かみなしづき  


  

 明日から三連休だからだろうか。
 授業の終わりを告げる鐘の音と共に、教室内は俄に、いつにも増して騒がしい。
 三連休はどうやって過ごすか、という話で持ち切りの雑音を聞き流し、その雑音の中に投げ捨てるように溜め息を零して、
「ふ‥‥‥」
 それから、長く伸ばした髪を両脇に流した少女の頭はかくんと前に傾く。
 あと何ミリか高度を下げれば、机の上、二冊並べた教科書やまだ開いたままのノートに額が当たるだろう。
 いつもと同じで、今日の授業も退屈だった、と思うし‥‥‥いつものように、『退屈だった』と思う自分に、彼女は少し苛々する。
「‥‥‥っとに」
 そんな思い上がったことを言っている場合ではない筈だった。
 退屈だと思うなら、自分で前へ進んでしまえばいい。
 だから‥‥‥何の自慢にもならないが、日々の授業を『退屈だった』と思うくらいには勉強している。
 実際、入学から半年、ぶっちぎりで『主席』を名乗れる成績も一応キープできている。
 だが恐らく彼女の目標は、こんな学生の、しかも一年や二年の研鑽でどうこうできるほど甘いものではない。
 もしかしたら、彼女の欲しいものは‥‥‥ここには、ない、のではないか。
 しかし、ここは現代魔法研究の最先端だ。ここにないならどこにもないに違いない。
 でも。‥‥‥言葉にできない焦りばかりが先立って、思考の堂々巡りはいつもの袋小路に落ち込んで、それがまた、彼女を苛つかせる。



「ああ、まだ教室にいたのね。ちょうどいいわ、ちょっと聞いて鷹取‥‥‥って何やってんの?」
 頭上から、誰かが彼女の名を呼んだ。
「はい?」
 顔を上げると、その目の前に立っているのは、魔法課教師の‥‥‥名前が思い出せない。
「あ、九条先生」
 隣で莉里が呟いた。
 ‥‥‥ああ。
 九条先生。
「ええと、何でしょう九条先生?」
「あたしを忘れるなんて‥‥‥よよよ」
 その九条先生は、わざとらしくブラウスの袖を目元にやって、大袈裟に泣いてみせる。
「それで、何でしょう九条先生?」
 で、そういうことに付き合わない自分は、教師にとっては扱いづらい生徒なのだろう、ということに‥‥‥益体もないことに、内心、柚子里は胸を痛める。
「あーあ。鷹取ったら相変わらず私には冷たいんだー」
 ジト目で柚子里をひと睨みしてから、
「ま、それはいいわ別に。本題に入っていい?」
 柚子里のひとつ前、とっくに帰った生徒の席の椅子を引いて、背凭れを抱えるように、要が腰を降ろす。



 そうして腰を降ろした途端、
「って、これ来年の教科書じゃない。うっわ、もうこんなに読み読んじゃってるの? よくやるわ」
 二冊並んだ教科書のうち片方が、二年次のカリキュラムで使う教科書であることを要は見抜いた。
「え」
 見抜かれた理由に心当たりがなくて柚子里は一瞬狼狽えたが、当たり前といえば当たり前のことであった。
 まるで同級生のようなフランクな語り口だが、これでも、眼前の女性はスズノネの教師なのだから。
「‥‥‥いえ。ただの予習です」
「でもそれじゃ退屈でしょう授業?」
「いえ、そんなことは」
「潤いのある毎日のためにもさ、ちょっとスピード落としたら? あんたには必要なことだと思うけど」
 お気楽にそう言って、にひひ、と笑う。
 それでは遅すぎる、ということを‥‥‥他の誰かにわかってもらおう、とは、柚子里は考えない。
「あいつもこれくらい、いやせめてこの千分の一でいいから、熱意持って勉強に取り組んでくれたらなあ‥‥‥『俺、バカですから』って言ってりゃ何でも説明が済むと思ってやがるんだもんなあ‥‥‥そうだ鷹取、煎じて飲ませてやりたい奴がいるんだけど、ちょっと爪の垢分けてくんない?」
「あの‥‥‥それが本題ですか?」
 怪訝そうな顔を作って柚子里が訊ねる。
「ん? ああいやいや。爪の話は今思いついただけ。それじゃ今度こそ本題だけど」
「はい」
「‥‥‥ええと、志麻も聞きたい?」
 柚子里の隣。
 窓からの西陽が作った柚子里の影のように、じっと押し黙ったままの莉里がそこにいて、
「差し支えなければ」
 言葉少なに、かつ慇懃無礼に、その迂遠な人払いには応じない旨を答えて寄越した。
 人払い。‥‥‥そういえば、いつの間にか、教室内にはこの三人しかいなくなっていた。
「差し支えは、まあ、ないか」
 あっけらかんと笑って、要は視線を柚子里に戻し、
「それで本題なんだけどね。学園運営上の重要な問題を解決するため」
 そんな風に『本題』の内容を口にした。
「明日から暫くの間、少なくともこの学園とその敷地近辺では、鷹取は雷の使用禁止」



「え! ちょっと、雷禁止って先生!」
「落とす雷だけじゃなく、正確には電撃系全般ね。まああたしも詳しいことまでは知らないんだけど、学園地下の電装系があちこち不調だとかで、知らないトコで不用意に電気起こされるとちょっと困っちゃうらしいのよ。問題の解消に向けて静穂が頑張ってくれてはいるけど、そっちの目途が立つまでは、ってコトで」
 すらすらと淀みない要の説明に、何故か柚子里ではなく莉里が、僅かに片眉を上げる。
「いやちょっと待ってください、それじゃ魔法少女の」
 柚子里の方は、一挙に落ち着きをなくした様子だ。
「まほうしょうじょ?」
「えと、その、ほら最近この辺に現れるっていう噂の、あの魔法少女も時々、えっとごくごく稀に電撃使うみたいだし、わっ私はいいですけどかか彼女が困ったりとかあのその」
 脆すぎる。
 思わず溜め息を吐いてしまいそうになったが、取り敢えずその場は、どうにか莉里は堪えた。
「んん? なんであんたがそんな心配してんの? そんなの、鷹取とは全然関係ないコトでしょ?」
「‥‥‥う」
 だから、そこで返答に窮したところを見せてしまっては駄目でしょう‥‥‥と、危うく、声に出してそう言ってしまいかけたが、それも、どうにか莉里は堪えた。
「‥‥‥ハイ‥‥‥ソウデスネ‥‥‥」
 機械音声のような抑揚のない声で柚子里が答える。
 そう。ここは、そうやって素直に頷いておくしかないところだ。‥‥‥本当に関係ないかどうかは別として。
「それに明日から三連休じゃない。鷹取も志麻も、別に学校に用なんかないんでしょ?」
 生徒としての鷹取柚子里には、確かに、わざわざ休日に学校に出向く用事はない。
 だが不味い。
 電撃なしで一体『シトロン』をどうしろというのだ?
 口を開きかけ、開きかけた口を閉じかけ、を繰り返しているだけの柚子里の横で、
「はい。どちらも登校の予定ありません」
「ちょ!?」
 莉里が勝手に、しれっとふたり分頷いてしまう。
「さっきから何ですか柚子里。何か問題でも?」
「え、いや‥‥‥いや」
 今度は莉里が要の表情を窺う。
 要も莉里の方をちょっと見て、どうにも困ったような苦笑を洩らす。



 そうなのだ。
 『馬鹿正直』の原寸見本のような柚子里は、こうした場合のインサイドワークが不得手に過ぎる。
 そういうことが不得手な柚子里の人間性、のようなことは、例えば要や莉里は好ましく思っている。だが、これから柚子里が立ち向かおうとしている『敵』は‥‥‥消し炭にするか・消し炭になるか、厳密にデジタルな二択以外には何ひとつ問われることのない、世界の昏い側に棲まう魔人だ。柚子里たちの側、人間性に気を配ることを善とするような、優しい世界の住人とは違う。
 そうした魔人を向こうに回すには、いくら何でも、この柚子里では真っ直ぐに過ぎる。
「‥‥‥鞘が欲しいな、切実に」
 ぽつりと、要は呟く。
 鞘が要る。
 あまりにも愚直に‥‥‥確かに素晴らしく斬れはするが、そうはいっても、そのもの自体は抜き身の刃でしかない鷹取のために、『その刃で斬ること』以外の一切を引き受けて、鷹取と共に在ろうとする誰かが。
 それがなければ、この子自身の目論見に、この子の手が届くことは多分ないだろう。
 要の直感がそう告げる。
 一方で、
「それは、私が」
 応えるように呟くが、目の前の教師は、
「私‥‥‥が」
 そして実は莉里自身も、莉里がその『鞘』には該当しない、ということに気づいてしまっている。
 柚子里が最後に求める鞘とは‥‥‥柚子里に対してこのように隠しごとができてしまう私では、多分、ない。



「ま、それは今はいいや。とにかくそういうコトで」
「‥‥‥へ?」
 ひとりだけ訳のわかっていない顔の柚子里を挟んで、ほんの数秒、要と莉里は互いを見つめ合って。
「志摩、この子のこと頼んだわよ。雷禁止。この点だけは絶対だからね」
「わかりました」
「ん。いいお返事」
「え、ちょ‥‥‥こらーっ! ちょっとふたりとも、わかるように説明」
 背中越しにひらひら手を振りながら、
「それじゃふたりとも、いい連休をー」
 要はさっさとその教室を去って行ってしまった。

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