冬の魔物さんたち。  


  

 ばっさばっさばっさ。
「誠一! 誠一ー!」
 馬乗りになった掛け布団の上から、その掛け布団の裾を勢いよく煽る。
「おま‥‥‥またかそれ‥‥‥」
 眠そうに目を擦りながらぼそぼそと呟く誠一だが、
「誠一ー! 誠一ーっ!」
 そんな掠れた小声に注意を払うワンコではない。
「何時だ今」
 ワンコが起こしに来るくらいだから、もう朝ではあるのだろう。だが、分厚いカーテンがぴったり占められている部屋の中は薄暗く、時計の文字盤も今ひとつ明瞭に読み取ることができない。
 腰のあたりにワンコを載せたまま、ずるずると窓際に這い寄り、目一杯腕を伸ばしてカーテンを捲って、
「え‥‥‥」
 そこにあった景色が、誠一の瞼の上にまだ残っていた眠気をあっさり消し飛ばしてしまった。
「ええと」
 思わずカーテンから手を離し、何度か瞬きを繰り返してから、もう一度、カーテンの裾を指で摘んで。
「‥‥‥よし」
 外はまだ見てないことにしよう。
 心に決めた誠一は、捲ったカーテンを再度、そそくさと元に戻した。
「というわけで、おやすみワンコ」
「誠一ーっ!」
 そのまま、再び夢の中へ引き籠もろうと目論む誠一であったが、そうはワンコが卸さない。
 ばっさばっさばっさばっさばっさばっさ。
「ああわかった。わかったから待てワンコ。こら、待ーてーっての」
「‥‥‥んぅ」
 半身を起こさざるを得ない状況に追い込まれた誠一の横、頭まですっぽりくるまったままの布団の中で、透子が小さく呻く声が聞こえた。
「ほらワンコ。透子さんまだ寝てるんだから、ちょっと静かに」
 そこでワンコはきょとんと小首を傾げ‥‥‥つまり、ようやくのことで布団ばっさばっさ攻撃の矛を収め、
「とーこ?」
「そう、とーこ」
 それから、透子の姿を探すように、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「‥‥‥とーこ? とーこ?」
「うーるーさーい。お前な、透子さんが日曜休みとか珍しいんだぞ?」
「ん?」
 誠一に向き直って、もう一度、小首を傾げる仕草。
「って言ってもわかんないかワンコには」
 俄に静まり返った部屋の中、布団の中からは断続的に透子の声が‥‥‥声というか、小さく唸るような音がまだ聞こえている。
「ぅ‥‥‥ふ」
 起きちゃうかな?
 もそもそ音と共に小さく動く布団の小山から身体を離すと、そのうちに小山の身動ぎは収まった。まだ透子が起きてきそうな気配はない。
 ほっと胸を撫で下ろすと同時に‥‥‥これだけ騒いでも起き出して来ない透子のことが、少しだけ、誠一としては心配でもある。
 やはり疲れているのだろう。
「わかったわかった、僕は起きるから。朝ごはんか?」
「ごあん!」
 途端、今にも口の端からよだれが垂れそうな勢いで、へにゃっと頬を緩ませてワンコは笑った。
 喜色満面、しっぽもぶんぶん、無防備ここに極まれりという表情だ。
 ‥‥‥本当、聞き分けはできてるんだなあ。
 誠一は感心する。
 特にこの、『ごはん』という言葉に対するワンコの反応には、いつもながら鋭いものがあった。
「しょうがないな」
 満更でもなさそうに呟きながら、ベッドから床に素足を降ろして、
「うっわ」
 板張りの床のあんまりな冷たさに、思わず足先を引っ込めた。
「ごあん! ごあん!」
 隣の部屋からここまで歩いてきたワンコの方は、ここに来るまでの間に床の冷たさには慣れたせいか、特に気にする風でもなく、とん、と床に飛び降りる。
「お前元気だなあ朝っぱらから」
「あんこ?」
「そうそう。あんこあんこ」
「‥‥‥うー。あんこっ!」
 喜色満面は一転、怒ってるんだぞ、の顔。くるくるとよく表情を変える犬だ。
「はは。わかったわかった」
 よっと小さく声を出し、気合いを入れて床板に立つ。
「あんこっ!」
 この『あんこっ』はまだ怒ってるんだぞの顔で、
「はいはい。ワンコな、ワンコ」
「あんこっ!」
 さらに一転、『よくできました』とでも言いたげに、ふふんと鼻を鳴らしながらの『あんこっ』。
 言いたいことが丸わかりだ。
「って、あれ? ワンコだけか?」
 そうこうしているうちに床に足を降ろした誠一は、改めて自分の部屋の中を見回してみる。
「リリーはどうした、ワンコ?」
 問われてワンコはくるりと振り返り、
「りりー? りりー!」
 入口のドアに向かっておいでおいでと手招き。
「は?」
 そちらに目をやると、半開きのドアの陰からこちらを覗き込む、小さな誰かの姿。
「なんでそんな寒そうなところに」
「‥‥‥っ」
 ふるふると小さく首を横に振りながら‥‥‥何故だかわからないが、頑なに部屋の中には踏み込んでこようとしないリリーは、心配そうに眉根を寄せて、さっきからじっと誠一の方を見つめているだけだ。
「いいからこっちへ‥‥‥って、ああ」
 そこで何か思いついた顔の誠一は、試しに自分を指差してみる。
 リリーは横に首を振る。
 次に、傍らのベッドの上を指してみる。
 するとリリーは、躊躇いがちに頷く仕草。
「いい子だなあリリーは」
「あんこ?」
「お前じゃないよ」
「あんこ!」
「いいから行くぞワンコ。ごはんな、ごはん」
「ごあん!」
 ベッドの上に仁王立ちのワンコの手を引いて、
「ほら、リリーもおいで」
「‥‥‥ん」
 まだ入口に立っているリリーの手も引いて、誠一は薄暗い寝室を後にする。
 去り際、心配げに振り返ったリリーの視線の先で、かさかさと衣擦れの音をたてながら、布団の山は微かに鳴動していた。






 料理の好きな女性と一緒に暮らすようになれば、男性は厨房に立たなくなるものである。
 ‥‥‥の、かも知れない。普通は。
 つまるところはその辺が、倉田家と『普通』の家庭のちょっと違うところ、ということになるのだろうか。
「ごあん! ごあん!」
 透子の料理のような手の込んだものが出てこないことくらいはワンコだって知っている、のだろうと誠一は思うのだが、食卓のワンコはそれでも大喜びで、さっきからスプーンをぶんぶん振り回している。
 腰から上は大暴れでも、一応椅子には座ったままでいるあたり、大分行儀もよくなってきた、と言って言えないこともない。
 ただし、
「‥‥‥ん」
 傍らのリリーの落ち着きぶりに比べたら、目も当てられない、としか言いようがないのも事実ではある。
「足して二で割ってくれないかな、本当」
「ん?」
「あんまり暴れるなよワンコー。もうすぐだからなー」
「あんこっ!」
 フライパンに目を戻す。
 スクランブルエッグと、一緒に炒めたウィンナー。
 隣の鍋は、あり合わせの葉野菜を適当に放り込んだコンソメスープ。
 あとはトースト。
 ごく簡単な、例えば当の誠一自身は『これくらいの簡単なのは「料理」って言わないんじゃないか?』と思っているような献立であるが‥‥‥今、厨房でそれらを料理している誠一には、半年以上前、まだひとりで暮らしていた頃には、このくらいの料理すら億劫がるような、立派なコンビニ弁当愛好家だった過去がある。
 別に、そういう風にやっていくのが嫌になったとか、急に誠一が料理に目覚めたとか、そういうことではないのだが、ともかく現在はこんな風だ。
「っと」
 予め並べておいた、レタスが敷かれた皿の上に、フライパンの中身を取り分ける。
 冷蔵庫から透子の作り置きのポテトサラダを出してきて、それも一緒に盛りつけていく。
「できたぞー」
 と言いながら‥‥‥皿も自分で持って行かざるを得ないところが、ペット相手のやや不如意なところだ。
 皿出したり持ってったりくらいは手伝ってくれたら助かるなー、とも思いはするのだが、そもそも、引っ繰り返さずに食卓に辿り着けるようになるまでが一苦労だろう。ましてやワンコのことだ、手伝わせたりしようものなら、その場で片っ端から平らげ始めかねない。まあリリーはそこまで酷くはないだろうが。
「ごあん! ごあん!」
 もう大はしゃぎのワンコの前に、慎ましく座って待っているリリーの前に、それから向かいの自分の席に、同じ皿とスープカップ。
 タイミングよくトースターから吐き出されてきた狐色のトーストにバターを塗って、まずはワンコとリリーに一枚ずつ。
「わはー」
 しっぽを振り振り、早速トーストの耳に齧りつくワンコの横で‥‥‥リリーはそわそわしながら、誠一の方を気にしている。
「あ、いただきます?」
 胸の前に手を合わせてみせると、ふるふると、小さく首を横に振った。
「‥‥‥ああ」
 合わせていた手を軽く叩く。
「透子さん?」
 こくり。心配顔のリリーは小さく頷く。
「そうか。用意してる間に起きてくると思ってたのか。‥‥‥あのなリリー。シャカイジンっていうのはさ」
 言い掛けて、止める。
「いいや。透子さんは疲れてるから、今日はもうちょっと寝かせておいてあげような」
 もう一度、手を合わせてみせる。
「だから待ってなくていいぞ。はい、いただきます」
 と、何度か周囲に目をやって、もう一度こくっと頷いて、ようやくリリーも、両手を胸の前で合わせる仕草。
「優しいなあリリーは。いい子だ」
 腕を伸ばしてリリーの頭を撫でてやると、トーストの白いところをちまちま千切って口に運びながら、少し恥ずかしそうなはにかみ笑いを口の端に浮かべた。
「あんこ?」
 ‥‥‥これも前々から思っていたが、どうもワンコ、『いい子』という言葉に対する反応も激しい気がする。
「お前は食ってろよ」
 誠一がワンコに目を向けると、
「ってもう食べちゃったのか! 早いなお前!」
 ワンコのトーストはもう跡形もなかった。
「どうするワンコ、もう一枚食べるか?」
「あんこっ!」
「よしよし。すぐ焼けるからな」
 ちょうどその時、傍らのトースターがちんっと音をたてて、本日三枚目と四枚目のトーストの焼き加減を食卓に披露する。
「よーし、いいタイミング」
 こんがり焼けたトーストの表面にバターナイフを走らせると、塗られたバターがじわりと染みて、
「ほい、あんこ」
「あんこっ!」
 受け取る瞬間には起こってるんだぞの顔だったワンコだが、受け取ったトーストを口からお迎えに行く頃にはもう、嬉しい時の顔に変わっていた。






「そーっと、そーっとだぞふたりとも。寝てるんだからな透子さん」
 こんな時‥‥‥寝ている透子を起こさないように、抜き足差し足でベッドへ向かう誠一やリリーの気遣いを、
「あんこっ!」
「だから声がデカいって言ってるだろバカっ」
 ごくナチュラルに、かつ、いきなり一撃で粉砕しかねないあたりが、ワンコのワンコたる所以であろうか。
「あだっ! うーっ!」
「いいから行くぞほら」
「うー」
 だが‥‥‥こんなシチュエーションでなければ、頭を叩かれた報復に噛みつくくらいのことはしようとしたかも知れないが、
「意外とわかってんのな、お前」
 そこを抑えて、大人しくベッドに向き直ったワンコの頭を、誠一の手がわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「わはー」
「いいから静かに」
 果たしてベッドの上には、さっきの布団の山‥‥‥あるいは、蚕の繭、とでもいうべきものが、ごろんとひとつ転がっている。
 頭も手足もすっぽりとその中に仕舞い込まれ、本当に中身が透子なのかどうかは、見た目からでは判別がつかない。
「まだ寝てるな」
「‥‥‥ん」
 頷きながら、一歩前に出たリリーが、気遣わしげに布団に触れる。
 と。
「えい」
 突如。
「‥‥‥っ! ‥‥‥っ! ‥‥‥っ!」
 布団の中からにゅっと伸びた腕が、外から布団に置かれたリリーの手を引っ張った。華奢なリリーの身体はあっという間にベッドに引っ張り込まれ、布団に喰われて消えてしまう。
「うわ何だ!?」
「りりー? りりー!」
 リリーがピンチだ、ということはわかるのだろう。
「‥‥‥はぷっ! みぎゃー!」
 ワンコが布団に飛び込んでいくが、どうやらミイラ取りがミイラになったらしい。
 暫く中でもそもそもそもそ音がしていたものの、ある程度時間が経つとそれも収まり‥‥‥誠一の部屋には、得体の知れない布団状の魔物と、誠一だけが取り残されたようになる。
 流石に中身が三人だと『足先まですっぽり』というわけにもいかないのか、どうも透子の爪先らしい部位が、布団の切れ目から覗いていたりはするが。
「ちょっ、透子さん、起きてるの?」
『‥‥‥寝てまーす』
 布団の中からは、何やら拗ねたような声。
「いや透子さん、普通寝てる人は返事しないんじゃないかと思うんですけど」
『だって誠一くんもワンコちゃんもリリーちゃんも私のことだけ起こしてくれないんだもん』
 ぼそ、と音がして、三人の首から上だけが布団の外に現れた。どうやら透子は布団の中で、ワンコとリリーの身体を両脇に抱きかかえているらしい。
「おまけにみんなだけ朝ご飯まで食べちゃって。何このコンソメのいい香り! もう、お仕置きーっ!」
 言っている言葉の割には楽しそうに、透子はワンコとリリーの身体をゆっさゆっさと乱雑に揺する。
「わはー! 誠一ー!」
「‥‥‥ふ」
 喜んでいるとしか言いようのない二匹の様子を見る限り、それはちっとも『お仕置き』のようではない。
「でも、昨夜透子さんが『明日は絶対寝坊してやるー』とか言ってたから、起こしちゃ不味いのかなって」
「言ったけど‥‥‥それで私が寝てる間に何か素敵なことが起きてるっていうのは、なんか悔しい」
 素直な人であった。
「それじゃ、一緒に起こした方がよかった?」
「結果論だけど、今朝の場合は」
 よ、と声を掛けて、ワンコとリリーを抱えたまま、透子はその場に身を起こす。
「おはよう、ワンコちゃんも、リリーちゃんも」
 抱きかかえた二匹の間に自分の顔を埋めるようにくっついて、両手で頭を思い切り撫でながら、ようやく透子は朝の挨拶。
「あんこっ! とーこっ! あんこっ!」
「‥‥‥ん」
「誠一くんも、おはようございます」
「おはよう、透子さん。ところで」
 誠一はつかつかと窓際に歩み寄り、
「今日に限ってはさ、まだあるんだ。素敵なこと」
「え、何?」
 しゃっ、とカーテンを一気に開いてみせる。
「‥‥‥って、わあ! いつの間に!」
 窓硝子の向こうには、もう二月も末とは思えないくらい、一面の雪景色が広がっていた。




[image:ふぁな]

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