「大体ほら、街ごと沈んじゃってるわけだから、結構向こうまでこの深さでしょ。そういう意味じゃまあ、この辺も遠浅っていえば遠浅なんだけど」
言いながら琴羽が空いた手でちょいちょいと海底を指さした。
眼下、仄暗い藍色の水に揺らめくゴーストタウン。
遠くを横切る魚影の下にビルが幾つも立ち並ぶ、それは幻想的な光景だった。
「でも遠浅って普通、水際から海の方に向かってなだらかに深くなっていくもんだろ、って考えると‥‥‥綺麗に真っ平らな遠浅っていうのも不思議な絵だよなあ」
かつて街として造成され、実際に人が住んでいた地面がそのまま海底になった箇所である。
『海底』としては異常に平らだし、アスファルトやコンクリートが地面を覆ったままになってもいる。
そこに建物を建てた人たちは、まさかそこがそのまま海底になるなどとは夢にも思わなかっただろう。
「それに遠浅って言うほど浅くもないしな」
「そう?」
「定義がわからないから何とも言えないけど、『マーメイド』なしでもこの辺まで潜れるか、琴羽?」
「んー、まあ、真っすぐここに来るだけでいいんだったら、頑張れば何とか。でも素潜りだと本当に潜るだけだし、こうやってゆっくり観察するようなのはねー」
片手を繋いだまま、ふたりとも『マーメイド』を使っているから、十数メートル潜っているのに呼吸の心配をする必要はないし、あまつさえ海中で琴羽と喋ることすら可能だが‥‥‥なにしろ、ここは水の中である。
「で、今日は何を見に来たんだ?」
ねえ慶司、これから海行かない?
‥‥‥今日の授業が全部終わると同時に、琴羽が慶司の制服の袖を引いたのだ。
それが何を目論んでのことなのか、慶司は未だに聞かされていなかった。
「あ。やっぱ気になる?」
「それは一応。部活休んで来てるし」
勿論それが『単なるデート』であっても一向に構わないのだが、それならそれで‥‥‥急を要する案件も現状特にないとはいえ、活動をサボったことになっているアルゴノートの面々に対してどのような言い訳を用意しておくべきか、別途考える必要はあるかも知れない。
「ん。‥‥‥そう、ひとつは珊瑚」
「珊瑚?」
「もしかして、何年か経ったら、この辺も珊瑚礁になっちゃったりするんじゃないかな、って思ったんだけど」
地球環境の温暖化は現在なお進行中だ。
この国を彩る季節は春夏秋冬の四つあると巷間言われていたのも今は昔。春と秋は既に、半ば夏に喰い殺されてしまった。
以前の日本であれば沖縄から房総半島あたりまでの太平洋側、『所謂』付きの珊瑚礁は四国あたりまでが主な分布だったようだが、確かに、以前の沖縄のような珊瑚礁がこの辺りまで上がってくる可能性はあった。
「それなー‥‥‥確かに俺も、そのことはちょっと考えないでもなかったんだけど」
「あ、やっぱり?」
「地面がアスファルトとかコンクリートとかでも珊瑚ってちゃんと根付くのかな、ってところで思考が止まる」
「ああ」
珊瑚自体は植物でも鉱物でもなく、あれでれっきとした動物である筈なので、根から栄養が取れないと云々、のようなことはないだろう。天然の土や岩が土台でなければいけない、ということは恐らくない。
とはいえ、餌を求めて動き回る類の動物でもないから、ずっとそこに立っていられるのかどうか、の方は問題なのかも知れない。
「あとはほら、珊瑚の餌になるものとか、魚とかもな。‥‥‥っていうか、要するに生態系自体が変わっちゃってるわけだからなあ。珊瑚だけ昔のまんま、ってわけにいくのかどうか」
急激に海面が上昇する以前、あるいは人間が『メティス』に目覚める以前であれば‥‥‥今日は昨日の続きだし、明日起きることは今日の時点で大体想像がつく、と無邪気に信じることができたのだろう。
だが今、地球はそのように簡単な世界ではない。
‥‥‥メティスを、『この環境に適応しようとする人間が進化する過程で手にした力』だ、と言う者がいる。
では一体、メティスは人間をどこへ導こうとしているのだろうか。
今の時点ですべての人間を救えていないメティスで、果たして本当に、望まれる未来に間に合うのだろうか。
眼下。
忘れられた都に、色とりどりの珊瑚の幻を透かし視る。
仮にそれが埋葬の花であったとしても‥‥‥それは確かに、美しい光景ではある、のかも知れないが。
水底に沈んだ都市を見ていると、つい、そんなことばかり考えてしまう慶司であった。
「慶司」
琴羽が不意に、慶司の手を強く握った。
「なんか、よくないこと考えてない?」
「え」
「まだ何も聞いてないけどね、何となく、わかる気がする。それがきっと、理由のふたつめ」
「ふたつめ?」
そういえばさっき、琴羽はそんなことを言っていた。
ひとつは珊瑚。
「腐れ縁、ってさ。‥‥‥あたし今まで、泳ぐことに逃げて、澄之江に逃げて。何から逃げてるかっていえば、それは全部、慶司から、だったのに」
もういちど、ぎゅっと手を握る。
「でも今度は。流石にここまでは、海の中とかにまでは、いくら慶司でも追っかけて来られない筈だ、って。あたしの『マーメイド』、それでできること、できないことは、今から思えば、そこを基準に決められてた」
あり得ることだ、と思う。
‥‥‥ひとりにひとつだけの願いの力を無意識のうちに捧げてでも、琴羽は、慶司から逃げたかったのだ。
「なのに慶司はさ、よりにもよって『ジョーカー』なんて超厄介なメティス持って、澄之江まで来て」
どこか悔しそうに琴羽は呟く。
『ジョーカー』は特異なメティスだ。
触れた相手の持つメティスを複製する能力を持つ。
例えば、琴羽から『マーメイド』を受け取れば、まるで元々それが自分のメティスであるかのように、慶司は『マーメイド』を使うことができる。
今、ふたりが手を繋いでいるのは、万が一にも海中で『マーメイド』の効果を切らさないためだ。
「あたし結局、逃げられなかった‥‥‥というより、慶司が追っかけられるとこまでしか逃げなかった、の、かも知れない。もしかしたら、慶司はそれでも、こんな海の底にまでも、追っかけて来てくれるんじゃないかって、本当は思ってた‥‥‥期待してたのかも、とか」
てへへ、と琴羽が笑った。
悪戯が見つかった子供のようだ。
「それは無理ゲーにも程があると思うんだが」
言いながら、そういうこともあるかも知れない、とも慶司は思う。
例えば『アイギス』や『ペネトレイター』で直接水を押し退ける。あるいは、用法をイメージするのはそれよりも難しいが、『プロミネンス』をどうにか応用して、琴羽の水に干渉する。
そのようにして‥‥‥とにかく一度、琴羽を捕まえる、ということについてなら、多分、手持ちが他の能力でも何とかする方法はあるだろうと考えている。
だが、長期的にはそれではダメだ。
それらはいずれも、この琴羽を長い間捕まえ続けていることの手助けにはならない。ずっと『マーメイド』と共に在るには、どうしても『マーメイド』そのものが必要である筈なのだ。
しかし事実として、同じメティス波を持つ人間が偶然に複数名存在する確率は限りなくゼロに近い。
だとしたら‥‥‥慶司の願いを叶えるには、つまり慶司がそれからずっと琴羽と共に生きていくには、慶司のメティスは『ジョーカー』以外になかった。
「メティスっていうのは、さ」
また、嬉しそうに、琴羽が笑う。
「その人の心の奥にある願いと関係のある能力として発現する、っていうじゃない。ほら、あたしは『マーメイド』だったみたいに‥‥‥それと同じような感じで、慶司が『ジョーカー』だ、っていうのは、なんか、ちょっとわかると思う。で、例えばね、ゆっくり時間をかけて、この沈んだ街を見てたら、余計なことまで分析して、要らないことにまで気を回して、結局、何かよくないこと考えちゃったりするんだろうなー、っていうのも」
「あー、まあ、正解は正解なんだろうけど」
正直、あまり褒められている気はしなかった。
「あはは。‥‥‥うん。でもね」
空いたもう片方の手で、慶司の空いた手を取った。
「神様は、無限に優しくはないけど、だからって全部を取り上げたいわけでもなくて、誰かにとって本当に大事な、それしかないっていうものは、ちゃんと取っておいてくれてる。そういうことじゃないのかな?」
琴羽に『マーメイド』を。
慶司に『ジョーカー』を。
「だとしたら、この景色もそうかも、って。悲しいことばっかり考えさせるために世界がこうなったんじゃない筈だよって‥‥‥そういうの、誰か慶司に言ってあげた方がいいんじゃないかなって、ちょっと思ってたの」
多分琴羽は、今、慶司と同じ珊瑚礁を視ている。
「あたしは、終わってくだけのものとしてじゃなく、今から始まる何かの舞台として、この風景を見ていたい」
ただし、埋葬の花としてでなく、祝福の花として。
「そこまで思い詰めてたわけじゃないんだけどな」
急に照れくさくなって、足元から視線を外す。
「でもなんか、真剣な顔して、すごい難しいこと考えてそうな感じだった。ネジ一本だけでどうやって海面上昇を防ごうか、みたいな」
流石に堪えきれなかったか、ぷっ、と慶司が吹いた。
目前に現れたささやかな気泡は、澄んでいる筈なのに見通しの利かない、淀んだ青空のような水の色にすぐに溶け込み、あっという間に消えてしまう。
「うっわーハードル高いなー‥‥‥似たことは考えないでもなかったけど、使っていいのネジ一本だけかー」
「あはは。そんなの無理無理」
「しかも自分で条件持ち出しといてそれとかなー」
「慶司はいいの。『ジョーカー』なんて反則メティス使えるんだもん、それくらいハンデあって当然」
「いや、そうやって他の人が言うほど簡単でも便利でもないんだけど、みんな俺の『ジョーカー』を一体何だと思ってるんだ」
ふ、と息を吐く。
ぶくぶくと湧き出した泡が、また一斉に天へ向かう。
「それでね。宝石珊瑚と珊瑚礁って本当は別のものらしくて、本当にすごいのは何百メートルとか潜らないと手に入らないらしいんだけど。でも、それってさ」
「まあ『深海』そのものが年々拡大してるわけだし」
地球全体の海面が上がっているということは、元は浅かったところが深くなっている、ということだ。
『深海』に属する領域が増えれば、深海で育つという宝石珊瑚を目にする機会も増える。‥‥‥筈、である。
「そういえば昔、地中海の珊瑚は、確か水深三十メートルから五十メートルくらいのところで獲ってた、って何かで読んだ気がするな」
「ん。でもそういうのは粒も小さいっていうし、深いとこから大っきいの取ってくるの大変だと思うんだよ、普通だったら」
地中海の珊瑚は、素潜りで獲る漁師がいたそうだ。
それよりも深い所に生息する宝石珊瑚は、船で網を引き摺って、そこに珊瑚を引っ掛けるようなやり方で獲っていたらしい。
深海探査艇のようなロボットを使う方法論が普及してからはまだ日が浅かった筈である。
「‥‥‥琴羽だったら楽勝だな」
「まあね。『マーメイド』様々」
『マーメイド』を使った琴羽が直接深海まで潜って宝石珊瑚を獲る、というのは‥‥‥素潜り時代に戻った、と考えれば退化のようだし、『メティスを使った漁』と考えると進化のようでもある。なんだか不思議な感覚だ。
「でも琴羽、宝石珊瑚は育つのに五十年かかるとかも何かで読んだぞ。その‥‥‥間に合わなかったり、とか」
何に。
「え‥‥‥っと、だからそれは、もっと未来の何かの記念用ってことで、取り敢えず最初は、何でもいいから慶司が選んでくれると嬉しい」
何を。
「‥‥‥えへへ」
いちばん大事なところを飛ばしたままの言葉を交わして、次にふたりは、照れ笑いの顔を見合わせる。
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