたいだったアルが、あの誰もいない村から離れたがらない気持ちもわからなくはなかった。あれ位の女の子に何もできないのは別におかしいことじゃない。でもそれは、ひとりでどこかへ消えてしまって、それでも普通に生きていけることの理由には全然ならない。生きていけないことの理由にはなっても。
 生き抜くだけの力も持たないまま、いきなりひとりぼっちの世界に放り出された小さな女の子。
 図らずもあたしの背中を小さく揺らした身震いが、アルやミリアムには気づかれていないと思いたかった。
「シフ姐、あっちに降りる階段があるよ」
 少し離れた壁際からアルがあたしを呼ぶ。
 ふと我に返った、ことをあたしは知る。目の前にあるいろんなことが上の空なままで、こんな危ないところをあたしは歩いている。頬を叩いて気合いを入れ直し、今更どうしようもない心配事は取り敢えず頭の隅へ追いやろうとした。
 右手で翳したカンテラの光が闇に喰われでもしたかのように、アルのいるあたりの地面の一部がそこだけ真っ暗なままだ。
「よし降りるぞ‥‥‥ああその前に並び直しだ。ほらミリアム、魔法使いが戦士の前に立つなって、だから」
 渋々、ミリアムがアルに先頭を譲った。ミリアムの後ろにクローディアを入れ、最後にあたしが立つ。
 毎度のことだが階段は深くて暗い。このまま地獄まででも降りていけそうな気がする。
「よし、降りるぞ」
 だから、本当に降りる覚悟を決めるために、もういちど口に出してそう言う必要があった。



 最近ずっとそうだったけど、例えばここへ潜ってから何度魔物と戦ったかなんてもういちいち数えてはいない。ほとんど空にしてきた財布が、敵から奪った金だけでもうほとんど目一杯まで膨らんでるから、相当やったんだろうとは思うけど。
 ただ、それとは別に。
「‥‥‥シフさん、死体が」
 クローディアが口を開く。
「ん?」
「‥‥‥モンスターの、死体、が多いと思うんです」
「そうだな」
 今、あたしもそれを思っていた。大分深い所にいる筈だけど、何故かこの辺りにはモンスターがあまりいない代わりに、時々死骸の群れのようなものが打ち捨てられているのを見つけることがあった。傍らに転がった金が一緒に捨てられているところを見ると、まるで誰かがモンスターを退治した後をあたしたちは尾行するように歩いていて、その誰かももうこんな端金すら入らないほど財布が目一杯なんじゃないか、と思う。
「嫌な奴じゃないといいね」
 気味悪そうに足先で青い豚鬼の死体をつついて、アルが言った。
 転がっている死骸のほとんどには戦った痕がなかった。例えば、身体のあちこちに傷があるとか、何かを打ち据えた痕が武器に残っているとか、そういうしるしのようなものが。だから実は、戦ってはいないんだろう。街角で擦れ違った誰かが実は通り魔だった、くらいの不運と一緒で、出会った途端、ろくな抵抗もできないまま一方的に倒されてしまった、と考えるしかなかった。
 そんじょそこらの冒険者はまず、財布が一杯で困るなんて経験はしない。その前にモンスターに負けて終わるか、その前に稼いだ金で別の何かを始めるか、だ。
 金が余る、なんて悩みは、そういう普通の冒険者が漠然と夢見るような線を越えてしまった奴らの悩みだ。自慢じゃないがあたしたちは強い。バイゼルハイムのフラーマが言った、サルーインに勝てる誰かがいるとしたら、それはあたしたちだと信じている。
 そして、多分あたしたちの前を歩いているその誰かがもしあたしたちと同じように人間だとしたら‥‥‥何人で潜ってきたのか知らないが、少なくともあたしたちと同じ程度には強いだろう。
 そんなのと戦うような羽目になれば、相手もあたしたちも無傷ってワケにはいかない筈だ。
「その人たちなら、勝てるのかな」
 ミリアムは闇に沈んだ通路の先を見つめていた。
「ジュエルビーストのことか?」
「ん。強いみたいだから」
 ‥‥‥ジュエルビースト。
「わからないな。それが何だかわからないんじゃ」
 わかっているのは、あのサルーインの手下がそう呼んだ名前、それだけだった。
 サルーインにさえ扱いきれなかったというそのモンスターが、どれくらいの大きさのどんな奴で、どんな攻撃をしてくるのか。こっちの攻撃は何が効いて何が効かないのか。何も、ひとつもわかってはいなかった。
 できれば火の攻撃が得意で全身火だるまな奴か、でなきゃ水の攻撃が得意で全身雪だるまみたいな奴か、そんなような奴だと助かるんだけど。それなら手持ちのデスティニーストーン、水のアクアマリンや火のルビーで対応できるんだけど。あたしは考えるが、恐らくそんな単純なシロモノじゃないだろうという予感もしている。そんな簡単な奴を、仮にも神様のサルーインが扱えなくて困るような筈もないし。
 できるなら前を行っている連中が倒してくれるといいんだけど。正直、あたしでも、そう思わないことはない。
「あ‥‥‥アルちゃん、明かりくれる?」
 歩きながら行く先に目を凝らしていたミリアムが、不意に、小走りに駆けだした。
「はい」
 ミリアムに言われて、少し早足になったアルがカンテラを高く翳す。
 部屋の入口のように、仕切られた壁に穴が空いている。覗き込むと、あたしの目線よりももう少し上、くらいの高さに輝く何かがあって、そのまわりにも何だか光るものがたくさん確認できた。
「何? 祭壇か何か?」
 言いながら、そのまま不用心に部屋へ踏み込んで行こうとするミリアムの袖をクローディアが掴んだ。
 そして。
「やっぱり、シフ姐さんだったね」
 場違いにきらきらと輝く何かの上でちりちりと燻っているように見える闇が、何故だか、聞き覚えのある声でそう言った。



 どういう仕組みかわからないが、部屋の壁に設えられた無数の燭台に一斉に灯が入った。外の世界に比べれば大した強さの光ではないが、散々暗闇に目を凝らしてきたあたしたちは一瞬、その眩しさに目をきつく閉じる。
 明るさに目を慣らしながらゆっくりと目蓋を開くと、そこにあるのは異様な光景だった。
 床に描かれた何かの模様を取り囲む檻のように、とてつもなく巨大な岩が幾つも並べられている。その岩のひとつずつから伸びている太い太い鎖。あたしの腕くらいの太さはありそうだ。
 でも鎖は全部真ん中くらいで切断されていて、岩肌に沿うようにだらりとぶら下がっているだけだ。だから、部屋の真ん中に転がっている首輪のような大きな何かをここに繋いでおく役割はもう果たせていない。
 本来なら、そこに転がされているそれをこの岩の檻から出させないように、首輪は今でもその胴に嵌まっている筈なんだろう。でも、今、そこに転がされているものをどう贔屓目に見ても、それは巨大な蛙の死骸に過ぎない。四肢は斬り飛ばされ、あちこちが叩き潰され、挙げ句に首輪が嵌まっていたらしいあたりで横に両断されたからか、随分ズレた位置に胴のそれぞれが転がっている、死骸としか言いようのない哀れな姿を晒すその蛙は、身体の表面にやけに大きい色とりどりの宝石をべたべたと貼りつけられた、何だか成金趣味の誰かが魔法で作ったペットみたいなシロモノだった。
 両断された死体の頭の側、人間で言うなら多分後頭部から背中くらいを覆うように、ひときわ巨大な宝石が取り憑いている。暗いから何だかわからなくて、祭壇か何かのように見えたそれは、だから、惨殺された蛙の上半分だったのだ。
 そして、さっき喋った闇は今でもその宝石の上にいた。外套の中から緑色の大きな瞳がふたつ覗いている。
「え‥‥‥? もしかして」
 あの瞳には見覚えがあった。
「アイシャ? アイシャなの?」
 ミリアムが目を丸くする。
「馬鹿! こらアル! 待てったら!」
 駆けて行こうとするミリアムを慌てて羽交い締めにするが、もうその頃にはアルがアイシャの足元に駆け寄っている。
「アイシャ、か?」
 改めてアルが声を掛けると、
「うん。よかった、みんな元気そうで」
 外套のフードから顔を出したアイシャが嬉しそうに笑った。そのまま、体重を感じさせない動きで、あたしの背丈よりも高い場所からひらりと飛び降りる。着地した時にがしゃがしゃといろんな音がしたが、それは目の前に立ったアイシャの何が鳴った音なのか、見た目からでは全然わからない。
「アイシャ! ‥‥‥もう、馬鹿っ! いきなり消えないでよっ! 心配したんだからねっ!」
 結局あたしの腕を振り切ったミリアムがいきなり抱きついた。またがしゃがしゃと派手な音がした。金属同士が擦れ合うみたいな音。
「ごめんなさい。あの時は、本当にごめんなさい」
「わかったわかった。とにかく無事で何よりだったよ」
 ぺこりと下げられたアイシャの頭をアルが撫でる。
 安心したように、えへへっとアイシャが笑った。



 抱きついたミリアムがアイシャから離れるまでには、まだしばらく時間が必要だった。
「それでアイシャ、ここにジュエルビーストってモンスターがいるって聞いたんだけど」
 ようやく落ち着いたのか、ミリアムが訊ねる。
 途端にアイシャは表情を固くした。
「ん。‥‥‥多分だけど、そのジュエルビーストって」
 言いにくそうに言いながらアイシャが指差すのは例の蛙の死骸だ。そういえば、やたらべたべたと貼られた宝石といい、こんな洞窟の奥深くにあんなに厳重に鎖で括られた境遇といい、本物としか思えないほど、伝え聞いたジュエルビーストの特徴によく似ていた。
「でも正体は蛙だなんて話は情報になかったよな」
「蛙は違うって情報もなかったわ。だから蛙じゃいけない決まりもないでしょ」
 言ってる中身の割には釈然としない顔のミリアム。
「でもそうしたら、あの蛙って誰が殺したの?」
 重ねてミリアムが問う。
 俯いてしまったアイシャは、蛙を差していた指を、今度は自分に向けた。
「‥‥‥え?」
 アルが訝しげな声を上げた。
「ちょっと待って! アイシャって‥‥‥アイシャ、誰と一緒にここまで来たの?」
「ひとり。あたし、ずっとひとりだったから」
「それじゃ、倒した、って、ひとりで?」
 頷きたくなさそうに頷く。
「どういうことだい、アイシャ」
「あのね。あたし、ちょっと強くなりすぎちゃったみたいなの‥‥‥本当は、もっと早くシフ姐さんたちに会って、ジェフメティスさんからもらった大地の剣と、タラールのみんなのところで預かったトパーズを渡すだけのつもりだったのに‥‥‥それが済んだら、あたし、タラールのみんなのところに戻るつもりだったのに‥‥‥もう、あたし、戻れなくなっちゃった」
「戻れなく、なった? なんで?」
「なんかあたし、人間じゃないみたいだから。元々人間じゃなかったみたいだけど、今はもう、本当に」
 それをどこから出したのか。
 あたしには見えなかった。不覚にも。
 一瞬後、アイシャの手に剣が握られている。その切っ先はあたしの喉元を捉えている。
 もうひと突きで、容易くあたしを殺せる位置。
「お願いシフ姐さん。あたしと戦って。ミリアムも、アル兄も、クローディアも。戦って、あたしを倒して。それができたなら、あたしは今持ってるものを全部みんなにあげる。それでサルーインが倒せるならあたし一緒について行ってもいい。足手纏いなら村に帰ってもいい。でも、もしも、あたしが勝ったなら」
 顔を上げる間、言葉が途切れる。
「もしもあたしが勝っちゃったなら、シフ姐さんたちのデスティニーストーンを全部、あたしに預けて」
 なんでそんな馬鹿げた勝負を。
 言いかけて、あたしは言葉を呑み込んだ。
 クローディアは悲しそうにアイシャを一瞥した。
 一歩下がって距離を置いたミリアムは、右手に握った木の杯を睨むように見つめている。
 ‥‥‥わかってしまったのだ。
 そこで泣きながら笑っているアイシャは、冗談や気まぐれでそんなことを言っているのではない、と。



 クローディアが、肩から降ろした弓を静かに引いた。ミリアムが古ぼけた木の杯に何かを囁くと、杯はまるでもとから金細工だったかのような輝きを放ち始める。あたしは滅多に出さないアイスソードの柄を取り出し、ぶんっと音をたててひとつ振った。何もなかった筈の柄から先に、大きくて透き通った氷の刃ができあがる。アイスソードに金属の刃はない。この剣は、空気の中から水を取り出して、その場で刃を作る剣なのだ。
「殺さなくてもいいよな?」
 一応、訊ねてみる。
「殺すつもりで来て」
 とんでもない答えが返ってくる。
「えらいコトになったな」
 もう苦笑するしかなかった。
「すぐにわかるから‥‥‥お願い、アル兄も抜いて」
 アイシャは悲しそうだった。
「なんでだ? なんでアイシャと戦わなきゃいけないんだ! 僕は嫌だ、そんなの僕は嫌だ!」
「あたしなんか弱いんだって、あたしがひとりで行ってもダメなんだって、あたしにわからせて欲しいから」
「‥‥‥アルっ!」
 子供が駄々をこねるようにアルは首を横に振る。あたしに怒鳴られても、まだ鞘から刀を抜こうとしない。
「そう‥‥‥」
 少し俯いたアイシャが。
 消えた。
「ぐあっ!」
 同時に、アルが呻いた。
 鎧の材質としてはこの世でもっとも強い筈のガーラル鋼を容易く両断し、袈裟懸けに斬られた傷は鎖骨を砕いていた。もしかしたら肺腑にまで、ダメージが届いてしまっているかも知れなかった。
「アル! おいアルっ!」
「嫌あああ! アルちゃん!」
 恐らくは、ミリアムの叫んだ声など聞こえていなかっただろう。血の泡を吐きながらアルはその場に倒れる。二度か三度、目前に発つアイシャを掴もうとするように弱々しく動いた左手が、ぱたりと地面に落ちた。慌てて抱え上げたミリアムが聖杯に満たされた水を傷口に注ぐ。じわじわと白く泡立った傷口から流れる血の量が目に見えて少なくなった。
「ひとつ」
 冷たい声が呟く。
 アイシャの顔から表情が消えていた。
 合図も号令もない。唐突に始まったのは、まるで互いがモンスターでも相手にするかのような殺し合いだった。
 いつ動いたのか。いつ斬ったのか。‥‥‥一端の戦士である筈のあたしにさえ、その動きはまったく把握できてはいなかった。倒れたアルには何をされたのかさえわからなかったかも知れない。久しく感じることのなかった恐怖が身体を竦ませる。氷を掴まされたような痺れが手足から染み込んでくる感覚は、手元で武器の刃をかたちづくった氷のせいなんかでは絶対にない。
「油断するな! アイシャは本当に本気だ!」
「わかってる‥‥‥わかってるけど」
「クローディア、援護! 回復終わったらミリアムも!」
 まだ躊躇いを隠し切れないミリアムに事務的な指示だけ出して、あたしはアイシャに斬りかかる。が、この体格でそれなりに体重も乗せたアイスソードの重い斬撃は、ひ弱な筈のアイシャが無造作に握った細い剣に捌かれ、いなされて、何度打ち合っても全然ダメージを与えられない。奥歯を噛み締め、焦り始めた気持ちを叱り飛ばす。
 クローディアの弓はまだひとつも矢を放ってはいない。あたしはアイシャを振り回すように動いているつもりだったが、多分アイシャはクローディアと自分の間にあたしが割り込む位置をずっと保っているのだ。
「戦えないけど、アルちゃんは大丈夫!」
 ミリアムの声はやけに遠く聞こえた。
「ふたりとも動け! ミリアム、大丈夫ならアルにはついてなくていい! 動くんだ!」
 聞こえる声が遠いから、つい大声で叫んでしまう。
 だが返事はない。代わりに、ミリアムの身体が地面に叩き伏せられた、嫌な音が聞こえた。
「ミリアム!」
 肩を突き通した細剣はそのまま地面に刺さっている。地面に縫い止められたミリアムは歯を食い縛るのに精一杯で、今は悲鳴も上げられずにいた。
 そして、アイシャが握っている、柄の形があたしのアイスソードとそっくりな剣には、あたしの剣みたいな透明で綺麗な氷の刃じゃなくて、砕いた白い氷の欠片を無理矢理重ねて作ったような歪な刃がついていた。
 あたしと戦っていた筈のアイシャがいつそれをやったのか。いつ剣を持ち替えたのか。
 どうして、どうしてわからないんだ。
 あたしは唇を噛む。



 前衛の片方は鞘から剣を抜きもしないまま初手で潰されてそこに転がっている。生きているのは間違いないが、戦えた状態でもない。回復ができる唯一の術師も復帰はできないだろう。恐らくアイシャは倒れたアルやミリアムに敢えて止めを刺すような真似をしない。それだけが救いと言ってもよかった。そう考えることはアイシャに対する信頼の表れなのか、それとも単にあたしがお人好しなだけなのか、考える余裕も今はない。
 たったひとりのアイシャはさっきから援護つきのあたしと随分やり合っている。消耗しているのはあたしだけだ。やり合っているのも多分、アイシャが「やり合おうと思っているから」そうなっているに過ぎない。そうするつもりがないのなら、あたしを倒すのもアルを倒すのも、アイシャにとって大した手間の違いはないだろう。
 ミリアムが倒れた今、戦っているあたしには戦いながら傷を塞ぐ手段がなくなってしまった。
 クローディアの矢は確か何本か当たっていたが、黒い鎧そのものがその度に呻くような声をあげ、弾き返された鏃は灰か何かのようにぼろぼろと崩れながら地に落ちた。効いてはいない。
 どう考えても、尻尾を巻いて逃げ出すこと以外に適切と思える策がない。
 生き抜くだけの力も持たないまま、いきなりひとりぼっちの世界に放り出された小さな女の子。
 ‥‥‥本当にこれが、あのアイシャなのか。それからのアイシャが一体何をどうしてきたら、あのアイシャがこんなことになってしまうのか。
 あたしたちだって随分、危ない目にも恐い目にも遭ってきた筈なのに。あの伝説のデスティニーストーンが手元に三つも集まるような大冒険をして、ここに辿り着いたあたしたちだった筈なのに。



 唇を噛んだあたしの後ろから、何を考えたのか、クローディアが凄い速さで矢を射かけ始めた。あたしとアイシャのさらに後ろ、蛙の死骸よりも後ろへ。
「な‥‥‥」
 何をやってるんだ。咎めようと叫ぶ声は掠れて言葉にならなかった。
 同時に、隅の方できいいいんと何かが鳴った。倒れたままのミリアムが、自由になる右腕で弱々しく何かの棒を振っている。
 メイジスタッフ。
「満月は其方に落つる。太陽は此方に果つる。星々は瞳を閉ざす。終に虚無は湛えし静謐の他を知らず。万障はいずれ滅び、すべてはただ、斉しく流れ去るのみ」
 ‥‥‥ファイナルストライク!
「馬鹿っ! おとなしく倒れてろっ! 手なんか出したら」
 それも、全部は声にならなかった。
「万能にして定めなき原初の力よ、時の約定を破り、我が前に舞い散れ。愚かなる叡智の行き着く先へ」
 その棒がきらきらと輝き始める。アイシャのあたりで、あまりにも場違いな虹色の光彩が弾けた。ざらざらと砂のようにアイシャの身体が崩れかけるが、その光が途中でふっと消えてしまう。崩れかけたアイシャはその場を動いていない。‥‥‥アイシャが敢えて止めを刺しに行くまでもなく、ミリアムが力尽きてしまったのだ。
 半分だけ崩れたようなアイシャは、ファイナルストライクで自分を殺しかけたミリアムには一瞥もくれず、時折あたしでなく空に向かってその腕を振るった。
 もしかして、クローディアの矢を嫌がっているのか?
 考える前に、身体が動いていた。
 あたしでない何かを腕が振り払う、その隙を突いてアイシャの胸にアイスソードの刃を突き込む。今度こそ完全に、目の前のアイシャの身体は砂になって崩れた。
 その瞬間。
「シフさん! 上!」
 クローディアが大声で叫ぶのと、咄嗟にあたしがアイスソードを頭上に掲げるのが、ほとんど同時だった。
 砂になって崩れたアイシャの向こうから。
 立ちこめた自分自身の砂埃を裂いて、あの歪なアイスソードの刃が落ちかかってきた。
「‥‥‥幻っ!」
 きぃん!
 打ち合わされたアイスソード同士が澄んだベルのような音を響かせる。
「アイスソードは違うよ」
 砂の向こうからアイシャの姿が現れる。
「綺麗に使う剣じゃないよ」
 あたしに受け止められているのも構わず、振り下ろした腕をそのまま一気に振り抜く。
 柄のあたりでアイシャの刃が折れる。
「強い敵と戦う時は」
 空中で四散した刃は、
「‥‥‥っ!」
 突如、無数の白い小さなナイフの雨になって、音もなくあたしに降り注いだ。
「があっ! うあああああああああああああっ!」
 避けきれるわけもない。
 鎧を貫き、ざくざくと音をたてて、あたしの腕に、足に、身体に、幾重にも氷の刃が突き刺さる。
「刃を壊しながら使った方がいいよ」
 もう立っていられなくなったあたしの前で、さっきあたしがそうしたように、アイシャは柄しか残っていない剣を振る。
 消えかけたあたしの意識が最後に見たものは、柄から水晶の結晶が突き出すように、その結晶からさらに小さな結晶が枝を伸ばすように、あの白く曇った歪な刃がまた産み出されていく様だった。あんな風に荒れた刃をわざわざ纏わせるのは、最初から、叩き割って使うつもりだったからだ。そんな使い方があるなんて。
「アル‥‥‥ミリアム‥‥‥クローディア‥‥‥ごめ‥‥‥」
 それさえも、多分あたしは最後まで言い切れなかった。



 目が覚めると、テントみたいなものの中にいた。
「あ、起きた、シフ姐?」
 ミリアムの声がする。元気そうだ。
「アルは? クローディアは?」
「大丈夫だよ。もう、終わったから」
「大丈夫、って‥‥‥」
「マジカルシェルターって凄いんだね。なんか普通のテントみたいだけど、中にいると回復が加速するみたい。アルちやんもクローディアもそっちで寝てる」
 あたしは天井を見上げる。どう見てもただのテントみたいな感じだ。マジカルシェルターがこんなものだったとは知らなかった。買えないわけじゃなかったけど、欲しいと思ったこともなかったから。
「シフ姐さん、ごめんね」
 寄ってきたアイシャが呟く。
 外套を外すと、歩く足音に会わせてじゃらじゃらと音を立てるものの正体がようやく見えた。
 長い長い槍を背負っていた。長大な大剣も背負っていた。弓を肩にかけていた。佩いている二本の剣の他に、柄しかない大剣の柄も提げられていた。‥‥‥こんなに武器ばかり持っていてどうするのかと首を傾げたくなるほど、アイシャはやたらたくさんの武器を携えている。これだけ持って歩けば、そりゃ音くらい鳴るだろう。
 四人に対してひとりで戦う不利だけではない。こんなに重たいものを背負ったまま戦って、それでもアイシャはあたしたち相手に完勝をおさめるのだ。
 今の世界にアイシャより強い人間は恐らくいない。
 もう、そう考えるしかなかった。
「あたし、こんなだから。初めは本当に、シフ姐さんたちのこと追っかけてるだけのつもりだったのに、なんかあたし、どうしてこんなに強くなっちゃうんだろうって、途中で恐くなってきて‥‥‥」
 俯いたアイシャの足元でぱたぱたと水滴が撥ねた。
「海賊の洞窟の竜とか、四天王のフレイムタイラントとか、冥府の死神とか、いろんなのと戦ったよ。倒して欲しかった。本当は、誰でもいいから、もう誰かに殺して欲しくて、それで全部おしまいにしちゃいたくて。でも全部、勝てちゃうんだよ。たったひとりなのに。シフ姐さんたちに迷惑かけてばっかりの、守ってもらってばっかりのお荷物だったのに。おかしいよね」
 アイシャの泣き笑い。
「強くなるとね、寂しいんだよ。街を歩いてるだけで人に嫌われたり恐がられたりするし。パーティ組んでも、そのうちみんなあたしのことお化けか何か見るような目で見るようになるし。あたし、誰もいないのはもうたくさんだよ。帰ってもお家に誰も待っててくれないのなんか、もう嫌なんだよ‥‥‥あたし、あたし、あの時、トパーズなんか預かるんじゃなかった。シフ姐さんに渡しに行こうなんて思うんじゃなかった」
 笑いながら泣いていたアイシャの、
「幻術なんか憶えるんじゃなかった! 巨人さんの村なんか行くんじゃなかった! 神様の試練なんか受けるんじゃなかった! 負けないなら、勝てちゃうって知ってたら、竜とか死神とか、そんなのと戦ったりなんてしなかったのにっ! シフ姐さんまで、どうしてシフ姐さんまで、どうしてあたしを終わりにしてくれないのっ! あたしっ‥‥‥あたしっ‥‥‥」
 泣き崩れてうずくまった、相変わらず華奢で小さな肩を、あたしにはただ抱いてやることしかできなくて。
 ミリアムも、起き出していたクローディアやアルも、そんなアイシャを見つめることしかできなくて。



「じゃあ、あたし、行くね」
 やがて、泣き止んだアイシャは言った。
「どこへ?」
「サルーインを倒しに。だからお願い、デスティニーストーンをあたしに預けて」
「‥‥‥ああ、約束だったからな。アル、クローディア」
 あたしは懐からルビーを取り出す。アルも懐にしまい込んでいたアクアマリンを取り出す。クローディアは左腕に嵌められていた腕輪を外す。真ん中に嵌め込まれた大きな宝石がムーンストーンだった。
「あたしたちが持ってるのはこれで全部だ」
 纏めて、アイシャに手渡す。
「ありがとう」
「それで、あたしたちはどうすればいい? ついて行った方がいいならそうするし、足手纏いなら戻るけど」
 言っていることがさっきのアイシャと一緒だった。
「足手纏いなんてとんでもない。シフ姐さんたちは強いよ‥‥‥だから、強いから、こっちに残ってて欲しいの」
 答えて言いながら、
「負けたくて行くわけじゃないけど、あたしは負けるのが嫌だとは思ってないから。もしかしたら、あたしの次の人たちが必要かも知れない。だから、デスティニーストーンの代わりに、これを」
 アイシャは背負っていた槍と、弓と、腰の右側に佩いていた片手剣を身体から外した。
「ウコムの鉾。エリスの弓。レフトハンドソード」
「っておい、それってあのミルザが」
 どれもこれも、神話にあるような武器の名前だった。
「ん。でもこれは、みんなに持ってて欲しいの。あたしがサルーインと戦ってる間、人の世界をモンスターから守るために。あたしじゃダメだった時に、次にシフ姐さんたちにサルーインを止めてもらうために‥‥‥あたしが感じてる嫌な思いをみんなに押しつけるみたいで、すごく我儘だってわかってるけど」
「だからって、そんなの渡しちゃって大丈夫なのか? 自分で使った方がいいんじゃ」
「大丈夫だよ。他にもいろいろ持ってるから」
 悪戯っぽく笑う。屈託なさそうなその笑顔にも、どこか陰があるように感じてしまう。
 あたしたちは顔を見合わせた。
 相談するまでもない。答えは決まっていた。
「受け取るよ。アイシャがここに帰ってくるためにそれが必要だってんなら、僕は鬼にでも悪魔にでもなる」
 アルは鞘ごと地面に突き立てられたレフトハンドソードを抜く。
「いいさ。せいぜいあたしたちも、世界中のみんなに嫌われてやることにするよ。強すぎる、ってね」
 憎まれ口を叩いて、あたしはウコムの鉾を手に取る。
「‥‥‥だから、帰ってきて。おしまいなんて、そんな寂しいこと‥‥‥私、嫌ですからね」
 エリスの弓を拾い上げたクローディアは、呟きながら祈るように目を閉じる。
「アル兄、本当にいいの? シフ姐さんも」
「アイシャがどう思ってたか知らないけど、あたしたちだって家族だろ? 取り敢えずあたしはそう思ってる」
 残る三人が頷いた。
「あたしたちが生きてる限り、世界中どこにも居場所がないなんてことはない。だからアイシャ、帰って来なよ」
「そうだよ。死んじゃっておしまい、なんてダメだよ?」
「‥‥‥ん。ありがとう。絶対、帰ってくるね」
 外套を着込んだアイシャは、小さく手を振って、あたしたちに背を向けた。
 洞窟の出口へ続く階段を昇るその背中が見えなくなるまで、武器と鎧ががしゃがしゃと当たる音が聞こえなくなるまで‥‥‥あたしたちはそこに立って、アイシャの背中を見つめていた。

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