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 昨夜。 
 つまり、ノーヴァス・アイテルが地に堕ちた、その翌日の晩だ。 
 呼び集められた者たち、即ち救世主とその従者や、ヴィノレタの主人にして不蝕金鎖の頭や、呼ばれはしなかったが押し掛けてきた女医らに対して語られた、彼らのよく知る男が上層や城内で見聞きしたという『真相』のすべては、その全員を何度も何度も驚愕の淵に落とし込んだ。 
 ノーヴァス・アイテルは何故浮かんでいたのか。 
 大崩落やヴィノレタの落下が、何故、誰によって引き起こされたのか。 
 度重なる政変とそれらの事象はどのように結びついているのか。 
 そのノーヴァス・アイテルが地に堕ちたのは何故か。 
 『天使』とは何なのか。 
 ユースティアとは何だったのか。 
 そして、そのユースティアは一体どこへ行ってしまったのか。 
 どれをとっても、水や茶の代わりに火酒を呑んでいるだけで酔っぱらえるような生易しい話ではない。 
 それでも彼らが話をどうにか理解の範疇に押し込めることができたのは、恐らく、話の輪の中に第二十九代聖女イレーヌがおり、聖女の祈りとノーヴァス・アイテルの浮遊が無関係であったことが、彼女の経験として既にある程度伝わっていたからであろう。 
 そうでなければ‥‥‥今、見渡す限りの草原の只中に置かれたようになっているノーヴァス・アイテル、という景色を前にしてすら、ただ語って聞かされただけでは俄かに信じづらい話であった筈だ。 
 
 
  
 それぞれがそれぞれなりに眠れぬ夜を過ごし、明けて翌朝、日が昇る前にリリウムを訪ねて主人と幾つか言葉を交わすと、それきり男は姿を消してしまった。 
「おい、行っちまったぞカイムの奴。追いかけなくていいのか?」 
 だから主人は真っ先に女医の家を訪ねたのだが、 
「どうして?」 
 まあ、その女医と話す時は大体いつもそんな風ではあるのだが‥‥‥それでもやはり、主人としては、いつもの調子で話の接ぎ穂を切り捨てられてしまったことに、少しの戸惑いを憶える。 
 
 
  
「どうしてって、だってお前カイムのもんだろう? 言えば真っ先について行くかと思ってたんだが」 
「お金なら返したわ。この街が地上に降りた日の朝、上でカイムに会えたから」 
「返した‥‥‥だと?」 
 女医がそのために金を貯めている、という話は、主人も小耳に挟んではいた。 
 身請けされた女が、身請けした男に、身請けに掛かった費用を返却する。 
 前代未聞の珍事だが‥‥‥なんとこの女、本当にそれをやってのけたと言っている。 
「だから私、もう『カイムのもん』ではないの」 
「いやまあ、返したんならそりゃそうなんだろうが‥‥‥何かないのかよ、こう、アレだ、ほら」 
「恋愛感情みたいな?」 
「そう、そんなような奴だよ」 
「長年一緒にやってきたことだし?」 
「そうそう」 
「ないわね、別に」 
 この期に及んでなお、切れ味の鋭さは折り紙つきの女医であった。 
「あなたの言うことにしては少し回りくどいんじゃないかしら」 
 ふ、とひとつ息を吐いて。 
「心配してるのはあなたであって私ではない。要するに、私をカイムについて行かせて、面倒を見させたいんでしょう? あなたが」 
 それから女医は、机上の薬剤に向けていた目を、ようやくヴィノレタの主人に向ける。 
「面倒見るのがどっちかっていう問題はあるが、確かにまあ、大方はそんなところだ」 
「でも、必要ないから、カイムは私を連れて行かなかったんでしょう?」 
 その女医の瞳をして、いつか男が『古井戸を覗いてるみたいだ』と表現したことがあった。 
 ‥‥‥ああ、これが『古井戸』なのか。 
 心の中でだけ、主人はひとつ舌を打つ。 
 
 
  
 本当は少しだけ違っていた。 
 考えや想いが透けて見えない深みについては変わりないが、あの男が見つめた『古井戸』は、今の彼女の瞳のように澄んではいなかった。 
 だがそれは、あの男でなければ気づきようもないことだ。 
 
 
  
「ね、それより私、料理人になってみたいんだけど」 
 多分、今朝になって女医の家を訪れて以来初めて、女医の唇が笑うかたちに持ち上げられた。 
「今度は何だ藪から棒に」 
「だから料理人。メルトが毎日楽しそうにやってたからちょっと気になって。医者はもう結構やったし、専業でないからといって何か困るものでもないし。あの小動物より美味しいものが作れない自分っていうのもちょっと癪だし」 
「いや、まあエリスの人生なんだから、それは好きにすればいいと思うが‥‥‥だが残念ながら、俺が知ってる連中の中には、お前に今すぐ料理を指南できる奴はいない」 
 ヴィノレタを切り盛りしていたメルトは店ごと牢獄の崩落に巻き込まれた。 
 聞いた通りなら『この世界とひとつになった』らしいユースティアは、それ故に、人間としての身体を喪ってしまったそうだ。 
「王宮の料理人とかは? あ、ほら、ルキウスって貴族の家の料理番とか」 
「それこそカイムに頼んだ方が話が早いんじゃないのか? それと、ルキウス卿の家系は恐らく取り潰しになる。料理番がどうなるかなんぞ見当もつかない」 
「む‥‥‥残念」 
 だが実は、言うほど伝手がないというわけでもない。 
 カイムがよく通っていたという下層の居酒屋には、そのうち好きに出向けるようになるだろう。 
 羽狩りの女隊長のコネを使って、王城に縁のある料理人を紹介させるのもいい。 
「なあ、エリス。なんで今更料理人なんだ」 
 やや真剣な表情を作って、主人は女医に問う。 
「別に、料理人でなければいけない、ということはないけど」 
 珍しく、その時の女医は目を逸らさずに話を続け、 
「医者になって稼いだお金を返すことで、私を医者にしてくれたカイムへの義理は果たせたと思う。だから今度は、カイムが知らないやり方で、きちんと身を立ててみせないと‥‥‥人として、カイムやあなたと同じところへは、まだ行けてないような気がするっていうか。あとは」 
 そこまで喋ったところで、何か思い出したように視線を外し、 
「あとは、メルトみたいな女になってみたかったっていうのも」 
 語尾に近づくに従って明瞭さを失う声は、 
「そういうのも、ほんの少しは」 
 最終的には『声』というより『音』のようになってしまった。 
 
 
  
「‥‥‥そうか。ま、気持ちはわかった」 
 そんな女医の肩を何度か軽く叩いて、 
「俺の方でも少し当たってみるが、あんまり期待はするなよ。じゃあな」 
「ん」 
 ヴィノレタの主人は、もしかしたら後に新しいヴィノレタの看板を担うかも知れない女の部屋を辞する。 
 
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