不思議の国のウサギ。  


  

 遠い森の中に、夥しい数の赤い光が見て取れる。
 幻獣の瞳だ。
 距離。数。種類。勝利するために必要なありとあらゆる情報を、巨人の瞳は瞬時に読み取っていた。それは胎内に匿われた二人の戦士に逐次伝えられていく。
『頭数にして二十対一、か』
 厚志が呟く声は、スピーカー越しに‥‥‥やけに遠くに聞こえた。
「その程度か。どんな凄い大軍が控えているかと思えば」
 当たり前のように舞は言葉を返す。
 この声は、届いているのだろうか? いつも返事を聞いているくせに、今でも舞は時々、そんなことをふと不安に思うことがあった。
『ここに二十体幻獣がいるんだよね? 全部叩いたら‥‥‥えっと、ちょうど三百? あれ? 三百二、か三、くらいかな?』
 戦の場に踏み込んでいながら、まるで緊迫感のない厚志の顔が目に浮かぶようだ。そういう的の外れたところも、考えようによっては不敵極まりないところも、舞は最近、嫌いではなかった。
「舞うように死を呼ぶ美しき化け物、か。過去五十年で四名しかいなかった絢爛舞踏が、ここへ来て突然二人も増えるわけだ。まあ、実際それだけの幻獣の首を我らは狩ってきたのだし、絢爛舞踏章の発行は国連の権限だから、それ自体もはや国際問題ですらある。全世界的に人類側の士気を鼓舞する効果もあろう。無駄ではないな」
 実際は、『無駄ではない』どころの騒ぎではない。
 五十数年もの長きに渡る戦史の中にもたった四名しか叙勲を受けた記録がない絢爛舞踏章を、実戦に身を投じて二月ばかりの新兵が獲得する。
 そんなものは普通なら「夢物語」、でなければ「与太話」で片づけられてしまう話だ。クロールで空を泳いで月に辿り着く、と強弁するにも等しい。しかし彼らは既にその道程を泳ぎ切る寸前のところに辿り着いていた‥‥‥実際、戦士としての彼らが群を抜いて非凡であることも疑いようがなかったが、熊本防衛線を巡る攻防が、彼らのような年端もいかない少年兵たちにまで絢爛舞踏章に手が届くほどの異常な負担を強いていたことをも、その事実は証明していたのだった。
 達成されれば世界中の少年兵が胸を躍らせるだろう。勘違いした世界中の少年兵のうち何人かくらいは、何かの間違いで同じ地平まで駆け上がって来るかも知れない。そう、彼らは希望になるのだ。数え切れない幻獣の屍の上に人類の未来を打ち立てる力の体現者に。
「‥‥‥ふん」
 笑みすら浮かべて、舞は赤い光の群れを見つめる。
 熊本城掃討戦。彼我戦力差は二十対一。
 最早歴戦の戦士と呼んでも差し支えのない自分と厚志、そしてこの複座型士魂号にとってみれば、それくらいは別に、今までに何度も遭遇した程度の危地でしかない。



 それくらいは別に、今までに何度も遭遇した程度の危地でしかない。
 そこに慢心があったのだと後に舞は分析する。その分析が何故あの時点で行われなかったかと後に舞は後悔する。そうならないから慢心なのだ。結局、後悔とは、先には立たないものなのだ。しかし、そのたったひとつを学んだだけにしては、授業料はあまりにも‥‥‥あまりにも、高くつきすぎた。
 最初にそれを悟ったのは、本格的に戦闘が始まってすぐのことだった。左手の大太刀が幻獣の外殻の硬度に負け、傷のひとつもつけられずに折れてしまったのだ。それに、単発ではもともと大した威力もなかったジャイアントアサルトの弾ではあったが、全弾があっさりと外殻に弾き返されるのを見るのも初めてのことだった。有効なダメージを与えているようにはとても思えない。
 おかしい。外殻の硬度が違いすぎる。
『この‥‥‥ミノすけっ‥‥‥』
 速水の判断は速かった。全力で士魂号を後退させる。
 一瞬前まで立っていた地面に、凄まじい音をたてて空振りしたミノタウロスの豪腕が半ば埋まっていた。そのまま立っていたなら間違いなく頭から叩き潰されていただろう。喰らって試すわけにもいかないが、何やら威力が全然違うように思われた。
 幻獣の外殻がやたらに硬いのも、威力が妙に増しているのも、連戦に次ぐ連戦で彼らの駆る巨人が疲弊していたせいかも知れないし、幻獣が何かの手段で自分の強化を図ったのかも知れない。もしかしたら両方だったかも知れない。しかし理由が何であれ、この状況の中では、あの城の足元でさっきまでやっていたことと同じことを繰り返しても対応しきれないのは明白だった。
『逃げた方がいいんじゃないかな?』
 別に厚志は怖気づいたのではない。冷静に考えればそれが正解に決まっていると、舞にもわかってはいた。
「今更何を言うか。我らはここに立つことを自ら願ったのだろう? 退けるものか」
 だが、不安げな厚志の言葉を、敢えて舞は無造作に切り捨てた。
 自分の心の中でも静かに泡立っている焦りや苛立ちは、今は厚志に辛く当たることによって解消されようとしていた。そうしている間にも士魂号はじりじりと追いつめられていく。実際は、そんな感情の捌け口などを探すことに躍起になっている場合でもない。
「ちょうどいい。我らは囲まれている」
 視界に捉えた敵影を端からロックしながら、舞は戦場全体に視線を巡らせる。
 その視界の端で、ミサイルの射程範囲を紙一重で外れていた幻獣の瞳に、突然、赤い光が溢れた。顔から血の気が引くのがわかる。しかしもう遅い。
 横殴りに襲いかかった光条は機体のすぐ脇を掠めて通る。信じ難い反射神経で身を捩らせた速水の操縦によって直撃こそ免れたものの、身を捩ったことによって姿勢を崩した機体は吹き飛ばされ、何事か叫びかけていた舞は舌を噛みそうになる。
 装甲の表層が焼け爛れていた。直撃しなかっただけでも運がよかったが、それでも甚大な損傷を被った事実は変わらない‥‥‥掠めただけでこれか。いよいよ絶望的になる状況に、今の舞には舌打ちする余裕すらない。
『大丈夫?』
 厚志の弱々しい声が届く。
 照準を選択していたディスプレイに目を戻すと、既にあらかた狙いを定めていたミサイルの照準データがすべてリセットされている。ロックした時点とは立ち位置が違いすぎるのだ。
「私のことはいい。そなたはどうなのだ?」
 手短に返答しながら、舞は照準固定シークエンスをもう一度繰り返し始める。やり直しだ。
『うん‥‥‥』
 返答の歯切れの悪さに苛立った舞が何か言おうとするのと、正面モニタ一杯にミノタウロスの姿が映し出されたのが同時だった。
「危ないぞ速水! どこを見ておるっ」
 叫んだところで間に合うものではなかった。立ち上がった巨人の腹にそのミノタウロスの拳が突き込まれる。
 ただの一撃で擱座に追い込まれた巨人の胎内は赤い光と警告音の坩堝と化し、やがてその赤い光もぽつぽつと消えていく。
 ぎりぎりと奥歯を噛みながら舞は衝撃に耐えた。世界は守られる。我らによって、我らの勝手で世界は守られるのだ。頭の中で呪文のようにそんな言葉を繰り返し、遠のきそうになる意識を必死で繋ぎ止める。
「くううっ‥‥‥おい、速水? どうした? ‥‥‥どうした! 何か言え速水っ!」
 厚志は答えない。



「速水! そなたまさか、し‥‥‥死んだ、わけではあるまいなっ?」
 珍しく、取り乱したように舞が叫んだ、その瞬間。
 いきなり、目の眩むような強い輝きを足元に感じて、舞は目を細めた。目の翳した左手から‥‥‥その手首に埋め込まれた多目的結晶体を介して、舞の頭脳は勝手に厚志を読み取り始める。
 厚志の背中で何かが輝いている。
 翼? ‥‥‥あれが、力翼?
 今頃になってようやく、その白く禍々しい悪魔の翼を広げることを思い出した殺戮の申し子は‥‥‥額からだらだらと血を流しながら、付け根からウォードレスごと引き千切られてしまった両足の痛みに歯を食い縛りながら、それでも舞に笑いかけようとしている、ように舞には感じられた。
 あれは駄目だ。もう助かりはしない。
 舞の頭の中で別の舞が囁いた。
 必死に頭を振って、舞はその声を振り払おうとする。
「駄目だ! 許さん! そんなことは許さん! 私が、芝村が許さんと言っておるのだっ! だから死ぬな! 聞いているのか‥‥‥頼む、頼むから聞いてくれ! 私の許しもないのに死ぬな速水っ! 速水いいいっ!」
 死にかけていた巨人の胎内に、再び色とりどりの灯が蘇る。その理由は舞にはわからない。恐らくは厚志にもわからないのだろう。しかし、理由はわからなくても、地に膝をついていた巨人は再びその身体を立たせようとしていた。両腕に浮かび上がる意味のわからない模様が、速水の背負う力翼の輝きに呼応するように淡い光を放っている。その手が、なおも殴りかかろうとしたミノタウロスの太い腕をやすやすと受け止めた。まるで、子供の振り回す手を大人が捕まえるような簡単さで。
 厚志の左手が力任せに傍らのレバーを押し込む。制御席の強制降車レバーだ。それに気づいた舞が操縦席の強制降車レバーに手をかけるよりも一瞬早く、舞の身体はシートごと空中に放り出される。
 力翼の光から流れ込む速水のイメージがあっという間に遠くなる。病的な、白すぎる光を背にした速水の、唇の端から血が流れた。次に何かを言おうとしたその口から、塊のような大量の血が零れ出た。結局何も言えなかった速水は、それでもどうにか笑顔のままで、舞に向かって力なく手を振った。手のひらに光る模様が揺れて、舞の瞳に不思議な残像を焼きつけた。
「馬鹿者、この大馬鹿者っ! この危急の時に何をへ」
 あまりにも急激なGと、巨人との神経接続を終了処理なしに切断されたショックが、舞の体を乱雑に揺さ振った。あのへらへらした大馬鹿者をいつものように怒鳴りつけてやりたかったのに、最後まで言い切ることすら、厚志にそれをすべて伝えることすら許されなかった。
 ままならないことが多すぎる。
 これが、卑しくも『世界のすべてを敵にまわして戦える』と豪語した女の有様か。
 どれだけ自らを罵倒しようと、たった今、舞は無力である、という事実は何も変わりはしなかった。
「‥‥‥っ! ‥‥‥っ!」
 歯を食い縛るのに精一杯の舞を他所に、もう士魂号はその場に立ち上がりかけている。三体がかりで組み合ったままのミノタウロスが、力で劣る筈の巨人ひとりを抑えきれない。
 厚志の両足は切断されてしまっていた。今や誰にも操作されていない筈の巨人の脚は、遂にはしっかりと立ち上がり、大地を踏みしめる。まるで今、巨人自らが厚志を危地から救い出そうと最期の力を振り絞るように。
 マイクロミサイルポッドのハッチがすべて解放された。瞬時に四方八方へ撒き散らされた数多の凶弾は‥‥‥舞が射出されてしまった今、誰にも制御されていない盲撃ちであったにも関わらず、ひとつの撃ち損じもなく幻獣どもを叩き、打ち倒していく。まるで今、力尽き倒れようとする厚志と士魂号の心残りを、弾頭のひとつひとつがすべて承知してでもいるかのように。
「ああああああああああああああああああああああっ!」
 戦場から遠く離れた地面に投げ出された舞は、自分を縛りつけたシートと一緒に無様に地面に転がったまま、遠くで燃え盛る炎を見つめ、声の限りに叫び続けた。
 自分が何故、何を叫んでいるのかもわからないまま。



「アリスは死にましたがウサギは生き残りました」
『何だそれは。シナリオとは違うようだな』
「違います。しかし、彼らの力は既にして強大でした。最早我々の介入できるところではなかったと考えます。この際、現実は現実として受け止めるべきかと」
『ふん‥‥‥明日早々より絢爛舞踏章叙勲の推薦手続きに入る。両名に関する従軍経歴書と戦果資料は本日中にこちらへまわしておくように。それと、叙勲式典後に上級万翼長の葬儀が執り行われることになるだろう。後で弔辞を送っておく。目を通しておけ』
「はっ」
『もうひとつ。当面、ウサギは死なせるな』
「しかし、ウサギは戦車を嫌うかも知れません」
『戦争は慈善事業ではない』
「‥‥‥了解しました」



 地面のあちこちが抉れて地肌が覗き、木は倒れ、壊れた堀から溢れた水がささやかな池をかたちづくる。ひときわ大きなクレーターの真ん中で、座り込んだままの舞はあれからずっと膝を抱えていた。
 ずっと一緒に座っていようとしたらしいののみが三度ばかりクラスメイトに持ち帰られても、日頃無謀な突撃を舞に窘められている筈の壬生屋に、よりによって「あなたのような無謀な人に彼を任せた私たちが愚かでした」などと涙声で罵られても、何かの模様をなぞるように舞の背中を指で辿ったヨーコが溜め息をついてその場を立ち去っても、何か言葉を返すでもなく、ただ、そのままそこで膝を抱えていた。
 もう泣いてはいなかった。
 涙など、とっくの昔に枯れていた。
 ひとり脱出させられてしまった舞にはわからなかったが、そこは、厚志と舞の士魂号複座型が最期に立っていた場所だったのだという。
 伝え聞いたところによれば、最後の最後まで、彼らの巨人は幻獣どもにとって最悪の死神であり続けた。明らかに力負けしていた筈の左手は、その手で力任せに捩じ切ったミノタウロスの頭部を鷲掴みにし、太刀というよりは鉈のような、最初に折られて半分しか残らなかった右手の大太刀で、それでも別のミノタウロスを袈裟懸けに斬り下ろした壮絶な姿で、全身に淡く輝く異界の紋章を纏ったその巨人は、遂には絶命してさえも、幻獣どもに膝を屈しなかったのだと。
 そして、叩き潰されたコクピットの中で、厚志はとうに死んでいた‥‥‥馬鹿馬鹿しい、と舞は思う。どれだけ勇壮であろうとも、どんなに幻獣どもに恐怖を撒き散らそうとも、自分が死んでしまっては、結局何も残らないではないか。
 厚志が生きていた頃、舞は死ぬことなど畏れてはいなかった。畏れていないと思いこんでいた。それがとんでもない甘えであったことを、今頃になって舞は思い知らされた‥‥‥死ぬ、ということがどういうことなのか、舞にはちゃんとわかっていなかっただけだ。知らないが故に勘違いにも気づかないでいられる、幸せな子供であるに過ぎなかった。
 なくしたものが、大切な、とても大切なものだったことに、なくしたことによって気づかされた。
 芝村舞の人生の中でも、それが恐らく生涯最悪の発見となるのだろう。



「献花してもよろしいですか?」
 訪れた最後の弔問客‥‥‥善行は、相変わらず顔を伏せたままの舞の後ろに立って、そう言葉をかけた。
「‥‥‥」
 舞が何を呟いたのか、善行には聞こえなかった。
「すみません、よく聞き取れませんが?」
「好きにするがよかろう」
 少しだけ大きな声で、舞は投げ遣りに呟いた。
「結構。では好きにします」
 大きな花束を舞のすぐ傍らに置く。
 暫しの黙祷。
「善行」
 舞がその沈黙を破る。
「何でしょう?」
「速水は、何故死んだ? 何故死なねばならなかった?」
「‥‥‥道連れにしたあなたが悪いんでしょう、と言って欲しいですか? それとも、指揮官の私が止めなかったせいだ、と?」
「意地が悪いのだな」
「当然でしょう。自虐趣味にはつきあっていられませんね。世界のすべてを敵にまわして戦える、と豪語するなら、堂々と『貴様のせいだ司令』くらいのことは言ってもらわなければ張り合いがありません」
「そうだ。私は弱かったのだ‥‥‥速水にあんなに偉そうなことが言えるような強い者ではなかったのだ。私は無力だった。そう、絢爛舞踏を獲ったのは速水だ。あの勲章は私のものではない。済まないが、国連に」
「お断りします」
 あくまでも善行は冷たかった。
「絢爛舞踏章は国際問題です。そんなつまらない我儘で今更返上できる筈もない」
「しかし」
「複座型の戦果はパイロット両名に同時に累計される。国際ルールです。別に、何もおかしいことはありません」
 国際ルール。まるで何かの競技のようだ。
 その言葉の軽さが何だか悔しくて、膝の間に顔を埋めたまま、舞は唇を噛んだ。
「悔しいですか?」
「挑発か?」
「腑抜けた芝村などに何ができるというのですか‥‥‥と言いたいところですが、なにしろ、あの絢爛舞踏章を獲得した英雄ですからね。何かはできる、と信じるくらいの価値はあるでしょう。ですから、できれば早々に戦線へ復帰して欲しいのですが」
「できぬ」
「そうですか?」
「できはせぬ。私には、護るべきものがもうないのだ」
 吐き出すように舞が言った。
 沈黙が舞い降りる。



「『不思議の国のアリス』はご存じですか?」
 突然、善行は話題を変えた。
「知っておる。童話だろう」
 確か、キノコで背丈が伸び縮みしたり、トランプ兵士とクリケットをしたりする変な話だ。
「そうです。時計を気にする妙なウサギを追って、アリスは不思議の国へと迷いこんでいく‥‥‥あれは、アリス・リデルという七つの少女のために、即興で作られた物語なんだそうですね」
「だから何の話だ」
「即興、なんですよ。何か歯車が違っていれば、ああいう物語ではなかったかも知れないんです。例えば‥‥‥そう、例えば、不思議の国を作った彼らは、本当はウサギを殺してアリスを覚醒させようとしたのに」
 本当はウサギを殺して‥‥‥。
 本当は、殺される筈だったのは誰だ?
 初めて舞が顔を上げる。
「死んでしまったのはアリスの方だった、ようなことも、起こったかも知れません」
 死んでしまったのはアリスの方‥‥‥。
 死んでしまった、のは誰だ?
 憎悪に煮えたぎった瞳が善行を捉えた。
「善行‥‥‥善行! 貴っ様ああああああっ!」
 ただ膝を抱えて俯いていることに数日を費やした少女のものとはとても思えない速い動きで、立ち上がった舞の右腕が善行の胸倉を掴み上げる。
「いい顔だ。それでこそ、絢爛たる舞踏の人です」
 胸倉を掴まれても相変わらずの仏頂面を崩さない善行の後ろ、少し離れた位置に‥‥‥膝を突いて控えている新しい巨人の存在に、今初めて、舞は気づいていた。
「なっ‥‥‥」
「如何にあなたが絢爛舞踏でも、複座型の士魂号をひとりで振り回すのは無理でしょう。それでも三号機が複座型のままでは小隊の戦力評価が著しく下がります」
 そこにいる巨人に舞は目を奪われた。
 右手でほじくり出そうとでもしたのか、引っ掻いたような赤い筋が何本も残る舞の左手首で、多目的結晶体が僅かに熱を増す。
「士翼号、と呼ばれています。あなたが望むなら、あれがあなたの新しい力になるものです」
 それは、従来の単座型とも明らかに違うものだった。人の‥‥‥精悍な戦士のかたちにより近い、それでいて羽根でもつければ飛んでいってしまいそうなその姿は、明らかに、舞の記憶の中にはないものだった。
 値踏みするように、あるいは挑みかかるように睨み据える舞の視線を受けて、人間でいえば顔にあたる部分に彫り込まれた口のように見える何かが、笑った、ように舞には見えた。
 善行の胸倉を掴んだままの舞の右腕に奇妙な光が灯る。下手くそな落書きのようにも、何かの紋章のようにも見えるそれが、あの日は速水の腕で光っていたものだということを舞は知っていた。
「よかろう。善行、貴様に担がれてやる」
 低い、震えるような声で舞が呟く。
「つきあってやる、この地からすべて幻獣を狩るまではな。だが憶えておくがいい。もしも、この世の幻獣をすべて狩っても、それでも私が奴の名を‥‥‥速水厚志、この名を憶えていたなら」
 向こうで膝を突いていた筈の‥‥‥誰も乗っていない筈の士翼号が、僅か一挙動で善行の後ろに立つ。振り降ろされた拳が起こした強い風に、善行と舞の制服が音をたてて靡く。
 風が止んだ時、善行の頭上から振り降ろされた巨人の左拳と、目の前の舞が善行の頬に突きつけた左拳は、それぞれが、善行まで紙一重、のところにあった。
 顔色も変えずに眼鏡をかけ直す善行の頬を、冷たい汗が滑り落ちる。
「次は貴様だ。不思議の国とやらを作った者どもだ。見ているがいい、貴様らがその汚れた手で慰みものにした我らが、アリスの代わりに目覚めさせたウサギの正体を」
 舞の瞳から、一筋、涙が零れた。
 それは芝村舞が人間として流した最後の涙だった。



 壬生屋の一号機が無謀とも思える突撃。必死でそれを追いかけながら支援する滝川の二号機。何度も何度も繰り返された、いつもの戦場の風景だった。
 これは確かに芝村舞の復帰第一戦である筈だった。しかし、ここに舞の姿はないかに見える。
 また一機。ジャイアントアサルトに撃ち落とされたきたかぜゾンビが墜落する。
『滝川機、きたかぜゾンビ撃破』
 瀬戸口の言葉と同時に、幻獣が一斉に反転を始めた。退却するつもりだろう。
『敵増援実体化します。幻獣側、総数二十』
 ののみは別の事実を告げた。
「スキュラが来ましたね」
 スキュラと聞いて若宮は舌打ちを漏らした。しかしその傍らで、言った善行は特に慌てる風でもない。
 彼には確信があった。
「そろそろですね」
「何がです?」
「死神です‥‥‥総員に通達。今から状況が動きます。勝手な深追いは謹むこと。まあ、出したくても手は出せないでしょうが。では三号機」
『わかっておる。いいのだな、残りはもらうぞ』
 聞こえた声に、若宮が露骨に顔を顰めた。
「残り‥‥‥しかし、今増援が到着したばかりではありませんか、残りといっても」
『どうした、何か問題があるのか?』
「いえ。何でもありません。存分にどうぞ」
『了解した。芝村千翼長、及び三号機は、これより駆逐を開始する』



 そして、善行が「死神」と呼んだものが立ち上がる。
 実体化を続ける幻獣の群れの真ん中に、忽然と姿を現す士翼号の姿。
 実体化を終えた途端に退却のため振り返ったスキュラが、最初にその青い機体を射程に捉えた。だから、最初に死神の餌食になったのはそのスキュラだった。
 すぐにレーザー砲撃の予備動作に入るが、慌てた様子のスキュラを嘲笑うように、士翼号は立ち上がった姿勢のまま微動だにしない。やがてスキュラの瞳に赤い光が脹れ上がり‥‥‥視界の外、下ばかり見ていた上空のスキュラよりもさらに高いどこかから、とんでもない速さで落ちてきたウォードレスの超硬度カトラスがいきなり外殻に突き立てられた。
 バランスを崩し、空中で大きく傾いだスキュラは明後日の方角へその光条を吐き出した。ウォードレスはスキュラを蹴って再び宙へ身を踊らせた。やや遅れて、上空で爆発音。何故かスキュラは、濛々と黒煙を吹き上げながら墜落していった。
 今ここで何が起こったのか、それが誰にもわからなかった。仮に「カトラスで開けた穴に突っ込んだ手榴弾が爆発したからスキュラが墜落した」と本人に説明されても信じられはしなかっただろう。しかしそのウォードレスは実際に、目の前でそれをやってのけたのだ。
『ス‥‥‥スキュラ、あー、撃破されました』
 見てはいけないものを見てしまったような戸惑いが瀬戸口の声に色濃く滲む。
 しかし凶行はこれだけでは終わらない。ウォードレスが士翼号の左手に着地すると、続けて士翼号は‥‥‥なんと、そのウォードレスを幻獣に向かって放り投げる。
『‥‥‥何それ?』
 滝川が阿呆のようにぽかんと口を開けた。
 リテルゴルロケットをも凌ぐ勢いで、弾丸と化したウォードレスの握るカトラスはミノタウロスの首元に突き刺さった。もんどりうって倒れるミノタウロスの上に着地したウォードレスは、僅かに覗くカトラスの柄をその重そうな脚で力任せに踏みつける。それはずぶずぶと首に沈み、柄が埋もれて見えなくなった頃にはミノタウロスも絶命していた。
『善行司令、先程から気になっていたのですが』
 壬生屋の声だ。
「何でしょう?」
『あのスカウトは誰ですか?』
「芝村千翼長です」
『では、ではあの三号機には誰が乗っているのですか?』
「コントロールしているのは芝村千翼長ですが、誰も乗ってはいません」
 善行は答えた。事実だった。
『あの、意味がよくわからないのですけれど』
「もともと士翼号は自律制御能力を追求した半無人機です。人間の役割はフォロー程度で、士魂号ほどには肉体を拘束しません。直接乗らなくてもそのフォローが可能だということまでは私も知りませんでしたが、まあ、我々の目の前であの通りやってみせているわけですから、可能な人には可能なのでしょう」
『はあ‥‥‥?』
 釈然としない壬生屋の相槌がスピーカーから零れる。
 離れた場所でたった今ゴルゴーンの首を叩き落とした士翼号が、背後から舞に襲いかかろうとしたゴブリンリーダーめがけてその腕を振るった。腕は届きはしない。何もない空間をただ薙いだだけの腕は、だが、何故か、触れてもいないゴブリンリーダーの頭を粉々に粉砕する。
 振り上げたかたちで静止した腕に、その腕を追いかける淡い残像が追いついた時、腕に光っていたのはあの模様だった。帰投した来須とヨーコが互いを見やって小さく頷く。
 一挙手一投足まで完全に打ち合わされた殺陣のような、まさに「絢爛たる舞踏」の舞うが如き戦場を、彼らは呆然と眺めていた。確かに彼らには手の出しようがなかったから、見ている他にできることもなかった。そして終わってみれば、舞のウォードレスと士翼号は終始絶妙のコンビネーションを発揮し、二十対二、という圧倒的な数的劣勢など歯牙にもかけず、当たり前のように幻獣を破滅の淵へと追い込んでいた。
『駆逐を完了した。司令、撤収の指示をせよ‥‥‥ああ、どうでもいいが善行、ひとつ訂正しておく』
 舞の声だ。あの非常識な大立ち回りを演じた直後だというのに息も切らしていない。
「何でしょう?」
『士翼号は無人ではない。ハッチは開けておくから、見てみるといい』
 跪いた姿勢で停止した士翼号がハッチを開く。
 駆け寄った原や森がその中を覗き込んで絶句する。そこにあったのは、必死の形相でシートに爪を立て、しがみついたまま目を回しているブータの姿だった。
『言っておくが、私がそれを放り込んだのではないからな。そんな無駄なことを私がするわけはなかろう。大体私はまだ、その‥‥‥ちゃんと抱いたこともないのだ』
 舞にとっては、幻獣と戦うことよりも、そこにブータがいたことは自分の意図でない、と主張することの方が重要であるらしかった。延々とよくわからない言い訳を続ける舞は確かに普段の舞のようだったのに、
『きっと憶えているのだ。そこが居場所だったことを。私は思うのだが、だから多分、そやつも恋しいのだ‥‥‥』
 最後の最後にそんなことを呟くから‥‥‥兄を失ったあの日の自分のように、それきり何も言わなくなった舞が俯いている、ような気がしてしまう。
 芝村は大嫌いだが、自分のことは嫌えない。
 壬生屋は目を伏せる。



 小鳥を止めた宿り木のように、舞を左肩に腰かけさせた士翼号がビルの谷間に立っている。予想通りの地点に幻獣が実体化してくれば、まさにその目前に位置することになる筈の場所だ。
「そろそろか」
 呟く舞に、士翼号が頷いたように見えた。
 士翼号と舞がコンビを組んでから、もうじき一ヶ月が経とうとしていた‥‥‥その間に、あまりにも多くを殺しすぎたのだろうか。血も涙もない幻獣にも、恐怖の感情はある、ということだろうか。
 何もない空間を軋ませながら幻獣が次々と姿を現す。
『幻獣、実体化します。総数は十体』
 瀬戸口の声が聞こえた。
 しかし、姿を現した途端、赤い瞳を激しく明滅させた幻獣は、慌てて今来た道を引き返そうとする。
『幻獣が‥‥‥非実体化を始めました』
 ののみの声が聞こえた。
「嫌われたものだな」
 舞を肩の上に乗せたまま、凄まじい速さで群れの中に飛び込んだ士翼号が、別の地平へ逃れようとしたゴルゴーンの首を無造作に掴む。実体と非実体の境目が悲鳴を上げ、逃れられなかった首だけを残したまま、ゴルゴーンの亡骸が彼方へ消えていく。
 千切った首を足元に投げ棄て、更なる敵影を求めて舞が首を巡らせた時には既に、その士翼号に楯突こうとする幻獣の姿はない。
『芝村機、ゴルゴーン撃破を確認。‥‥‥あっ』
「どうした、ののみ?」
『あのね、今ね、舞ちゃんの通算撃破数がちょうど千機になったのよ。凄いね』
「ああ、そのことか‥‥‥訂正せよ。これで七百、だ」
 士翼号の肩、ちょうど腰かけた舞の脚の辺りに、渦巻く炎を纏い、大きな剣を振り翳した天使の意匠が四つ並んでいる。絢爛舞踏受章者を示すその意匠のうち、ふたつは速水のものだと舞は思っていた。自分で獲ったのは後の二つだけだ。
 だから舞は、自分の撃破数は三百ばかり余分に数えられている、といつも主張してきた‥‥‥だが、生涯に三百を撃破することだけでも、後に伝説として語り継がれるほど難しいことなのだ。
 それがこの短期間で七百。例え舞の言葉通りに戦果から三百を間引き、七百を記録と認めたとしても、だからといって舞の度を越した死神ぶりが色褪せるものではなかった。
 日本に出没する幻獣の数が目に見えて減っていた。そして大概は、この青い死神の姿を目にした途端、それさえも逃げ出してしまうようになっていた。いつしか舞の存在そのものが戦況を左右するまでになっていた。
 今や、日本軍とは芝村舞千翼長である、と言っても過言ではない。



「忘れてはいないだろうな」
 突然、舞がそんなことを口にする。
『ええ‥‥‥憶えていたいとも思いませんでしたがね』
 スピーカー越しの善行の声は相変わらず遠い。
「ならばよい。そう、あの話だが、順番を変えることにした。貴様は最後だ。その代わり」
『不思議の国とやらを作った者ども、ですか?』
「そうだ。洗いざらい喋ってもらおう」
『いいでしょう』
『え? 何? 何の話?』
 この世で最も新しい伝説の人は、最後に回線に割り込んできたののみの質問には答えることをせず、士翼号の肩の上でヘルメットを脱いだ。もともと小さかったスピーカー越しの声が、その一瞬後にはまったく聞こえなくなっていた。
 およそ表情というものがない顔の口元にだけ、酷薄な笑みのようなものが貼りついている。まるで、舞が凭れかかった士翼号の表情を映し込んだ水鏡のように。

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