救世主が国王宛てに出した親書は、出した本人も驚くような速さで返答を得た。
「‥‥‥あっという間でしたね」
「確かに。向こうさんも必死のご様子だ」
娼館リリウムの最奥、頭の部屋に集まった三人の前に、既に返信の封書が置かれている。
「念のため確認してくれ。これが本当にあの王様の手紙かどうか」
「確認するまでもありません。間違いないですよ」
救世主の従者はいとも簡単に太鼓判を押した。
「おいおい、随分話が早いな」
「聖女様に渡す前に安全を確かめるのもお付きの仕事でしたから。見分ける術は心得ております」
「ラヴィ同様、この封蝋の紋章には私も見覚えがあります。それに、この期に及んで私たちを相手に紋章を偽る理由もありませんしね」
「ま、そりゃそうか。それじゃ、ほい」
頷いて、不蝕金鎖の頭は救世主に封書を投げ渡す。
「はい?」
「はい? じゃないだろう救世主さんよ。あんたが書いた手紙の返事だ、あんたが封切って読むのが筋ってもんじゃないか」
「はあ‥‥‥まあ、それはそうですが」
確かに書いたのは救世主だが、その内容は三人で相談しながら決めたものだ。
特に相談もなく、救世主ひとりの考えで書き足した文言など、冒頭に添えた時候の挨拶くらいではなかったか。
「では、開けます」
以前教会で使っていたものに比べれば遥かに粗末なペーパーカッターで、救世主は封書の一辺を切り開いた。
引き出した便箋はそのまま机上に置かれ、三人一緒に上から覗き込むような格好になる。
救世主、並びに、この国に住まうすべての民に向けて、ノーヴァス王リシアの名のもとにこの書を記す。
此度の申し出に心より感謝すると共に、来たる会見においては王たる私自身が出向くことを、この書と、王たるの紋章をもって確約するものである。
ノーヴァス王家の代表者として、また、すべての国民の母として、この会見、そしてその後に続く様々な営みが実りあるものとならんことを、切に、切に願う。
救世主が王に宛てたものと同様、便箋にしたためられた言葉はごく短い。
違うといえば‥‥‥ひとつには、時候の挨拶すらも省かれた、完全に要件と署名のみの手紙であったことだろうか。
「書き出しをどうするか、あれでも私は結構悩みましたのに。返信は挨拶なしとは」
憮然と呟く救世主の脇で、思わず従者が吹き出した。
「あ。何ですかラヴィ、今笑いましたね? 笑いましたよね?」
「いえいえ、そんな滅相もございません‥‥‥ふふふ」
「ラヴィ‥‥‥」
「きゃあああごめんなさいいいい」
「おいおいご両人。遊びでやってるんじゃないんだぞ」
そのまま追いかけっこに発展しかねない目の前のやりとりに、呆れ顔の頭が肩を竦めるが‥‥‥まあ、それはそれでいいのかも知れない、とも思う。
本人のつもりをさて置けば、目の前のふたりはこうして遊んでいる方がまだ自然な年頃だ。聖女だの救世主だの、過分な肩書きと格闘するのが似合いだなどと言ってしまっては気の毒に過ぎる。
そう思うだけの余裕が今の頭にはある。
趨勢は定まってはいないが、しかし基本的には、そうしたことを『気の毒』と言っていい時代が、この牢獄にも来ている筈なのだ。
「それはそうと、これ本当に王様本人が書いたものなのか」
窘める代わりに、話を前に進める。
「さあ、どうでしょう。それはわかりません」
対して救世主は、ごくあっさりと自らの不明を口にした。
「王からの親書は確かに何度か頂戴いたしましたが、厳密にいえば、それらはすべて先王からのものです。現王が即位なさったのは二十九代が処刑されてからですし、男児でなかったせいか立太子礼も行われなかったように思います。となると、即位される以前には公的なお立場のないお方だったことになりますから、聖女様宛てに親書をしたためること自体が許されていなかった可能性がありますね」
「ふむ」
従者の補足は的確で理に適うものだった。
「とはいえ、封蝋の紋章は確かに本物なのですから、書いたのも王か、あるいはその意を得た者に相違ありません。紋章の真偽に関する見解が定まっている以上、その先はあまり疑う意味のないことです」
「つまり、この手紙を書いたのは本人である、と」
「そう考えます」
「職人の腕がよきゃあ、このくらい複製できそうなもんだと思うが」
摘み上げた封筒の方を眺めやって頭が呟く。
「それはまあ、出所不明の『王の親書』が、例えば牢獄のどこかから突然出てきたのなら、親書を偽る何かである可能性も幾らかはありますが‥‥‥不蝕金鎖の使者の方は、私の手紙を直接王城に持ち込まれたのでしょう? では、その返信が偽造されたものだとしたら、偽の紋章を持つ者は、王と一緒に、王城の中にいることになります。その背信、王家は赦さないでしょう」
「付け加えれば、王城にも教会にも縁のない者には紋章の意匠を目にする機会がありませんから、模造も難しいと考えるのが現実的です。現に今、ジークさんに真贋が見分けられないという事実と、それは同じお話といえますよね」
「なるほど。お説はごもっともだ。‥‥‥そういうことなら、改めて中身の話といこうじゃないか」
「まずは状況のおさらいだ。今現在のことだけをいえば、表向き、地理的な力関係は逆転していると言っていい」
今は目の前にいない、幼い王を試すように、頭はすっと目を細めた。
「外の世界にいちばん近いのは牢獄なんだから、奴らが作った関所自体を手に入れるか、あるいは関所のこっち側にもうひとつ関所を作れば、下層や上層だった場所は纏めて袋小路になる」
「しかしそれなら、牢獄を通過しないで地上と下層を行き来する手段を用意すれば済む話です」
「それから、先日カイムさんが話されたことによれば、ノーヴァス・アイテルは天使様の加護を半ば失っています。井戸水の浄化も天使様の御力によるものだったとするなら、これから慢性的な水不足に陥る恐れがありますし、そうなれば、水の埋蔵量の違いから、最初に困るのはまたも牢獄、ということにもなりかねません」
「そう、水は‥‥‥街の外は見渡す限り草原ですが、どこを掘っても井戸水が湧く、というものではないでしょう。場合によっては当面、水の浄化のために、天使様の御力について研究していたという技術の助力も要るかと」
「ま、その点、俺たちの見解は一致しているようだな。何はともあれ水が行き渡ることが最優先。そして、順風満帆そうに見えるが実は意外に時間がない、それも嬢ちゃんたちのお言葉通り」
言いながら、頭は既に幾つか手を打っている。
例えば、不蝕金鎖から人を出して、外の手近な地面を掘り返させている。地質や水脈について調べるためだ。
とはいえ。
「だがなあ。肉体労働だけでいいなら頭数は何とかするが、何分、牢獄民には学がない」
闇雲に掘り返せばいいというものでもないのは承知の上で、しかし今は、とにかく闇雲に掘り返すしかない。
不蝕金鎖を束ねる頭として、今はそのあたりが頭の痛いところだ。
「知恵は借りられましょうか」
「心配ないだろう」
無視を決め込むつもりでいるならそもそも返答を寄越すまい。
この期に及んでなお牢獄を軽んじる王なら、会ってやるから王城に来い、とでも言うだろう。
だが実際の王は、今は皆が手を携え、全員で前に進むことが重要だと考えている筈だ。故にこそ、いの一番に『私が出向く』と伝えてきたのだ。
「『すべての国民の母として』、なんていつか言ってたよな、あの王様。ありゃあ案外本気でそう思ってるのかも知れん」
それと同じことは、受け取った親書の中にも書かれていた。
「牢獄代表として、長年虐げられてきたことに対する落とし前までご破算にする気はないが‥‥‥しかしそれはそれとして、あの王様には末永く頑張って欲しいところだな」
「それで‥‥‥その王様との会見を明後日に控えようかというこの大事な時期に、カイム様は一体どちらへ?」
心配げな顔で、侍女が話を変えた。
「あれ、やっぱり聞いてなかったのか?」
対して不蝕金鎖の頭は、何か意外そうな顔をふたりに向ける。
「ほらこの間の、あの夜の話の後な。すぐに出ていったよ。外へ」
「はい?」
「外へ。牢獄の外へ、だ。何でも、見渡す限りの麦畑を夢で視たから、見渡す限りが麦畑になる場所を探しに行く、とか何とか」
「‥‥‥夢? 何ですかそれは?」
救世主は怪訝そうな顔をするが、
「天使様の夢を視ましたって大騒ぎしてたあんたの言葉とは思えないな」
「あ」
そう言われてはぐうの音も出ない。
「一応尾行はつけるように言ってあるし、あいつが望むならヒトでもモノでも出してやる。だがそれだけだ。次にいつ帰ってくるのか、そもそも帰ってくる気があるのかどうか、そんなことは俺も知らん」
「そんな。親友なのでしょう? いささか冷たいのでは」
「親友だからこそ、だ。あとは、あいつが時々火酒の味でも思い出しに寄ってくれれば、他に俺から言うことは何もないね」
どんなに荒唐無稽なことであれ、他ならぬ親友が自分で決めた生き方だ。
「だから実は、この三人で牢獄側の頭数は揃ってるのさ」
振り返った頭は窓の外を一瞥し、
「せっかく集まってるんだ、もう少し細かい話もしておこう。まずこっちからの提案についてだが‥‥‥」
それから改めて、救世主とその従者に向き直る。
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