まだ空っぽの『すずらん』に設えられた大きな窓硝子越しに、夕暮れ時の穏やかな日差しが差している。
「誠一くん遅いわねー。とこまで買い物行ってるのかしら?」
壁に背中を預け、ワンコの前に座り込んだ透子は、両手をワンコに渡したままにしているから、その手を握ったままぶんぶん振り回すワンコの腕の動きに合わせて、上がったり下がったりに忙しい。
「あーんこっ! とーぉこっ! あーんこっ! とーぉこっ!」
口から出るのは同じ音ばかりだが、ワンコの声には何やら節回しがついている、ようにも思える。
「『歌』ってわかるのかしら?」
考えかけて透子は止める。
わかるに決まっていた。実際、こうして歌っているのだから。
「リリーちゃんもおいでー」
「‥‥‥ん?」
閉店前から置きっ放しの、巨大な積み木を模した遊具の脇から、とことことリリーが寄ってくる。
「はいワンコちゃん。こっちの手はリリーちゃんね」
透子の右手をワンコの左手から放して、代わりに、リリーの右手を握らせる。
空いた透子の右手が、リリーの左手を掴む。
「はい。わーんこ、りーりい、とーうこ」
「あーんこっ! りーぃりっ! とーぉこっ!」
がらんどうの『すずらん』の中で、ワンコの独唱会は続いた。
それから暫く経って、辺りがもう少し暗くなった頃。
ようやく買い物から戻った誠一が『すずらん』の店舗内にやってきて、
「何やってるの透子さん?」
三人を見るなり、何やら呆れ顔になる。
「ええと、お遊戯?」
「どんな‥‥‥」
床の上で複雑怪奇に縺れ合った三人は髪も服もぐっしゃぐしゃで、とても人様にお見せできた有様ではない。
「っていうか透子さん、硝子張りなんだからこの部屋。外から見え」
「そんなことより誠一くん」
「ちゃう‥‥‥よ?」
盛大に寝癖がついたような頭を持ち上げて、苦言を呈しようとした誠一の言葉を透子が遮る。
「本日わたくし、新しい発見をしました。この喜びを誠一くんとも是非分かち合いたいと」
「発見?」
「はい誠一くん、ここに座る」
いきなり告げる透子のみならず、
「へ?」
「誠一ー!」
誠一のジーンズの裾を引っ張って、ワンコもその場に座らせようとする。
「‥‥‥って、なに? 何なの?」
「いいからいいから。はい」
今度は透子の左手と、結局座らされた誠一の右手。
誠一の左手とワンコの右手。
そうしてまた、全員が輪になったところで、
「わーんこ、りーりい、とーうこ、せーいち」
「あーんこっ! りーぃりっ! とーぉこっ! せーいちっ!」
今日になって何度目かの、独唱会が始まる。
「大体いつも通りなんじゃ」
「そうなんだけど‥‥‥ねえ、ワンコちゃん、進歩してると思わない?」
困惑顔の誠一に透子が笑い掛ける。
「進歩?」
「リリーちゃんの名前、最初の『リ』と次の『リ』の間に、歌ってる時は小さい『い』が入ってる気がするの。あと私の、『と』と『こ』の間にも」
「また細かい話を」
誠一はそう言うが、
「あーんこっ! りーぃりっ! とーぉこっ! せーいちっ!」
「‥‥‥そう言われれば、そうかも」
実際、そう思って聴いていると、そのようになったような気がしないこともない。
「ね。これ、前に聴いた時よりも、もっとちゃんと『歌』のリズムになってきてるんじゃないかな、って」
「ああ、なるほど」
多分、その『ぃ』や『ぉ』があった方が、歌としてはリズムが掴みやすい、ということなのだろう。
どうやら、人間か犬かという差異は、そのリズム感を左右しないものであるらしかった。
「って大発見じゃないですか! こいつ『歌おうとしてる』っていうことでしょ? お前すごいなワンコ!」
「わはー! 誠一ーっ!」
ようやく合点がいったらしい。
誠一がワンコの頭をやたらめったら撫で回す。
「‥‥‥ふふっ」
透子はリリーを抱き寄せて、その頭の上にそっと手のひらを置いた。
「今度はリリーちゃんも歌ってみる?」
「‥‥‥ん」
まるで言われた意味がわかっているかのように、はにかみながらリリーが首を横に振る。
「そっか、残念」
言いながら頭を撫でると、リリーは何かを謝るように小さく頭を下げて、そのまま、透子の胸に頬を擦り寄せた。
空の色はもう、『夕方』よりも『夜』の方に近い頃合いだった。
「さて誠一くん、そろそろ夕食にしましょう」
「え? ああ、はいはい」
四人一緒に立ち上がった。
「って、うわ」
誠一以外、三人の着崩れ具合がちょっと酷い。ボタンの類はほとんど外れているし、上着から下着から、ありとあらゆる衣類が斜めにずれてしまっている。
「どんな『お遊戯』だったんですか本当に」
「ええと、その‥‥‥まあ、普通よ? うん、普通」
『普通』でないこと以外は何もわからない、さっぱり要領を得ない返答であった。
「それじゃ透子さんは、そいつら連れて先にお風呂入っちゃってください。夕食の準備は、並べるだけだったら僕でもできるし」
「あ、お願いしていいかしら?」
「最初からそのつもりだったでしょ」
「う‥‥‥」
「はいはい行きますよー。ほらあんこ、リリーも」
「あーんーこーっ!」
「‥‥‥ん」
そんな風にして四人は、ごく賑やかに『すずらん』を後にする。
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