卓袱台の真ん中にどんと置かれた何かの上から千紗が風呂敷を除けると、
「はい、今日のおかず」
マグロやら黒鯛やらハマチやらカレイやらアオリイカやら、様々な魚の刺身が綺麗に盛りつけられた大皿が姿を現す。
「おおおおお‥‥‥っ! 待ってましたっ!」
万年欠食児童の神奈は言うに及ばず、
「うわ!」
「おお、こりゃまた凄いな」
生まれも育ちも漁師町で魚は見慣れている筈の、ついでにいえば比較的常識人であるところの高久と美唯でさえ、その豪勢さについ声を漏らしたくらいの、それはそれは見事な一皿であった。
「ち、ちょっと千紗姉、こんなに豪華で本当に大丈夫なの? あの、後で何か請求とかされてもちょっとアレというか何というかその」
何がそんなに不安なのか、何やら妙に落ち着かない様子の美唯の問いに、
「何ならもう少し盛ってもよかったかも、って感じ」
ごくあっさりと、こともなげに千紗は答えて、
「‥‥‥大体、これ全部、獲ってきたの神奈じゃない。請求って、ナニ代をダレから? うちの板前さん?」
それから、ちょっと小首を傾げた。
「そう! 獲ってきたのは何を隠そうこのあたし、一ツ橋神奈様なのだ! ほれほれ頭が高いぞ皆の衆!」
これ見よがしに神奈が胸を張る。
「確かに、神奈に感謝だな。獲りに行ったのは知ってたけど、こんなに頑張ってるとは思わなかった」
「あ、いや‥‥‥そこを素で返されると、何というかこう、むしろあんまり誉められてないんじゃないかっていう微っ妙ーなニュアンスが」
が、相手が高久だとそこでややノリきれず、話の持って行き先にちょっと困った感じになるのも、神奈に言わせれば実にまったく相変わらずなのであり、
「タカはもうちょっとお笑いの勉強するべし!」
「なんで!?」
島神様の御託宣って奴は、いつもいつも唐突だし不条理だ‥‥‥と高久は思う。
「まあ漫才は後でゆっくりやってもらって」
「だから漫才とかじゃないから!」
「こういう時の反応はいいんだよなータカって。ちゃんと勉強すればいい線行くんじゃないかと思うんだけど」
「お笑いの話もいいから!」
「とにかく。この風呂敷はこのまま私が持って帰るし、お皿だけ洗って返してくれればいいから」
「え、うん‥‥‥あの、本当ありがとね、千紗姉」
「っていうか、神奈にはさっき聞いたんだけど、明日も神奈貸りていいんでしょ? お礼はそれで充分以上」
「大丈夫! ほら今日から三連休だし、何だったら明後日も貸しちゃう!」
「こら美唯、あたしの貸し借りの話を、そっちだけで勝手に進めるな! みんな簡単そうに言うけど、いくらあたしでも、魚獲るのは結構大変なんだかんね!」
「あ、バレた」
「バレるわ!」
「‥‥‥保護者も大変ね」
「まあ、それはいつものことだけど」
千紗と高久が小さく溜め息を吐いて、そのタイミングがぴったりだったから、ふたりだけでちょっと笑った。
「本当、帷屋が観崎さんちのお隣でよかったと思う。三連休とか釣り客多いから、晩のおかずは自分で釣ってきてくれました、っていうのは結構あることだけど、そういう釣り人があんまり行かないようなとこからでも、神奈だったら魚獲ってきてくれるから助かる」
「むしろこいつ、本職の漁場荒らしちゃってるんじゃないか、っていうのが気になってるところではあるが」
「それは根津とかが黙ってないでしょ。神様だからって容赦ないだろうし、容赦ないのが正しいと思う」
「まあ、そうなんだよな」
実際、この件で満広に何か言われたことはなかった。『理由はよくわかんないけど不漁なんだよー。なあ、神様貸してくれよー』と言われたことは何度かあったが。
「それと、前から気になってるんだけど」
そこで不意に真面目そうな顔を作って、千紗は高久に向き直り、
「神奈って、なんでこの時期になると張り切るの?」
高久にしか聞こえないように、そんなことを訊ねた。
「この時期?」
「去年も、その前も、十月の三連休だった。『今年も魚いっぱい獲ってくるからさ、千紗んとこで捌いてくんない?』って、珍しく自発的に」
「‥‥‥自発的に?」
「多分それ、うちが、っていうか私が、神奈にお願いしたことになってるんでしょ? ここの家の中では」
例えば、だから美唯はさっき、冗談とはいえ『明後日も貸す』と千紗に言ったのだ。だが、それが神奈が自分で言い出したことなら、そもそも美唯に『貸す』だの何だの言うような道理はないことになる。
「まあそうだけど、実際は逆?」
「ん」
「ふむ‥‥‥十月、か」
腕を組んで、高久は何か考え込む。
「で、食べきれるのかこんなに?」
千紗が帰って、居間には三人が残る。
‥‥‥改めて見てみると、本当にすごい量だ。
「うーん、実はちょっと自信ないかも」
「えー? 余裕でしょこのくらい」
「だって神奈、これおかずだけだぞ。他にご飯も味噌汁もあるだろうし」
「ん。それに、こんな凄いのが来るとは思わなかったから、実は肉じゃがと菜の花のお浸しも作ってあるし」
「ということで、深景先輩呼ばないか? 姫先輩も一緒に来て、それで大体ちょうどいいくらいだろう」
「あ、いいかもね」
無論、美唯は大喜びなのだが、
「え! ちょっ、ちょっと待った! それはナシ!」
どういうわけか、不自然なくらいの全力っぷりで、神奈が両手と首を振った。
「えー? なんでー?」
「まあ、その反応で大体想像がついた。なんで『今』なのか、っていうことについても」
「‥‥‥え」
両手を振ってみせるために伸ばした腕ごと、神奈がその場で固まった。
「今、って?」
「十月に入ると、神奈は突然、魚を獲りたがる」
「‥‥‥十月に入ると? 何それ?」
美唯は首を傾げた。
「実は前から、そこについては俺もちょっと疑問に思ってはいたんだ。神奈」
「な、何?」
ぎぎぎ、と音をたてて、神奈の首が高久に向き、
「神様ってのは、十月になったら出雲大社に集まるもんじゃないのか?」
「う‥‥‥」
次には、こきん、と音をたてて前に落ちた。
「え、どういうこと?」
「旧暦の十月は『神無月』と呼ばれるんだ。これは、十月になると、日本全国の神様がみんな出雲大社に集まるからで、だから出雲大社のある島根のあたりでだけは、同じ時期を『神在月』という」
「うわ、なんか凄いねそれ。神様いっぱいなんだ」
「で、神奈。‥‥‥お前、行かなくていいのか?」
「んー‥‥‥まあ何ていうかその」
言われて神奈は、ばつが悪そうに頭を掻く。
「本当は、呼ばれてないこともないんだけど」
十月に入ると、神奈は突然、魚を獲りたがる。
‥‥‥のは恐らく、『忙しくて出雲へは行けない』という口実が欲しいから、なのだろう。
「で、だから深景先輩は嫌なんだろ。同じ突っ込み入れる奴が俺だけじゃなくなる可能性があるから」
「うくくっ‥‥‥」
いちいち図星であった。忌々しげに神奈が呻く。
「なるほど‥‥‥っていうか、それって問題なんじゃ」
「何が?」
「だから、神奈ちゃんが顔出さない、っていうことが」
「別に問題ないよ? 本当に問題あったら、行かないあたしが放っとかれてる、ってこともない筈だしね」
実際、それもそうなのだろう。
高久はひとつ息を吐いた。
「まあ、この話はここまでにしようか」
「え、いいの?」
「いいのって‥‥‥いいのって‥‥‥そんなに折檻モードを続けたいのかね美唯‥‥‥」
最早泣きそうな島神様であった。
「それだよ。せっかく神奈が頑張ってきたのに、神奈が美味しく魚食べられないんじゃ本末転倒だろ」
「おおお、なんと優しいお言葉! あなたが神か!」
「神はおまえだ」
‥‥‥世にも間抜けなやりとりといえよう。
「うん、もちろん、それで本当に大丈夫なんだったら別にいいんだけど」
一方美唯は、まだ怪訝そうな顔をしていた。
「でも神奈ちゃんのことだから、ひょっとして、大事な何かを先送りにしてるだけなんじゃないか、っていう」
「ぐさっ!」
「そのせいでこの島とか、もしかしたらこの国とかが変になっちゃったら、もうお魚どころじゃないわけで」
「ぐさぐさぐさっ!」
「だからまあ、大丈夫なんじゃないか? 本当にどうにもならなかったら放っておいてももらえないって、さっき神奈も言ってただろ。だったら、もうここから先は、俺たちが気に病んでも仕方がない」
別に神奈は、自らの怠惰によって世界に自滅をもたらしたいとか考えているわけではない、ということは高久もよく知っている。
そこを信じられるのであれば‥‥‥あとは、神の領域の問題に、人が口を挟みすぎるべきではない。
「まあ、そうだね。神奈ちゃんを困らせたいとか、そういうわけじゃないし。‥‥‥大体、お腹空いたし」
ようやく美唯が相好を崩すのとほぼ時を同じくして、
『こんばんはー。高久くーん、ご在宅でしょうかー?』
あまりにも間の悪い声が、玄関先から聞こえてきた。
「み‥‥‥っ、深景先輩の声じゃな」
「裏切ったなタカぁっ!」
地獄から響くような低い声が、美唯の言葉を遮る。
「いや待て誤解だ! 俺がまだ連絡とってないの、知ってるだろ神奈だって!」
「『まだ』って何よ『まだ』って!」
「言葉の綾だろそんなの!」
‥‥‥阿鼻叫喚の夜は、まだ始まったばかりだ。
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